誰もいない空間で考える。


ひとりで。


今、此処にディスはいない。
ただ彼女が不在なだけでも酷く静かで、ひとりでない日々に慣れてしまっている自分がいることに気づいた。

……どうも、この状況に違和感を感じて。
そんなことを考えている俺は、随分変わってしまったなと少し思う。

全ての始まりは言うまでもなく。公園での出会いだ。
あそこからズレていった。少しずつ、しかし確実に。
俺の持つ価値観や常識が、いくつも引っ繰り返ってしまった。

最初、あの姿を見た時。
物凄く"遠い"印象を受けた。届かない、という思いが強く頭に浮かんだ。
何故そんな風に思ったのか、しばらくわからなかったけれど。
ある程度関わり合って、ああ、そうか、と納得した自分がいたのを覚えている。

それは、ほんの僅か前のこと。
彼女に俺を晒した日より、前のこと。

気づけば、もう戻れないほど互いに近づいていた。
きっと。知ってしまったから、一歩たりとも下がれない。


いつの間にか、彼女の存在は、俺にとっての"支え"になっていた。
話を聞いてくれる相手。新たなことを教えてくれる相手。
…………それだけではなく、居るだけで有り難い存在として。

だから。"何かをしたい"というこの気持ちは、不思議と嫌に感じないのかもしれない。

自身に問う。
彼女の望む答えの在り処を。
死神に、心は必要なのか否かを。

「………………駄目か」

わからない。
そもそも、何故、人間には心があるのだろうか。
ただ生きていくだけなら、全く必要ないモノなのに。

…………人だけではないけれど。最もわかりやすいカタチをしているのが、おそらく人間の心。
生物の中でも特に発展した、喜怒哀楽を越える感情。

それがあるから、争うのに。すれ違うのに。
何故。人間は心を持って生まれてきてしまったのか。





この問いは、思ったよりも難しいようだ。




















disintegration-1




















いつもより早く家を出た。
登校ルートにはない、公園を通るために。

この辺りは駅も遠く交通の面で言えば不便な場所だ。
だからだろうか、あまり人の姿を見ることはない。
ましてや今は朝。社会人が仕事に出るには若干遅い時間なので、どうも寂しい景色。
自動車の類もそう多くは往来せず、随分と静かだと思う。

町の中心からほんの少し外れただけで、こんなにも違うのだ。
異世界のよう。何処かに境界線があり、そこを境目にして分かれているのかもしれない。
見えない壁。けれど、確かな壁。

人間は群れて住むのに、協力して生きていくのに、必ず他人に立ち入れさせない部分を作る。
多くの人が通るところ。一部の人のみが入るのを許されるところ。そして、誰も進ませないところ。
なるべく自然に、そこから先へ踏み入られないよう存在するライン。

線がなければ、もっと簡単に解り合えるだろう。
でも俺達はそれを望まない。…………理解されることを、どこかで拒否している。

他人を理解しようとするのは時に傲慢とも取られる。
軽々しい気持ちで、安易な考えで、触れようとはしてほしくない。

……誰だって。そんな考えを、抱いている。
傷つくことが怖いから。きっと、俺はそうだ。

「…………ん?」

そこまで来て、何かが引っかかる。
あとほんの少しで答えが出そうな気がしたんだが――――――


自然、足が止まった。
目的地に着いたからか。上の空だったのに、身体はよくできていると改めて思った。

静寂しかない空間。
踏み出した靴が砂と擦れ合う音さえも、耳に痛い。
小鳥の一匹たりとも見当たらない光景は、どことなく異常にも見えた。
けれどそんな偶然もあるのだろう。…………言ってしまえば、世界には偶然しかないのだろうから。

此処は変わらない。
変わっているのに、変わらない。

目を閉じれば、浮かび上がる記憶は鮮明だ。
あの時のまま俺の中では止まってしまっている。この場所の印象は。

ふと、思い出す。


どうして彼女は、ずっと悲しそうな顔だったのか、と。


放り投げられた何気ない疑問。
それは波紋のように広がり、意識を沈ませる。

言うまでもなく、彼女にも抱えるものはある。
何であるかはつい先日聞いたばかりだ。闇にも近い感情。
世界の、痛みを背負うモノ。誰にも理解できないモノ。
そういう在り方そのものを、おそらく彼女はずっと自分に問うてきた。

