夜が怖いのはずっと前から変わらない。
闇は全てを侵蝕する。僕が認識できるほんの僅かな世界も隅から隅まで塗り潰す。

だから、明かりのない夜は嫌いだ。
何も見えないのは本当に恐ろしく苦しい。
どうしようもない孤独感。気休めにしかならないような月と星の光が、どれだけ有り難いことか。

目を閉じた時とはまるで違う。
仮初めではない正真正銘の漆黒。他に混ざらず、溶け合うこともなく相手を覆う最端の純色。

窓の外はもう異世界に思える。
部屋から溢れる照明の光、その範囲内ならば輪郭くらいわかる。
けれど遠く。視界の奥は、まるで知らない場所のよう。


家は檻。閉じ込められた鳥の気分。


そんな考えを抱く度に、やはり自分は異質なんだと実感する。
区別される理由を持つ人間。一部を欠いた"出来損ない"。

埋められればいいのに、この距離は絶望的で。
どうすれば埋められるのかも考えつかない。

……そも。
努力すれば届くような、そんな差であるのだろうか。

溜め息をひとつ。
答えのない問いを繰り返すことに意味はないのかもしれないが、価値はあると信じている。
ただ、堂々巡りなだけで。悩んでも仕方なく、自己完結の連続。

「…………寝よう」

敷きっぱなしの布団に入り込んで、瞼を落とす。
静かに。止まるように。



眠りに就くまで、さして時間は掛からなかった。






























描いた軌跡の数だけ、その絵に対し意義と意味を問う。










僕が一番最初に完成させた絵は、カタチにもならない線の集まりだった。
媒介は確かクレヨン。何色を手に取ったかまでは覚えていない。

考えなんて持たず、ただ塗った。重ねて重ねて創造した。
軌跡は馬鹿みたいな直線、あるいは曲線で。
ただクレヨンを紙の上で滑らせる、それだけが楽しかった。


しばらく没頭してからできたものは、絵と呼んでいいかどうかも怪しい出来だったけど。
子供心に嬉しかった。純粋に嬉しかった。

それを見せた時、母は笑ってくれた。
まだ小学生にもならない息子の落書きを見て、優しく。
「よかったね」と頭を撫でられ、次にできたらまた見せようと思った。

二回、三回、四回。
できたら渡す。渡せば喜ぶ。
繰り返し続ける。ずっとずっと、何度も。


だからきっと、あの頃クレヨンを持っていた理由は。
母と二人で笑っていたかった、それだけだったのかもしれない。


今はどうだろう。
いろいろなことを知って、この目のことも理解して、けれど変わらず何かを描く僕。

世界をカタチにすることが楽しいからか。
自分でも何かができることが嬉しいからか。

……たぶん、どれもが違う。
おそらくもっと単純で。口にするのも馬鹿らしいことで。



――― そういう風に、僕はできているから。










今日も、それしか知らない子供のように、絵を描く。
白を黒へ。何もない世界を好きな形に塗り潰す。

線を引く道具を持っている時、僕はほとんど無心だ。
ただ脳裏に浮かぶイメージを移すだけ。なるべく繊細に、精密に。
飽きることもない。こうしているのが当然。


なんのために?


わからない。わからなくてもいい。
余分なモノは要らなくて、それができれば満足。

例えようのない充足感。
完成形へ近づいていく度に、その思いは強くなっていく。


僕が世界。
想像を現実に、夢見た虚像を紙へと投影する。

音を無くして、静かになった空間の中。
他が見えないくらい集中しながら手を動かし続ける。
もっと力強く、速く、時には優しく、ゆっくり。
持ち得る全ての能力をたった一枚の絵に惜しげもなく使う。それでも足りないと思いながら。


数時間を掛けて、筆を置いた。

出来上がったのはどこにもないもの。
カタチさえも曖昧で、不確かで、言葉では表せないなにか。
けれど、それは間違いなく此処に"在る"ようになった。
屑にも満たないイメージが、わかりやすい姿を持った。

誰かの目に見えるようになって、そこで初めて存在は価値を有する。

……だからこれは、僕にとって空想の域を出た大事なモノだ。
他の人達が認めなくても、僕が認める。それだけで十分。

スケッチブックをめくる。
またひとつ、白い紙が減った。



何となく、今までに描いた絵を見返してみた。
色んなカタチがある。割合としては草木や花などの風景画が多く、間にぽつぽつと別のモノが挟まっている。
それは聳え立つ塔だったり暗い影だったり空に舞う羽根だったりとまちまちで、共通点はどれも存在しない光景であること。
どれも僕の心のイメージだ。人間の中でも、最も複雑で不安定で掴めないもの。

色は、本当に僅かしか使われていない。
もちろん黒。もしくは、何も塗られていない空白――― 白。
他人から見れば鮮やかでもなんでもない、酷く単調な絵に映るのだろう。
でも、例え他の色で描いたとしても、僕にはこの色にしか見えない。この世界しか見られない。


これが好きなことを、絵を描くのが好きなことを、今更後悔なんてしないけど。
たったひとつあるとすれば、どうして僕はこんな風に生まれたんだろうと、それだけを思う。


もう何度目だろうか。
強すぎる渇望。……一途で、歪みそうなほどに願う理想。

見たい。この目ではっきりと、忘れないようにしっかりと。
世界の姿を。僕以外の人達が知っている、もっともっと綺麗な、その風景を。

空に焦がれる翼のない鳥の想いにも似た、未知を感じたい純粋な気持ち。
何よりも、ただ"そうでありたい"と求める。今は想像も叶わないそのカタチが、欲しい。


……こう思う度、僕はそんな"なにか"を閉じ込める。


叶わないなら願わなければいい。
理想を追い求めれば痛みが付き纏う。
だからいらない。必要ない。……そうやって考えれば、いつか平気になる。

"当たり前"を固定して、揺らがないようにする。
大人は駄々をこねない。努力しても得られないなら初めから目を逸らす。
あったかもしれない可能性も、効率が悪いのなら、迷わず捨ててしまう。

きっとそれが、大人になるということ。
何かに迷わなくなって、同時に何かを放り投げる。
大事だったもの。欲しがっていたもの。必要だと、信じていたもの。


悔しい、とか、そう考えなくなったのはいつからだろう。
誰かと違うことを、埋められない差を強要されることを、許せるようになったのはいつからだろう。

生まれた時からこうだった。
そんなのは理不尽だ。けれど、変えられないのなら我慢するしか道はない。
ずっと、ずっと抑え続けて、幼い頃に抱いた激情を時間と共に忘れていく。

…………未だ僕は、捨てきれていない。
欲しいと思う。我が儘だとわかっていて、有り得ない奇跡だと知っていて、それでも一度、見たいと思う。



叶うなら、教えてください。



――― 世界は、どれほどキレイなんですか?