「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………っ!」

俺は逃げる。
後ろを振り返っている余裕はない。少しでも隙を見せようものなら、敗北は必死だ。
段々と重くなってきた足を酷使して、獣のように息を切らして、走り続ける。
心臓の音がうるさい。速度は緩めない。目指す場所もなく、終着点も存在しない逃走劇。

俺は、逃げなければならない。
そうしなければ―――

「くっ!」

だん、と一際大きな靴音を鳴らし、狩人が追いついてきた。
まずい、そう思いながらも振り返ってしまう。見ればもう相手は射程圏内にまで迫っていた。
いちかばちか、曲がり角に差し掛かったところで急停止、追従してきたそいつに足払いを掛ける。

「…………甘い」

しかし呆気なく躱され、不覚にも俺は敵の姿を見失った。
そしてその一瞬が明暗を分ける。気づけば浮遊感に身体が包まれ、逆に足を払われた、そう理解して、

「……祐一、キャッチ」

それはもう鮮やかに、しっかりと、舞にいわゆるお姫様だっこというやつをされていた。
がっちりホールド。動けない逃げられないの二段構え。
ここまで来て、俺は完全に抵抗できないのだということを悟った。

……ただ、ひとつだけ。ひとつだけ言わせてもらえるならば。


父さん、母さん、俺、これから男として大事なものを失うよ―――




















"まい"のいる生活+1。 番外編:人を呪わば穴二つでも足りないかもしれない




















始まりは、いつもの如く唐突なまいのひとことからだった。

「そういえば一弥ってさ、何かすごく女の子っぽいよね」
「ああ、確かに。どっちかっていうと可愛い系だな」

母親似だと当人が言う顔は、こう、上手い表現が思いつかないのだが、輪郭、目鼻の配置、全てが女性のそれに近い。 男性ホルモンの働きが何だとかは知らないが珍しいことは確かだろう。
程良い背の低さも相まって、服装次第では本当に女の子と間違えそうである。

「そんなことないですよ、と言いたいところですが……」
「……色々とあったのか」
「はい。もう、色々と」

ふっと遠い目をする一弥。何かを諦めたような瞳だ。
俺は心の中で合掌する。お前は強く生きている、だから挫けるな。

「しかし一弥、その顔で得したとかそういうことはないのか?」
「え、そうですね……ずっと小さい頃に、外に出た時知らないおばあさんに可愛がられたことは何度か」
「なるほど」
「『可愛い妹さんがいていいわねぇ』と言われて、隣で苦笑いしてた姉さんの姿を見てた記憶があります」

今の佐祐理さんを鑑みるに、彼女が苦笑するような光景は年に一回あるかどうかだ。
どうにか見られないものかと思い、即効で無理かと諦めた。きっちり逆襲されるのがオチである。

その後も少し一弥の昔話を聞いていると、玄関から帰宅を告げる声が響いてきた。
視線を移せば大きめの荷物を抱えた舞に佐祐理さん。
何やら今日は佐祐理さんが「お父様とちょっとお話があるんですよー」とのことで、舞がそれに付いていった、という感じだ。
いったいどんなことを談議したのかは知らない。知りたくもない。デッドエンドコースの選択肢は避けるに限る。

二人の手元の物は紙袋に入っていて、割と重そうである。
買い物の戦利品にしては趣が違う。何を持ってきたんだろう、と疑問に思っていると、佐祐理さんが自ら説明してくれた。

「ちょっと舞と思い出話に花を咲かせまして、こんなものを掘り出してきちゃいました」
「…………私の家にも行ってきた」

じゃーん! なんて効果音と共に現れたのは分厚い冊子型の、そう、アルバムがいくつか。
タイミングがいいというか、ちょうどこっちも一弥の話を聞いた後だったので興味がむくむくと沸き始める。
舞、佐祐理さん、二人の過去こそ知っているものの、幼い日の姿を目にしたことはほとんどない。
いや、ある意味では舞の方は今も視界に入りっぱなしなのだが。佐祐理さんは完全に未見なわけで。

それに、舞にもアルバムがあるのだということに、俺は少なからず驚いていた。
幼少時の体験故に、その頃の思い出は舞にとってあまりいいものではないだろう。
だからこそ、一枚でも笑顔の写真があればいい、そう心から思う。
幸せであってほしいのは、今も昔もこれからも決して変わらぬ気持ちなのだから。
と、適度にシリアス分を補給しつつ閲覧タイム開始。

