―――― それは、俺達にとって"二年目"の夏のこと。





promenade





どうにか無事に大学入って初の夏期休暇を迎えた頃。
俺よりも遙かに危なっかしさを感じない完璧な成績で七月までを乗り切った今年二年生の佐祐理さんが、ふと言った。

「遊びに行きましょう、祐一さん」

拒否する理由は当然ない。
二人で遠出をするのは随分久しぶりで、まぁ、心躍らないと言えば真っ赤な嘘になる。
「じゃあどこに行きます?」と訊いてみると、山の方がいいですね、なんて提案が返ってきた。

予定を合わせ、互いに纏まった休みの取れる日をピックアップ、目的地の見当をつける。
インターネットや雑誌で軽く調べた結果、ホテルではなく和風の旅館に二泊三日、と決まった。

「楽しみにしてますね」
「こちらこそ、ですよ」
「はい」

その日が来るまでは、正直かなり待ち遠しかった。
二日も前に準備を済ませ、何だ俺は遠足を楽しみにするガキかとショックを受けたものだ。
佐祐理さんとは、旅行のことを話し終えてから一度も会ってなかった。
バイトも二割増しで入ってたが、暇だったので面倒な課題やレポートを先に済ませてしまった。
八月後半、特に三十一日に慌てて宿題と名の付く物はやっていたので、人生初の偉業にまた別の意味でショックを受けた。

そんなこんなで気づけばあっという間の十数日間。
駅で待ち合わせをした俺は、念のため十五分前に着いたにも関わらず佐祐理さんに先を取られることになる。
まず一敗。ひとつ何でも言うことを聞くと確約させられてしまい、初っ端から不安な心持ちで旅行が始まるのだった。










さて、目の前に一人の女性がいたとしよう。
彼女は薄緑のワンピースを着て、目の前を駆けながら時々振り返り、にこりと微笑んでくれるのだ。

……もうね。人目を憚らず抱きしめたくならないか? なるだろ?

ということで、佐祐理さんはマジ可愛かった。
容姿からして非凡な超美人であることは周知の事実なのだが、その可憐さたるや最早殺人的。
風に揺れて捲れる服の裾、そこから見える太腿がまた眩しいほどに神々しく美しい。
俺の息子も実は大変なことになっているのだが、その辺は表情に出さず背中を追いかけ歩く。

新幹線を降り、宿に着いてチェックインをしてからはとにかくはしゃぎ回った。
近くの名所を巡り、軽く帰りの手間を省くため土産屋に目を通し、夜は温泉で日頃の疲れを癒した。ごめん俺ちょっとだけ泳いだ。
予約した部屋はひとつだったので、勿論同室。布団も一枚。
近くで見た佐祐理さんの寝顔は殺人的で、さっくり寝てしまった彼女の肌に何度手を伸ばそうとしたかわからない。
でも、俺は手を出さず、ただ背中を向けることだけはせずに、佐祐理さんを見つめながら眠りに就いた。

そして二日目。如何にも日本の朝食といった米に味噌汁味付け海苔と納豆の食事を済ませ、俺達は外に出た。
目指すは少し離れたところにある川。俺の肩には程々に重い荷物が掛かっている。
その長さ故に道中枝に引っ掛けたりとえらく運びにくい代物だが、これから行く場所には必要なのでえんやこら。

往路を踏破した頃には、早くも俺の息がはあはあと乱れていた。
対して佐祐理さんは全く疲れの色も見えない。数十歩先で「祐一さーん!」と叫ぶくらいに余裕だ。

どうにか追いつき、適当なポイントに腰を下ろし荷物を置く。
それからバッグを開け、手を突っ込んで色々と取り出す。

「はい、佐祐理さん、どうぞ」
「これが……あ、結構軽いんですね」

水の流れる音を聞きながら、俺達は持ってきた釣竿に餌をつけ、釣りを始めた。
狙いはニジマスだ。旅館の人に教えてもらった場所で、ガイドブックにも乗っていない穴場。
実際周りに人影はなく、この調子なら気楽にできそうだった。

「祐一さん、釣りしたことあるんですか?」
「ああ、昔父親に連れられてちょっと」
「なるほど、だから手際いいんですねー。きゃっ、急に重くっ」
「佐祐理さん当たってる! 釣竿引いて!」
「こ、こうですか!? お、重いー……」
「俺も手伝います。そうそう、上手いですよ……よしっ!」
「釣れましたー!」
「やりましたね」
「…………あの、祐一さん」
「何ですか?」
「その……手を」
「あ」

つい力いっぱい握ってしまったことに、さらに身体も密着させてたことに気づき、慌てて離れる。
しかし、佐祐理さんが妙に不満そうなのは錯覚だろうか。

結局釣ったのは計五匹。俺三、佐祐理さん二。
これも教わった通りその辺で薪を回収、火を焚き、ニジマスは塩焼きにして二人でおいしく食べた。

旅館に戻り、釣り具一式を返す。
肩が軽くなって一息ついていると、隣の佐祐理さんはこんな提案をした。

「祐一さん、少し散歩しませんか?」

疲れてはいたが、それほどでもない。
いいですよ、と返答し、再び外に出る。
旅館から木々立ち並ぶ短い山道を抜け、舗道へ。そこからさらに歩き、川に架かる橋を見つけ、下に降りる。
佐祐理さんが座ったので、俺も横に陣取った。