教えてくれる存在がいなかったのだろう。
…………いや、教えられるべきことではない。
自分自身で見つけ出さなくてはいけないのだ。

「俺も、同じか」

見つけ出す、という意味では。
結局、誰もが最後は己の手で叶えることなのだから。


公園を発つ。
居た時間はさほど長くない。この程度なら遅刻も有り得ないはず。



何となく、またな、と口ずさんで歩き始めた。










来てみれば教室は相変わらず無人で、中途半端に入り込む陽射しが眩しかった。
椅子に座れば冷たい感触。その心地良さも変わることがない。

今日も世界の一部になる。
景色ではなく空間を全身で感じる。目を閉じながら、観測。

まっさらに澄んだ頭の中で。
既に焼きついた教室の姿を一瞬浮かべ、あの公園を思い出し、


他の何より変わったのは自分なのだと、強く自覚した。


二週間。たったそれだけの経過で、人とは大きく揺らいでいくモノらしい。
ただ此処にいるだけでも、今までとは全てが違う、そんなことを考える。

変わるというのは、つまりズレるということだ。
過去の自分から先の自分へと、少しずつ。
気づいてみれば、目に見えてわかるほどの差ができる。塵が積もり山となるように。
そして、出た結果が当たり前になるのだ。辿り着いたその場所にいることが。

後悔はしていない。この点に関しては、する気にならない。
単純に俺は「変わってもいい」と思っている。「それでいい」と認めている。
誰のためか。敢えて言うなら俺のためで、もうひとつ言うなら、彼女、ディスのため。

何故。疑問も湧いてくるけれど、案外あっさりと答えは出る。
見せてくれたから。なら、俺はきっと変わるべきなのだ。でなければ、彼女の言葉は行き場を失くしてしまう。


そこまでで、思考は一度ストップ。
扉を開く音と共に、人が此処に訪れた。

「…………あ、」

どこか呆けた声に振り向くと、立っているのは校倉。
少し前にも同じようなことがあったな、と回想して、苦笑した。

「おはよう、校倉」
「…………え、あ、おはよう、月次くん」

戸惑いを含みつつも返される挨拶。
その反応で、俺は自分の取った行動に気づいた。

自然に出た言葉。
それは、ついこないだまで当たり前のようにしていなかったこと。
他人に伝える行為を避けていた、これまでの自分ならまず出さなかったひとこと。

俺を知っている人から見れば、それは驚きに値するのだろう。
長く、あの日からずっとこうしてきたのだから。

彼女は鞄を机の横に掛け、腰を下ろした。
聞こえるのは薄い吐息。それから、立ち上がって窓際まで歩いてきた。
陽射しが校倉を正面から照らす。僅か眩しそうに両の目を細め、けれど視線は外に向いたまま。

「……月次くん」

呼ばれる。
ん、と返事かどうかもわからない声を出して、俺は彼女の姿を見た。

続くはずの言葉はなかなか来ず、どこか居心地の悪さを感じる。
だから、俺も立って彼女の隣に行った。苦し紛れの行動。

でも、それが鍵だったのか。
視界の端に映る彼女がまた口を開く。

「やさしく、なったね」
「…………え?」


不意打ちだった。
そんな単語を聞けるとは、全く欠片も思っていなかったのだ。

「こんなこと言うと、怒るかもしれないけど。月次くん、前と比べて優しく見える」
「…………………………」
「いるだけで辛そうな顔じゃなかったから。なんだか、満ち足りてるように思えたから」

耳に入る音を判別、反芻する。
優しい。満ち足りてる。…………それは、少なくともこれまでの自分の評価としては間違った認識だ。

でも、今は、どうなのだろうか。
俺は、そんな風に変わったのだろうか。

校倉は笑っていた。
陽射しで白く染まる横顔は、確かに微笑んでいた。

それを見て、彼女の言葉は嘘じゃないと信じられた。
きっと。校倉こなたという人間は、そういうようにできている。

「…………どうして、そう思ったんだ?」

訊ねる。
何となく。俺の望む答えが返ってくるような気がして。


「だって、今わたしは嬉しいから。そんな月次くんを見て、嬉しく感じるから」


当たり前だという声色。
こっちが少し気恥ずかしくなるくらいに、迷いのない言葉。


だからこそ。

「…………校倉、ありがとう」

それは、とても有り難かった。


「……えと、どういたしまして」

あと一歩ではあるけれど、問いに対する解答がわかったと思う。
どうして死神には、人間には心が必要なのか、俺なりの意味が。



他の生徒が来るまでの間、俺と校倉はずっと外を眺めていて。
下のざわめきと共に、いつもと違う朝の風景は終わりを告げた。





家に帰るまでには、この気持ちをカタチにしよう。


死神の少女へ、返答をするために。