夏の終わりを感じるのはいつだろうか。 木枯らしが吹けば秋の始まりという人もいるし、秋分の日を迎えれば、あるいは秋の花が咲けば。 考えればキリがない。ただ、共通の認識として、学生にとっての夏の終わりは基本ひとつだけだと思う。 八月三十一日。 一般的に夏休みはそこで途切れ、翌日からは始業式を経て九月の授業が行われる。 慌しい日常に戻り、ああ、楽しい夏は幕を閉じたんだなぁ……と感じるものだ。 「…………祐一くん」 「ん、どうした?」 ベッドに腰掛けていたあゆが、ふと呟く。 名を呼ばれた祐一はすぐ近くで横になって漫画を広げていたが、むくりと上半身を起こして答える。 「今日は何日?」 「三十一日だが」 「夏休み最後の日だよね?」 「そうだな」 転がしてあったポテトチップスの袋から一枚を取り出し、齧る。のり塩味だ。 口の中で飽和する塩味の所為で、水分が欲しくなった。ので、これも近くにあった麦茶をコップに注ぎ一気飲み。 怠惰の極みである。晩暑とは思えない暑さが全部悪い。 「あー、あぢー……」 「ゆ・う・い・ち・く・ん!」 「何だ何だ、そんな大声出すと余計暑くなるぞ」 「そうじゃなくてっ! ああもう、祐一くんの馬鹿!」 「馬鹿とは酷いな」 「正当な評価だよ!」 あゆは頭を抱える。駄目だこいつこっちの言いたいことが何ひとつわかってない。 自分は繊細な乙女なのだ。女の子なのだ。一応彼女なのだ。なのに当の彼氏と来たら―――― 。 「………………はぁ」 盛大な溜め息が、部屋の温度をまた少し上げた。 ぼくらの時間 〜夏の終わり、夏の続き〜 世の中そんなに都合良くはない。ついでに非情である。 ……と思い知らされたのは、月宮あゆが七年間の昏睡状態から目覚めて間もない頃だった。 当然だが、七年前の彼女は小学生。中学校にも、当然高校にも一切通わず過ごしてきたわけだ。 つまりどういうことかというと、祐一のいる高校に行くためにはまずそこから何とかしなくてはならず。 端的に言えば、秋子さんの優しくも厳しいコーチを受けた後、試験尽くしの数日間。 高校生程度の学力があると判断できなければ中卒の資格すら得られない。 結局どうにか入学できたのは六月半ばのことで(四ヶ月足らずで七年のブランクをどうにかできたのは特筆すべきことだが)、 転校生として編入されたのは一年の教室。義務教育でない高校に入った以上、年齢に関係なく一年生からなのは当たり前であり。 制服のリボンの色も違う、教室も違う、しかも立場上祐一達を先輩と呼ばねばならないあゆのストレスは酷いものだった。 ……祐一くんここぞとばかりにからかうし。 初めて制服姿をお披露目した時、あの野郎笑いやがった。 「ぷっ……ああ、似合ってるぞあゆ」みたいな感じで。小さいのはそんなに悪いことなのか。背とか胸とか。 一見すると随分容赦も愛もないというか外道な祐一だが、ちゃんとすべきところはしてくれるのでどうしても憎めない。 そこが好きだから、やっぱり二人は傍からするとバカップルなのかもしれなかった。 で、あゆにとっては人生最初の夏休み。 煩わしい宿題なんてすぐに終わらせて、まだいいだろ別にー、と早くもぐったりする祐一の尻を叩いてそっちの宿題も済ませ。 一応祐一は受験生なのであまり遠出はできないけれど、色々なところに連れていってもらった。 水瀬家で行った海は青くて広くて大きくて、泳ぎは苦手でもすごく楽しかった。 知った顔のみんなで足を運んだキャンプ場では肝試しをして、運良くペアになれた祐一の腕をきつく抱いてがたがた震えていた。 宿題やこれから先の勉強のことを、名雪や香里に色々と教えてもらった。祐一はてんで役に立たなかった。 八月頭にあった夏祭りでは、見たこともなかったものをたくさん食べて、したことのなかったものをたくさん経験した。 ついでに、他人にはあまり声に出して言えないようなことも……まぁ、週に四度はやった。 一ヵ月半。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。 かき氷を食べまくって水も飲みまくってお腹下したり、大勢で花火片手に遊び回ったり。 そんな、長いようで短い夏の思い出が増えて重なるほど、終わりも近づいてくるのだ。 例えば祭りの雰囲気は、自然とそこにいるだけで高揚するようなもので。 あれも買ってこれもやってと思い思いに楽しんだ後、いざ帰ろうとすると、名残惜しく感じてしまう。 きっと、終わりとはそういうものだから。 まだ続いてほしい、なんて願ってみたって時は止まっても待ってもくれない。 「祐一くん」 「ん?」 「楽しいことは、あっという間だね」 「そうだな……あっという間だな」 「……まるで、夢みたい。明日覚めたら、全部ホントじゃなかった、って」 「んなわけないだろ」 「でも……ボクは考えちゃうんだよ。何かね、まだちょっと、現実味がないから」 まるで泡沫のように。 現実は、儚くて、脆くて、嘘になりやすい。 