筆を置く。 そこには描きかけの絵が一枚。 まだ何であるかも判別できない、完成には程遠い状況で立て掛けられていた。 掴めそうなのに届かない。 上手く言えない曖昧さが苛立ちを覚えさせる。 ぎり、という歯軋りの音を聞いた。 これ以上は駄目だ。 無理をして進めると後で悔やむことになる。 ゆっくりでもいい、いつか、でもいいから納得の行く出来にしたい。 ただそれには、大事な何かが足りない気がした。 確かに在るのに手に取れない。 その感覚を認識する度、頭に浮かぶのは先日の会話と僕に向けられた言葉。 (――― 今は信じられなくなってる? そこにあったものを) 忘れてと言われて簡単に忘れるほど人間の脳は便利にできていない。 案外融通の利かないものだ。まぁ、それを悪いとは思わないのだけれど。 伝えたいこと。 教えたいこと。 見せたいこと。 そういったものを、僕は自分の絵に込めてきた。 今でも見返せば描いていた頃の気持ちを思い出す。あの時どうしたかったか、そこで何を考えていたか。 …………あと一歩、足りないのは? わからない。それを探さなければ。 靴を履き、外へと出た。 もし会えるのなら、また話したい。そう願いながら。 もっとよく目を凝らして、そこにあるものを見て。 陽当たりの良い場所よりも、木漏れ日くらいの微かな暖かさがある場所の方が好きだ。 眩しすぎると辛い。世界が薄く見えてしまう。 それなりに葉を落とした木に寄り掛かる。力を抜いて目を閉じると、静かな自然の音が心地良い。 鳥の遠い鳴き声。風がまだ残る葉を散らし、短い僕の髪や服をひらひらとなびかせる。 スケッチブックは手元にない。筆もペンの類も持たずに外出したのは随分久しぶりに思えた。 穏やかな気分。 心は安らいでいて、この優しい世界に身を委ねたくなる。 何もしないでいることが、あまりにも心地良く。 このままずっとこうしていたいと、そんな気持ちを抱いたのもまた久しい。 しばらく呆けて過ごす。 穴だらけの影。枝葉の隙間から覗ける空は、面白いくらいに単色だった。 少しだけ眠ってしまっていたのか、視界が細い。 薄目のまま正面をぼーっと眺めて、意識がはっきりしてからようやくそこに立つ人に気づいた。 「こんにちは。うん、また会えたね」 「はい、こんにちは、えっと…………倉宮さん」 「鈴でいいのに」 「遠慮しておきます」 風が一瞬強くなる。 数枚の枯れ葉が中空に舞い、音も立てず地面に落ちた。 再会はこうして、意外に呆気ないものだったりする。 「今日はどうしてここに?」 「いや、特に理由はないよ。強いて言うなら……何となく?」 「別に強いて言うことじゃないですね」 「あはは」 彼女を相手にすると、不思議と会話が弾む。 もともとそんな多くの人と関わりがあるわけではないが、普段より饒舌な自分を自覚できた。 隣に誰かがいる感覚。 慣れないのに気持ちいいと思うのは何故だろうか。 微かな恥ずかしさ。知られることの嬉しさ。 返ってくる言葉はこちらを傷つけることなく、認め、受け止め、求めているものを教えてくれる。 今まで意思を交わしてきたどんな存在よりも僕の声は彼女に伝わっていた。 一通り無難な話を続け。 少し疲れて、体の力をほとんど抜いた。 背中越しに硬い幹の感触が強くなる。無意識に手を地面につくと、重なる落ち葉が潰れて音を立てた。ちょっと痛い。 不意に、横に座る彼女が枯れ葉の一枚を手に取った。 砕けない程度には優しく。僅かな間目の高さで眺めて、 「はい」 僕の眼前にそれを掲げた。 木陰のせいで本当の色より黒く見える。 「…………何です?」 「これ、茶色をしてるんだよ」 「へ?」 いきなりな言動だった。 意味を理解するのに少し時間を要し、それから口にした理由を考えてみたがわからなかった。 「あの、それはどういう……」 「茶色ってどんな色か知ってる? 知らないよね」 「…………」 「君が寄り掛かってる幹もそう。