たった一度、こんな夢を見た。



何でもない場所で、幼い僕は絵を描く。
その手に持つのは色鉛筆。線から始まり、輪郭を作って、塗り潰す。
黒だけじゃない。赤も青も黄も緑も。ケースに入っているあらゆる色を使って、鮮やかな絵を描く。


――― それはつまり、夢の中の僕には、白と黒以外の色が見えるということ。


今、思い出すと、心の底から羨ましく感じる。
有り得ない自分。有り得ない現実。
けれど、そうなればいいと願っている姿。

焦がれれば焦がれるほど、気持ちは乾いていく。
一滴の水でも、あればどんなに素晴らしいことか。

そう、一瞬であっても。もし僕の知らない世界を見られるのなら。

夢に見た僕は笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに、子供らしく笑っていた。


夢じゃない、現実での僕は笑っていた?
嬉しかった? 楽しかった? …………他人と違う、それを知っても、笑っていられた?


きっと平気だった。
たくさんの人が大切にしてくれたから。区別された回数と同じくらい、みんなは一緒にいてくれたから。

ただ、それでも。
この心の中にある暗い部分は拭えなくて、振り返る度に申し訳なく思った。
求めずにはいられない、そんな自分が少し嫌いだった。

目覚めた時、僕はどうしていただろうか。
もう覚えていないけれど、泣いていたのなら……昔と比べて、変わったな。



いつものように起きた朝、僕は布団をもう一度深く被った。






























足りないから人は誰かと寄り添う。要らないなら初めから誰とも寄り添わない。










外に出ようとする時、その理由は物凄く限られている。
風景画のための外出が大半。あとは生活用品や食料の買い物、気分次第で散歩などだ。
家の中にいる時間は何気に少ない。籠のに閉じ込められてるように思えて、あまり落ち着いた心持ちでいられないからかもしれない。


今回は、ただの散歩だった。
薄めの服を一枚羽織り、まあ一応ペンとスケッチブックを持ってドアから出る。
途端、冷たい風が全身をなぞった。

とぼとぼと歩く。
明確な目的地は決めておらず、けれど何となく山の方に行こうと考えた。

僕の住む霧ノ埼には神社がひとつある。
社は小さな山の麓に位置していて、長い階段の上に悠然と建っている。
それなりに歴史も古く、しかし目立った物もない。
人の姿はほとんどなく、神主を除いては近辺で暮らしている住人が善意でするお手伝いさんくらいだ。

近くには見るからに深そうな森があって、自然の匂いが濃い。
夏になると良く蝉も鳴くし、秋の頃は落葉も見られる。
少し遠くでは蛍がいたとも言われ、ときたま観光客も訪れる。
交通の面、生活の面でも不便なところが多いため住人は数がいないが、その分結び付きは強いそうだ。
実際、例えば道を歩いていると面識のない人にもよく挨拶される。それは時に有り難く、時に鬱陶しい。

他人の気遣いや気配りを無碍にするつもりはないけれど、いつだって真摯に受け止められるものでもない。
そんな場合は、言葉少なく逃げるように去ってしまう。何だか、やりきれなくなって。

この辺りで暮らしている人達は、本当に心が綺麗だ。
裏に隠した感情もほとんどなく、単純に声を掛けてくれる。
人並みには苦しんできたんだろう。同じように、人並みには笑ってきたんだろう。少なくとも。
理解されないことも、理解できないことも知っていて、それでも彼らは言葉を交わす。

…………此処の人々は、優しすぎるのかもしれない。
甘い、夢のような現実。ずっと身を置きたくなる。

僕はどうしてここにいるんだろう?

ただ過ぎていく毎日。することは変わらない。
時間だけはあるのに、待つ相手も追うモノも知らなくて。


神社へ続く階段に着いた。
走ることなく、ゆっくりと登っていく。
数分を掛けて段差を踏み終えると、静かな風景が僕を迎えた。

すぅ、と息を大きく吸う。
肺に入る空気の冷たさが心地良い。
また僅か歩いて、鳥居のところで立ち止まる。石造りの柱に背を任せ、空を見上げた。


――― 段々と、絵を描くことが少なくなってきている。
今も、ペンを持つ気にはなれない。その空白の期間が、徐々に長くなってきた。

こんな時もあるだろう、という楽観視をしたくない自分がいる。
頭の端に何かが引っ掛かっていて、離れない。

「……限界か」

呟いて、それはどこまでかと思う。
僕はどこまで行けるのか。信じていられるのか。
ここで終わりなのか。それとも、まだ続けられるのか。

先が見えないことに対する不安。
得体の知れない怖さがある。今歩いている道を見失ってしまったら、と。

炎はまだ、燻っているけれど。
いつ消えてしまうのかも、わからないのだ。

「……嫌だ」

行き場を失くしたくない。
ひとりになりたくはない。

何かを描いている時は、孤独なのに寂しさを感じない。
例えば、出来上がった絵を誰かに見せる。技術的な部分はわからなくてもいい、何となく喜んでくれると嬉しくなる。
そうしていられる。自分の絵が、他人との繋がりを作ってくれる。

だから。僕ができる、頼りにしている、唯一のものだから。
子供の頃から、ずっと、この目で見続けてきたものだから。


限界なんて、ないと信じたい。


「ふぅ…………」

そっと、背を伸ばして歩き始めた。
散歩は終わり。もう、家に帰ろう。

意味もなく、一度振り返った。
景色は変わらない。少しだけ風が吹いて、木上の葉が散った。



階段の方へ向く。
ペンを取る気は、欠片も湧いてこなかった。










何となく、家に帰ってから今までの絵を一枚一枚眺めてみた。
ぺらぺらとスケッチブックや積み重ねた紙の束をめくったりする。
部屋に散らばるが、とりあえず気に留めない。裏に記してある日付を見て、それが完成した瞬間を思い浮かべる。

どれも、忘れてはいない。
とりとめのないことを考えたり、辛い気持ちをぶつけたり、嬉しさを表現したいと思いながら。
その瞬間、たったひとつ、大切ななにかを形作る。
だからここにあるのはほとんど全て、過去に抱いた僕の心そのものだ。

日記よりも曖昧で、けれど確かに残っている。
懐かしい匂い、遠くの情景、誰かの声。
笑ってみたこと、やりきれなかったこと、泣き叫んだこと。

自分のモノであるのに、ただ、綺麗だと思った。
冗談でも自慢でもなく。例えささやかだとしても、僕の残したモノが、輝いて見えた。


――― いつかの日。
きっと今よりも子供で、それでも胸を張っていられた頃。
振り返りもしなかったけど、前に迷わず進めた、そんな自分がいた。


……悔しい。
こうしてここにあるものが信じられなくなりそうなことが。
見失って、捨てて、それでも平気だと言ってしまえそうな僕が嫌に感じた。

くしゃり、と手に持つ紙を握る。破かないくらいには弱く、だけど強く。

また…………取り戻せるだろうか。
こんな絵を描いていた、描くことのできる僕に。


わからない。
それさえ突き通せる自信も、ないから。



知らず、久しぶりに、泣いた。声は、あまり出なかった。