ぼんやりと、横になりながら空を見上げていた。 落ち葉の重なる樹の下に身体を置く。 乾いた音を聞きながら、何をするでもなくそのままで居続けた。 辺りは酷く静か。 人通りも皆無で、時折風が肌を撫でる。 秋の寒さは堪えるが、それでも動く気にはなれなかった。 スケッチブックは開きもしない。 右手の鉛筆も手持ち無沙汰で、ただ掴んでいるだけ。 綺麗な景色を前にして、描きたいという意欲は全くと言っていいほど湧いてこない。 絵に関わっていないとここまで暇を持て余すのか、と思う。 自分の時間はどれだけそれに使われていたか。 こういうのは最早"依存している"と言えるのかもしれない。複雑だ。 身を捩った。 がさりとまた乾いた音がして、そういえば最近雨が降ってないな、なんてどうでもいいことを考えた。 試しに鉛筆を構えてみる。 宙に向けて線を引き、何かをイメージしようと思考をめぐらせ、 「――― 全然、出てこない」 知らず溜め息が漏れた。 何というか、予想以上に深刻な問題に出くわした感じで。 気分転換に少し寝ようと目を閉じて、あっという間に意識が沈んだ。 ここにあるのは、決して難しくない、そういうもの。 まどろみが長い。 不安定な姿勢で水中に浮かんでいる感覚。 起きているのに戻ってこれない、変な夢を見ているよう。 ぼんやり、視界がある。 けれど脳は眠ったままで、曖昧だ。 ここはどこか。 今は何時か。 どうして寝ているのか。 全て知っているのに、一時的に忘れてしまった、そんな表現が最も近い。 未だ落ち切ってない枝葉からの木漏れ日だってわかるのに。 不思議なもどかしさがあって、目覚めたいと自分に意識させるにそれは十分だった。 ゆっくりゆっくり覚醒していく。 神経が指先にまで通るようなイメージ。 あとは少し大きな音でも聞けば、はっと起きることができるだろう。 かさりと、落葉の出す音を耳にして。 思考が安定し浮上する。現と夢の境界線が取り払われる。 その中で、 「―――――― そこにあるのに、忘れてるんだね、君は」 少女の幻影を見た気がした。 完全に、思考はクリアになる。 仄かな眩しさが目を焼き、少し両の瞳を細めたところで、正面に人が立っていることに気づいた。 小さな背丈。微かで、柔らかな笑顔。見たところ少女の容貌をした女性だ。 疑問符が頭に湧いた。 何故こんな人通りのない場所で止まっているのか。 何故僕の前にいて、僕に対して微笑みかけているのか。 しばし呆然とする。 十分時間が経ってから、何かを言おうとして口を開きかけ、 「……あ、ごめんね。初対面の人の顔なのにじっくり見ちゃって」 「え、いや、いいです。気にしてませんから」 「そっか、ありがとう」 妙な会話が始まってしまった。 名前も知らない、会ったこともない、そんな相手との関わり合い。 「ね、君が持ってるのはスケッチブックだよね。いきなりで失礼かもしれないけど、ちょっと見せてくれないかな?」 「……はぁ、いいですけど」 流されるまま話は進み、成り行きで自分の絵を見せることになった。 手渡すと彼女はじっくりと眺め、僕の隣に座り込んだので、どうしたものかと溜め息を軽く吐いた。 右手の鉛筆は相変わらず行き場がない。 ポケットに仕舞う気にもなれず、くるくると指で回してみる。すぐに落として諦めた。 また溜め息。今日で何度目だろうか。 ふと横を向く。名も知らない彼女の表情は真剣で、ページをめくる手にもどことなく力がこもっている。 何となく、いいな、と思った。その動作ではなく、視線の強さに。 一種の羨ましさを感じて苦笑する。そこまで僕も真剣になれるなら、と。 最後まで見終わってから、スケッチブックは彼女から返された。 大人しく受け取る。どことなく、いつもより重く感じた。 「…………うん、よく描けてたと思う。素人が言うのもなんだけどね」 「いえ、技術云々よりも思ったままを教えてくれた方が嬉しいです」 「わたし自分じゃ描けないけど、絵は好きなんだ。見ていると大事なことが伝わってくるから」 「あ、それは何となくわかります」 「その人のことがわかる。たった一枚のものに何を込めたか、カタチにしようとしたか」 いいところを見ているな、と素直に思う。 評論の知識は僕にもないけれど、絵に限らず、芸術と一般的に言われるモノはそういう捉え方が望ましいだろう。 創った人間がそれに託し、望み、見る、読む、あるいは聴く相手に伝えようとする何か。 僕の絵にもある。今まで描いたひとつひとつに余すことなく。 いつかのこと、これからのこと、辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと。 考え得る限り僕が想う何もかも。全てが絵には詰まっている。 ――― けれど、 「――― 今は信じられなくなってる? そこにあったものを」 「…………え?」 音源、声を発した彼女を見た。 先ほどとは少し違う、真剣な、しかしどこか憂いを含む面立ちの。 「あ、今のは忘れて。ごめんね、いきなり変なこと言っちゃって」 一瞬で、表情が笑みに戻った。 少し前の場面がなかったことにされるように。 そんな反応をされ、僕は開きかけた口をつぐんでしまった。 しばし沈黙が続き、彼女が立ち上がった。 何か目的があってここにいたのではないという。 まぁ、僕の絵を見るために……なんてことは万が一にも有り得ないとわかっていたので、それもそうかと納得した。 「じゃあ、もう行くね」 「はい、お気をつけて」 「ありがとう。近いうちに、また会えるといいね」 返答はもうなく、笑顔を残して背中を向けられた。 彼女の足が一歩を踏み出し、しかしそこで止まって、 「そうそう、忘れてた」 今までで一番明るい声を聞いた。 「わたしの名前は倉宮鈴。次に会う時はよろしくね、白夜色くん」 放たれた言葉は宙に消える。 呆気なく去っていく後ろ姿を引き止めることは、できなかった。 ちょっとだけ、夢だったのかと疑ってみる。 もちろんそんなことはなくて、彼女――― 倉宮鈴、と名乗った女性は確かにここにいた。 先の会話を思い出す。 思案した僕の心中をずばり言い当てたこと。 それはあまりにも正確で、偶然とは何故か思えなかった。 …………興味が湧いた。 教えてもいないこちらの名前を、はっきりと口にした彼女に対して。 「……帰ろう」 もう、眠る気にもなれなかった。 ポケットに入れた鉛筆を強く握りしめる。折らないほどには弱く。 何となく、一枚、絵が描けそうだった。 |