「……じゃん」
「赤ん坊の時の写真か。舞の母親もよくこんなに残してるなぁ」
「お母さん写真とかビデオとか大好きだったからねー。事ある毎にカメラ持ち出して」
「舞さんは全然違いますね。……まいさんは、全く変わってないように見えますが」
「そりゃそうだ」
「きゃーっ! 舞、可愛すぎますっ! まいちゃん、これとこれとこれとこれとこれもあとで焼き増ししますよっ!」
「佐祐理、ネガないよ?」
「そこは我が倉田家の科学力でどうにでも」

なるんかい。

「おおっ! 佐祐理さんこれいくつくらいのですか?」
「えっと、四歳ですね。隣でぐっすり寝てるのが一弥です」
「………………可愛い、佐祐理」
「もう、舞ったら。褒めても何も出ませんよー?」
「うわ一弥、ホントにちっちゃい頃から女の子っぽいね」
「言わないでください……」

そして、ぺらりと何気なくめくった次のページが、全ての引き金となった。

「あれ? これ、――― 誰?」
「あ、懐かしいですねー」

合計十二枚の写真は余すところなく、何というか華美な衣装の少女で埋め尽くされている。
佐祐理さんではない。顔の造詣は近いが、より中性的で、人形のような小ささ。
不安げな表情で佇む姿は儚さと幼さ故の可愛さを纏い、

「ってこれ一弥じゃん! 何してるんですか佐祐理さん!?」
「勿論可愛い弟をより可愛くした結果ですよー」
「じゃなくて! どこをどうしたらこうなったんですか!?」
「一弥が可愛いからです」
「……いや、まあこれ見る限りじゃ可愛いですけど」

言い切ったよ。きっぱり言い切ったよ。俺も同意しちゃったよ。
当人は姉の言葉を素直にいい意味で受け取れるはずもなく、苦笑いする気力もなくうなだれている。
そしてそんな一弥を尻目に、佐祐理さんはずどん! と床を踏んで立ち上がり、名案を閃いたとばかりに目を輝かせた。
嫌な予感。藪をつついたら蜂と蛇とついでに黒いアレまで一緒に出てきた気分だ。

「佐祐理は常々思っていました。大人になると、アルバムの中身は次第に埋まらなくなります。 残るのは小さな頃の思い出だけ。でも、それではあまりに寂しいです。大きくなってからも思い出は積み重なっていくものですから」
「………………」
「だから、こうして成長した今の思い出も、写真に収めておきたいと佐祐理は思います」
「…………えっと、つまり?」
「一弥に厳選した可愛らしい服を着てもらって、いっぱい思い出を残そうと」

俺はそっと、一弥の肩を叩く。ああ、信じてないけど神よ、何故あなたはこんなにも彼に試練を与えるのですか。
頑張れ。応援にもならないが超頑張れ。過酷な現実に負けるな。
共に苦労人として二人妙なシンパシーを感じ合い通じ合ったところで、ふっとまいが漏らした。

「ねぇ、あたし、ずっと思ってたんだけど」
「…………どうしたの?」
「どうしました?」
「祐一くんってさ、一弥に負けず劣らず女装させたらいけそうじゃない?」


――― 時が凍った。


言うまでもなくそれは錯覚だろうが、俺には確かにそう感じた。
しばしの沈黙を経て、錆びたカラクリのようにぎぎぎと俺は振り返る。
見てはいけない、早く逃げろ、そんな本能の警告を抑え込んで。
願わくば、何事もなく話が進んでくれればいいと。

「………………」
「あの、佐祐理さん?」
「…………佐祐理」

同じく立ち上がった舞が佐祐理さんの肩を軽く叩く。
その行動にどんな意味があるのかはわからない。わかりたくもない。
ただひとつ間違いないのは、これで賽は投げられた、ということ。
にっこりと、それはもう状況さえ知らなければ天使か聖女のような笑みを浮かべ、ぽん、と手を合わせ、

「まいちゃん、素晴らしいです! 佐祐理もずっとそう思ってたんですよー」
「だよねだよねっ」
「はい、なので―――

……もう躊躇ってはいけない。
誰よりも早く俺は動き出していた。最短距離で玄関へと向かい、靴を引っ掛ける形で履き扉を抜けて階下に飛び降りる。
一度も振り返らず、迷わず、全速力で走り去る。遠くへ。少しでも遠くへ。
追跡者はすぐ放たれるだろう、今の俺が考えるべきは、するべきはとにかく捕まらないこと。見つからないこと。

