ふとすれば見逃しそうなところに、それは飾られていた。 部屋の隅、スポットライトの光が薄く届く壁。 ちょうど目線と合う高さで、額縁に入ったモノクロの絵を見る。 作者は白夜色、とある。まだ忘れてない名前。 審査員特別賞だかなんだかそういうのを取ったらしく、名前のすぐ下に変なのがくっついている。 芸術センスのあまりないわたしにはよくわからない。でも、単純に、綺麗だと思う。 ありふれた風景画だった。 独創性は全くないし、かといって珍しい手法なわけでもない。 枝を晒した木。落ちて重なる枯葉。透明な空と木漏れ日。 端には女性が座っている。視線は遠くにあって、緩く微笑んでいた。 工夫も何もそこにはない。 ただ、ありのままだった。全てが彼らしかった。 周りの思考が煩わしくても、この絵に込められた声には叶わない。 ほんの少しだけ目が潤みそうになり、ぎゅっと強く閉じてから左手で拭った。 「…………本当、素敵だね」 瞼の裏に焼きつける。 きっと、長い間、忘れることはないだろう。 それだけしっかり伝わってくる。ここにあろうとしている。 目的を達成したので、帰ることにする。 満たされた気持ち。自分に何かができたというのは、とても有り難い。 こうしてわたしは、小さな絵画展の会場を後にした。 何年かして、こじんまりとした彼のアトリエを訪ねることになるのは、また別の話。 僕が今見ているのは、白と黒だけの、でも、極彩色の風景。 筆を取り、画板を立てて、手をつける。 線を重ね色を塗り世界を形作っていく。 他のどこにも意識は向かず、集中力は微塵も揺れない。 食事も忘れ、睡眠欲すら感じずに、納得いくまでずっと。 時間の流れも、空の移り変わりも、何もかもが二の次だった。 結局、次の日の朝に完成した。 終わってすぐ、布団にばたんと倒れて半日寝続けた。 それから起きて、しばらくどうしていたかはあまり覚えていない。 ぼやけた頭でも食事はしたらしく、台所に鍋と皿が積まれていた。 流し場を片づけて手を良く拭いてから、画材を元のところに仕舞う。 ごちゃごちゃしていた絵周りが次第に簡素になっていく。 僕が腰を下ろした時、そこに残っているのは描き終わった絵だけになった。 これ以上ないくらいの達成感。 じわりと湧いてくる、例えようのない嬉しさ。 「…………できたんだ」 言葉にするとさらに実感を帯びる。 直す部分も、付け加える部分も見つからない。 自分の全てを注ぎ込んだ、今までで最高の作品。 終わってみると案外呆気ないもので、しかしそれでいい、と思う。 こうしてきたことも、ここにあることも、何もかもその絵が証明してくれる。 少しだけ、疲れた。 まだ眠り足りないらしく、身体は布団に入ることを欲している。 別に逆らう理由もない。今日は大人しく眠気に従うことにする。 最後に自問してみた。 僕は明日からまた、筆を取っていけるだろうか。 答えはなくても、この心は描きたいと。そう言っていた。 馴染みの背中を見る。 ちょっとだけ汚れた白衣。首の辺りで結ばれ腰ほどまで伸びている黒髪。 本人は気難しそうな、相変わらずの仏頂面でデスクワークをこなしている。そんな姿を滑稽だと思ってしまうのはまずいだろうか。 わたしはただ、その後ろ姿を眺めていた。 そういえばここに来るのは二ヶ月ぶりくらいかな、などと他愛のないことを考えながら。 アナログ時計の短針が9から11まで動いた頃、割と機敏な動作で目の前の人は立ち上がった。 二時間程度ではさほど疲れないのか、軽く首を捻ったあと、何事もなかったかのようにわたしの隣に座った。 ちなみにわたしがいたのはベッドの上。丸椅子の余りはあったけど、何となくこっちの方が良かった。 「お疲れ様、静雨くん」 「……ありがとう。待たせてしまってすまなかった」 「あ、いいのいいの。勝手に待ってたのはわたしだし。コーヒーでも淹れよっか?」 「そうしてくれると嬉しい」 奥の部屋に行ってカップをふたつ取り出す。 何度もやっていれば慣れたもので、どこに何があるかは把握していた。 扉越しに、細い溜め息が聞こえてくる。 最近忙しいのか、机の上の紙は随分多かった。 ……それがいいことなのかは、わからない。 こぼさないよう慎重に持ちながら彼のところに戻った。 そっと手渡し、またベッドに座る。心地良い柔らかさ。 「……疲れてる?」 「大丈夫だ」 「蘇芳くんいないけど……」 「所用で半月ほど休暇を取っている。普段休まない彼からの要望だったからな」 「確かに、仕事だけじゃなくて家事の類もやってるからね……」 だからいつもより大変そうなのか、と今更理解する。 目の下の隈が前見た時より濃い。きっと睡眠時間は三時間くらいなんだろうな、なんて想像がついた。 「……しかし君がここに来るのは久しぶりだ。どうした?」 「あ、いや、静雨くんの顔を見に来たの。最近会ってないなぁ、って思ったから」 「そうか。…………だが、それだけではないだろう」 「……はぁ、よくわかるね。わたし相手じゃ"視えない"はずなのに」 「勘だ」 「なるほど」 彼が持つカップが湯気を立てている。 猫舌なので、熱いものを飲む度しばらく置いておくのだ。 ブラックは飲めるのに熱いと駄目。そのアンバランスさは正直、ちょっと可愛い。 もちろん本人にはそんなこと言わないけど。 「…………世界は、優しいよね」 「何故そう思う?」 「わたしにだって、何かをするチャンスを与えてくれるから」 「……辛いか?」 「ううん。わかってるでしょ、随分昔に折り合いはつけたもの」 「…………そうだな。君はそんなに弱くない」 ささやかな笑顔を向けられた。 ふとすれば見逃しそうなくらいわかりにくかったけれど、それが彼の優しさであることは知っている。 それからどうでもいい会話をして、別れた。 また近いうちに来ようと、何となく誓った。 さほど有名ではない絵画展に出展しようと考えたのは、一週間を過ぎてからだった。 初めてのことでかなり緊張はしたが、送ってしまえば関係ない。 自分の絵がどう評価されるのか。 つまらない、と切り捨てられてもよかった。 ただ、少しでも多くの人に見てもらいたい。伝えてみたい。 そんな、懐かしいような気持ちを抱いた。 数日の後より。 大層な肩書きの賞をもらった僕の絵が、展示場の隅に飾られるようになった。 いつか、限界を思ったことがあった。 どこが僕の終わりだろうかと。考えても答えは出なかったけど、代わりに今、絵を描きたいという衝動がある。 僕は黒と白以外の色を知らない。 赤や青や黄や緑。そういったものがどんな風にみんなの目に映るのか、知ることはできない。 でも、それでいい。みんなと同じ世界が見られなくても、その風景は変わらず在る。 気づくだけでよかった。 迷っていたのが馬鹿みたいだ。 時間が経って、スケッチブックを何冊も積み重ねていって。 それでも、何度も何度も僕は絵を描き続けた。 アルバムにも似た思い出の在り処。これからもずっと、増えていく。 |