そのことをあゆは知っている。何もかもが夢で、虚構で、本当の自分はずっとベッドの中で。 目覚めの時を、ずっと待っているのかもしれないと。 一度目は起きられた。大切な人にまた会えた。 でも、それすらも夢で、眠ったままで―――― 半年近くの歳月が経っても、拭えない思い。 すぐに慣れるのは難しいほど、あゆは現実から離れ過ぎていた。 「だから……祐一くん? 何でそんな指で円作ってこっちに向けてるの?」 「動くなよ」 「嫌だよ」 「はいホールド」 「あっ、頭を掴むなんて反則だよ痛ーっ!」 べしんと激しく鈍い音がして、祐一のでこぴんがあゆの額に直撃した。 あまりのダメージに患部を手で押さえる。ずきずきひりひりするのは威力が高いからだ。 「何するんだよ!」 「でこぴん」 「わかってるよ!」 「馬鹿かあゆあゆ」 「い、いきなり酷過ぎるよっ!?」 「だってなぁ……お前はいらん心配をし過ぎだ。ストレス溜まり過ぎて禿げるぞ?」 「うっ……それは嫌だなぁ……」 「………………ぷっ」 「あ、祐一くん! 今度は何を想像したの!?」 言うまでもなく、スキンヘッドのあゆあゆである。 後ろ向きな意味で感極まったあゆが祐一の胸をぽかぽか叩き始めたが、勿論その腕力では痛いわけがなかった。 苦笑し、頭を撫でる。それだけで勢いは弱まり、為すがままにされるあゆだった。 「いや、まぁ、気持ちはわかるんだがな。そういうのは俺もう中学生ぐらいの時に通り過ぎたからなぁ」 「む、それじゃまるでボクが中学生レベルみたいに聞こえるんだけど」 「その通りだ」 「やっぱり祐一くんは外道だよ……」 「……夏休み、楽しかったか?」 「…………うん」 「俺も楽しかった。馬鹿騒ぎはしたし、だいぶあゆと一緒にいられたしな」 「………………ボクも」 「ならいいだろ。明日からまた面倒臭い日々になるけど、それはそれでいいもんだ。夏休みにはできないことがいっぱいだぞ?」 「……例えば?」 「そうだな、まず試験だな」 「うぐぅ……」 「俺も嫌いだから心配すんな。それから、文化祭だろ。秋なら土日に紅葉狩りもいいかもしれん」 「紅葉狩り?」 「ああ、花見の秋バージョンみたいなもんだ。そしたら寒くなって、冬が来る。……嫌だな寒いの」 「…………いっぱいあるね。いろんなことが」 「渾身の愚痴はスルーか。……ん、いっぱいあるぞ。俺が挙げたのなんて一部だ一部。だから、」 ―――― 夢にしたら勿体無いだろ。 そういう祐一の表情は、優しい笑みで。 自分だけに向けてくれるその顔が、あゆは大好きだった。 大好きで、嬉しくて、安心できた。 「…………うん。そうだね」 「よし、納得してくれたか。……じゃあ寝るか」 「それとこれとは話が違うよ!」 首を絞める。このまま絞め落としてやろうかとも思うが、それでは結局寝てしまうので意味がない。 全く、ちょっと格好良いな、見直したな、と思った矢先にこれだ。 八月三十一日。夏休み最後の日。 最後だから、最後らしい日を過ごしたいと思うのは、おかしいだろうか。 それなのに祐一ときたら、ごろごろごろごろやる気なさそうにぐったりしていて。 暑くても、外に出かけたい。 恋人らしいことをして、楽しい夏休みだったね、って言ってみたい。 「……ボク、おかしいこと言ってる?」 「あー……そうだな、言ってないな」 「でしょ? 鈍いにも程があるよ。そもそも祐一くんは、っ!?」 肩に力が掛かり、あゆの視界は天井に移動した。 といっても、天井は見えない。見えるのは上に覆い被さる、影を纏った祐一の姿。 「あゆ」 「な…………何?」 「俺は今、唐突にエロいことをしたくなった」 「唐突過ぎるよ!? 何で!?」 「強いて言うなら神のお告げだな」 「……開祖にでもなるつもり?」 「おお、難しい言葉を知ってるなあゆあゆ」 「馬鹿にしてー!」 「それもいいかもしれないな。エロエロ教か。たぶんすぐに人が集まるぞ。エロくない男はいないし」 「真面目な顔で変な話をしないでよ……」 「ということでだ。ちょうどよく俺達はベッドの上にいることだし、このまま汗をかこうと思うんだが」 「ちょ、ちょっと待って祐一くん。落ち着こう? まだ昼だよ? 外明るいよ? それに秋子さん達が下にいるよ?」 「大丈夫だ。秋子さんなら今名雪と一緒に買い物しに行ってるから」 「…………もしかして、初めっからその気だったの?」 「さあな。でも、彼女と一日ゆっくり過ごしたいって思うのはおかしいか?」 「……ううん。当たり前だね」 「嫌なら言えよ。今のうちだぞ」 「……嫌なわけ、ないよ」 そして祐一の手はゆっくりとあゆの身体に伸びて以下略。 祭りの終わりは、そこに来る人々を寂しくするけれど。 終われば新しい何かが始まり、そうして日々は積み重ねられていく。 楽しかったことは、その気持ちはなくならない。 名残に浸るのも程々にして、次の準備をしよう。 これにて閉幕。 夏はまた、必ずやってくる。 |