目が覚めると、まずその日に読む本を鞄に詰めるのが癖だった。
 私の家には部屋まるまるひとつを占拠している書棚がある。両親共に本好きで、二人の影響か私もかなりの読書家になったものだから、棚が埋まる速度はかなり早い。おそらく来年また、空いているスペースに新しい書棚が追加されるだろう。それくらいには私も両親も、よく本を買う人間だ。
 四百頁弱の文庫本。ジャンルは現代ミステリ。
 最近作者買いをしている人の三部完結作で、評判を聞いてとりあえず一巻を手に取った。
 昨日冒頭に軽く目を通したけど、なかなか好感触。今のところ読んだものに外れはなかったから、きっと楽しめるだろうと思う。
 寝起きのぼやけた頭で淡白な表紙を一分ほど眺め、のそのそと鞄の隅に突っ込んで、私は洗面所に向かった。
 先客はなし。ばしゃばしゃと顔を洗い、眠気の残りを流していく。
 洗顔の前に出しておいたハンドタオルで水を拭い、傍らに置いた眼鏡を着ける。
 鏡に映る、自分の面。
 ちょっと目付きが鋭い、と友人は言う。
 確かに、細めがちな私の目は、こうして見ると睨んでいるようでもあった。
 眼鏡を掛けても視力が悪いから、なのだけど。
 まあ、こればかりは仕方ない。
 居間には朝食を並べる母がいた。三つ下の妹は、いつも通りまだ寝ているらしい。
 私のために用意してくれたパンと目玉焼きをさらりと胃に収め、再び洗面所へ。今度は歯を磨く。
 同級生は結構朝風呂に入っている子もいるというけど、私は洗顔と整髪で十分な人種だった。
 微妙に跳ねた後ろ髪を水と櫛で撫で下ろし、制服に着替えて身だしなみを整える。
 教科書と筆記用具、ノート、そして今日の一冊を確認してから、行ってきますと家を出た。
 
 私の通う女子高までは、徒歩の間に電車を挟む。
 家から最寄の駅が約十分。そこから十八分を車内で過ごし、降りて五分ほどまた歩く。
 鞄に入れた本はどこで読むのかと言えば、駅のホームと電車の中だけだ。
 もっとも、それだけでも三日に一冊のペースは保てる。
 家で続きを読むならもっと早い。
 集中し過ぎないよう、時折外の様子を窺いながら、行きの電車で八十頁を読破する。
 序盤だからか、まだ盛り上がりには欠けるところで先が気になる。
 それでも帰りまでは我慢だ。歩き読みをすると、全然前を見なくて車や自転車に轢かれかねない。
 まだ見ぬ話の続きを想像しながら通学路を進めば、五分程度はあっという間だった。

 何が有名なわけでもないこの街の女子高を私が選んだ理由は、三つある。
 学力的に入りやすく、家からもそこそこ近かったこと。
 親しかった友人もここに進学したこと。
 そして、近場の高校では一番、図書が充実していたこと。

 朝と昼休みには、必ず学校の図書館に寄る。
 もうほとんど顔馴染みになった司書の女性にお辞儀をし、特にジャンルを決めずぶらぶらと眺める。
 こうしてゆっくりするために、早起きして部活もないのに登校しているのだ。
 たっぷり時間を掛けて、琴線に触れたタイトルの一冊を棚から抜き取った。
 表紙と触りを見る限り、和風ファンタジーらしい。
 面白そうだと一人頷いて、結局借りることにした。
 どうせミステリの方は家でも読むし、帰りの電車で少し目を通そうか、と思いながら教室へ。
 予鈴までを軽い今日の予習に充てていると、ぽんと肩を叩かれた。

「おはよー、きりっち」
「ん、おはよう、千里」

 視線をやり、私の数少ない友人であるところの渡利千里(わたり・ちさと)に挨拶を返す。
 千里はにかっと笑い、机に広げた教科書とノートを見て、相変わらずだねえと目を細めた。

「きりっちはまめよね」
「先行投資みたいなものだから」
「そう言っちゃえるあたりがまたクール」

 別に口下手というわけではないけれど、積極的でもない私は、友人らしい友人がさほどいない。
 勿論、時折喋ったりする相手はそこそこいる。女子高は共学以上に、隔意を持たれると面倒だ。
 厭世者でもなければ、普通の人間関係を嫌がる理由はないだろう。
 とはいえ、計算高く生きようとしているつもりもない。
 単純に、真面目な子と見られて話しかけられにくいだけ……だと思う。
 ちなみに『十和田霧子』だから『きりっち』。
 そんな風に私を呼ぶのは、千里くらいだけど。

 予鈴と同時にホームルームが始まり、そのまま授業にシフトする。
 体育以外では(主に千里に)頼られることも多い。
 今日は幸い、身体を動かすような授業はなかった。
 昼には千里と一緒に、母が作ってくれたお弁当を教室で食べ、それから残りの二時限分も滞りなく終わった。

「んじゃきりっち、また明日ー」
「うん、また明日」

 部活に向かう千里と別れ、早々に私は帰路に着く。
 ガサツなところもあるけれど、ああ見えて料理部だ。人は見かけによらないというか。
 私よりよっぽど料理は上手いので、女子的にはだいぶ負けている。
 楽しそうに駆けていく背中を見送りながら、今度レシピ本の類でも読もうかな、と考えた。

 駅までの五分間は、ぼんやり歩いていても短い。
 定期を翳して改札を抜け、私はホームへと降りた。
 それがいつもの、日常だった。





index / next



何かあったらどーぞ。