見上げれば、空は夕焼け色。
橋の上を過ぎる、乗用車や自転車の群れ。
行き交う人々の声も遠く、俺達は"ここではないどこか"を、見ていた。

「…………祐一さん」
「はい」
「後ろに、立ってくれますか?」

言われたように、座る佐祐理さんの背後に立つ。

「しゃがんでください」
「はい」
「そのまま、目を閉じて」

その通りにした。
予想していたのだが、唇に熱い物が押し当てられた。
ん、と唾を飲む間もなく、舌が割り入れられる。
そこからは予想よりもさらに激しく、強く求められ、俺も舌を使って答えた。
唇を離すと、つつ、と唾液がアーチを描いて互いを繋ぎ、切れる。

佐祐理さんは、しばし無言だった。
ただ、目が感情を語っていた。……どうして、と。

「……昨日の夜、どうして何もしなかったんです」
「佐祐理さん……起きてたんですか」
「本当は……本当は、ずっと、待ってたんですよ?」

真っ直ぐな視線。逸らせない。
真っ直ぐな気持ち。だからこそ、俺は――――

「大事なものを、大事と言うのは簡単ですけど」
「………………」
「いざ大事にしようと思うと、何か、怖いですね」
「怖い……ですか?」
「もう、別に失ったものの代わりとか、そんな風には思ってませんよ。でも、俺には、自信がない」
「そんなもの要りません。佐祐理は……祐一さんがいれば、それでいいんです」
「……佐祐理さん」
「もう一度言います。そうしてくれてると、わかってても。……佐祐理のことだけ、見てくれますか?」

答えの代わりに、俺は自分から顔を近づけた。目は、閉じなかった。










要するに、もう半年近い間、俺はほとんどと言っていいほど佐祐理さんを求めなかったのだった。
変に意識したのがいけなかったのかもしれない。あるいは、壊してしまうような気がして。
一度どころか百度以上そういう機会があったにも関わらず、その全てで俺は自制した。

佐祐理さんも、きっと自分にひとつの条件を課していたのだろう。
今日に至るまで、ひとことたりとも向こうから誘ってはこなかったのだから。
もしかしたら佐祐理さんなりの対抗心というか、負けず嫌い的なところがあったのか、と思う。
無二の友人だったからこそ、余計に負けたくなかったのかも、とも。
遊びに行こうというのはつまり、『勝負に出た』のと同意だったわけだ。

「祐一さんは、一人で何でも抱え過ぎなんです」
「そ、そうですか? 佐祐理さんもだと思いますけど……」
「もう、違いますよっ。怖いなら言っちゃえばいいんです。そうしてくれないと、助けることもできません」
「……反省してます」
「…………ふふ、許します。でも、約束してくださいね」
「何をです?」
「とぼけないでください」
「言ってくれないとわからないですよ」
「………………今日の夜は、遠慮しなくていいですから」

頬を真っ赤に染めた佐祐理さんのその言葉に満足し、俺っていじめっ子だよなー、と結論づけてから、立ち上がった。
ずっとしゃがみっぱなしだったので少し膝が痛いが、気にしない。
軽く見回して、俺は川原の石をひとつ拾った。平たいやつだ。

そんな光景を不思議そうに見ていた佐祐理さんも、ぱっと俺の横に並ぶ。
俺は手元の石を親指と人差し指で囲うように持ち、無言で佐祐理さんに離れるよう促し、そして、

「とりゃっ!」

スナップを効かせて、石を紅く光る水面に向けて投げた。
回転する石は水面に触れると、水を嫌うように沈まず跳ねた。佐祐理さんの驚く声を耳にする。
いち、に、さん、し、ご。六回目でぽちゃんと石は川の中に消える。

「今のは…………」
「これも昔親父に教わったんです。水切りっていうんですけど」
「やってみてもいいですか?」
「勿論。えっと、コツはですね……」

覚えてからは早かった。
一度目は上手く跳ねず、二度目で一回だけ、三度目にはもう四回。
「あ、何となくわかりました」という台詞の後に八回跳ねて向こう岸に飛んでいくのを見た時は、さすがに呆然とした。

拾って、投げて。拾って、投げて。
石が水面を走る度、俺達は子供みたいにはしゃいで。

「肩痛てー……」
「あはは、佐祐理は楽しかったですよー」
「そりゃ何よりです」
「……佐祐理は、浅ましい女でしょうか」
「そんなことはないですよ」
「はい、合格です」

一気に何でもすぐできる、だなんて自惚れは持っちゃいない。
だけど、ゆっくりでも、死ぬほど遅くても、進んではいけるだろう?



まぁ、そんな感じで―――― 舞、俺達は元気だよ。だから、心配すんな。





ありがとう。