しかし、やはりというか、そんな甘くはなかった。
背後に気配を感じる。駆ける足音。迫るプレッシャー。
俺はすぐに舞だと見切りをつける。そして、心のどこかでは逃げ切れないと諦念を抱いてもいた。
身体能力の差は歴然だ。このままならすぐに追いつかれる。

息も切れてきた。分の悪い、賭けに出るしかない。


――― そして冒頭へと戻る。
結局、獲物たる俺は狩人の魔の手から逃れられなかった。
恥ずかしい格好のまま家へと連れ戻されていく。……頼む舞、後生だからこれみよがしにゆっくり歩かないでくれ。










何か簡易撮影スタジオが完成していた。
一応確認するが、残念なことにやっぱり俺達の家だった。
ここまで来て抵抗しようとかそんな意思は持ち合わせていない。ていうか無理。諦めた者勝ちだ。
隣には同じような境遇の一弥少年。目配せをして、互いの不憫さを慰め合う。虚しい以外の何物でもない。

着替えの場面まで辿り着くと、最早悟りに近い境地を開いていた。
心を無にし、時が過ぎるまで耐える。でなければ精神が先に参ってしまう。

メイクから始まり準備が整ったら着せ替えスタート。
仔細までは描写しないが、古今東西あらゆる種類の女性用衣服をとっかえひっかえな感じの三時間だったと言っておく。


後に残ったのは満足そうな表情の三人と、身体も心もボロボロな二人。
それと、また然るべき場所に運ばれるのを待つ無数の衣服達。

「現像が終わるまで楽しみにしててくださいねー」

という佐祐理さんの死刑宣告を聞いて、俺と一弥は苦笑するしかなかったのだった。





数日後、雑多に詰め込まれた本棚の中に、いつの間にかアルバムがひとつ増えていた。
中身を確かめる勇気は俺にはない。見たら最後、忘れたい記憶ナンバーワンとして脳内で燦然と輝くことだろう。

ついでに、ショック療法と言おうか、思い出したくもなかったが俺は思い出してしまった。
家のアルバムには、幼少時の(主に)母親に着せ替えられていた女装姿の俺の写真が山ほどあるのだというのを。


佐祐理さんか、あるいはまいか、とにかく誰かに訊ねられることがないよう、祈ることしかできなかった。











祐一「作者出てこーい!」

まい「あ、祐一くんだ。何気にあとがき登場は初だよね」

祐一「いやまあそうだが、んなこたどうでもいい。何だ今回の展開は」

まい「え?」

祐一「素で訊き返すな。じゃなくて、どうして俺ばっかり」

まい「それが祐一くんの役回りだからじゃない?」

祐一「つか大半はお前が原因じゃねえか!」

まい「ちょ、痛い痛い痛い痛い久しぶりのアイアンクロー!」

一弥「…………あのぅ」

祐一「おう、一弥か。お前も遠慮なく言いたいことは言った方がいいぞ」

一弥「あ、いえ、勿論いっぱいありますけど」

まい「あるんだ」

一弥「それより、後ろ見てください」

祐一「ん?」

佐祐理「祐一さん、こちらでははじめまして、ですね」

祐一「ええ、でも佐祐理さん、ちょっといいですか?」

佐祐理「はい、何でしょう?」

祐一「にこやかなのは大変いいと思いますが、両脇のそのブツはいったい」

佐祐理「これはV.S.B.Rですよ」

祐一「…………何故にそんなものを構えておいでですか」

佐祐理「祐一さん、人には分相応不相応というものがあるんですよ?」

祐一「…………それはつまり」

佐祐理「祐一さんはあとがきに出てきちゃいけない人だってことです」

祐一「――― っ(脱兎)」

佐祐理「最大出力、発射っ!」

祐一「ちょ、ちょっと待っ、ぎゃあああああああああああああ!」

一弥「……祐一さん、大丈夫ですか?」

佐祐理「ギャグ補正が掛かってますから死にはしませんよー」

舞「…………(ずるずる)」

佐祐理「舞ー、ゆっくりしていいからねー」


まい「…………いいの、これで?」