土も質によるけどそう言われてるね。 わたしの主観だけど、深く濃いイメージ。根本がしっかりしてて、強く大きく構えているような――― 」 「――― 何が言いたいんですか」 声を遮る。 聞きたくない。そんなのは、聞きたくない。 知っている人間に、知らない人間の苦しみなんてわかるわけがない…………! 「わかるわけないよ。だって君はわたしじゃない」 冗談なんて欠片も混ざらない真剣な声色で、全く笑顔のない表情で、彼女は返した。 僕の静かな、遠回しな抗議にも臆することなく。 その真っ直ぐさが酷く気に触れて、嫌で、怖くて、立ち上がり溢れてくる激情任せに叫んだ。 「……どうして! こんなに、こんなにも僕は知りたいのに! 明るいか暗いかだけじゃない、黒と白だけじゃない、 みんなが見ているのと同じような、全ての色がある世界をこの目で見たいだけなのに!」 勝手に涙が流れてきて、それを止めようとも思えず、心の奥で眠っていた気持ちをぶちまけたかった。 支離滅裂でも。何もかもを余すことなく吐き出して、楽になりたいと切に願った。 これじゃまるで子供が泣き叫んでいるよう。 馬鹿みたいに延々と、彼女のことを気にせずに、言葉がなくなるまで吐き続けて。 もうひとことも口から出なくなると、膝の力が抜けてがくんと身体が落ちた。 俯く。冷え始めた思考が、彼女の方を向くのを良しとしなかった。 激しい罪悪感。うろたえるにも程がある。 あまりにも僕は稚拙すぎた。勝手に取り乱して、わめいて。 「…………ごめんなさい。強く言ってしまって」 遅いかもしれないけれど謝る。 開き直ってしまう選択肢は許せなかった。なかったことにできなくても、小さな誠意くらいは持っているから。 「いいよ、誘導したのはわたしだから。こっちこそ挑発的な発言して、ごめんね」 「あう、いや、悪いのは僕の方で――― 」 「違うよ。傷を抉ったのはわたし。悪いのもわたし。……でも、これくらいじゃないと駄目そうだったから」 「え…………?」 本当に申し訳なさそうに、また隣に座ってくれてから彼女は苦笑した。 偽りは微塵もない。隠した裏もない。なんて綺麗なんだろう、と思う。 けれど。駄目そう、というのはいったい。 「――― 目、逸らしてるでしょ? 嘘ついてる。見えてるのに、見ようとしてない」 「それはどういう…………」 「できれば自分で気づいてほしいな。ちゃんと前を向いて、君の世界を真正面から受け止めてみて」 何か、とても大切なことだと思えた。 僕が忘れていた、どこかに置いてきてしまったもの。 自然な動作で目を閉じた。 緩やかに息を吐く。思考をまっさらに。 この身体が、意識が、透き通っていくイメージを覚える。 開いた。 そこに映るのは変わるところのない世界。 白と黒で区切られた光景。いつか望んだ極彩色はどこにもない。 ――― でも、世界を見る僕の心は、そこにあるものを何倍にも何十倍にも綺麗に思わせてくれた。 「……これでわたしは用無しかな。もう、ひとりで大丈夫だよね?」 「はい。だけど…………どうして、」 「放っておけなかっただけ。わたしにでもできることがあったから、ただそれだけだよ」 そう言って、彼女は笑った。 今までの優しさや母に似たぬくもりが混ざるものとは違う、何というか、彼女らしい笑みだった。 じゃあね、と別れの言葉を聞く。 僕も同じひとことを返そうとして、やめた。代わりに――― 「倉宮さん」 「鈴でいいって」 「……鈴さん」 「ん、なに?」 「ありがとう」 上手く、笑えただろうか。 「…………なんか、悪いなぁ。わたし、あんまり褒められたやり方してないのに」 ちょっとだけ寂しそうで、でもそれ以上に嬉しそうな声。 そんな彼女を見られただけでも、僕のひとことに価値はあったと思う。 「どういたしまして」 今度こそさよなら。 振り向いて去っていく背中を眺めながら、世界は鮮やかなんだと改めて感じた。 僕も、帰ろう。 |