佐祐理さんの手首には、未だ消えない傷がある。
それは咎跡なのだと言っていた。自分が犯した罪の、取り返しのつかない過ちの証なのだと。

倉田一弥は幼くして命を失った。
俺が知る限り、つまり佐祐理さんの話を全面的に信じるならば、根本の原因は倉田家、そして佐祐理さん自身にあるらしい。
少しずつ病んでいく弟に対して、何もしてやれなかった。
そして、何もしなかったことこそが、一弥を傷つけ、最悪の結果を招いたと、佐祐理さんは今でも思っている。

昔はもっと酷かった。
全てを自分のせいにして、誰も責めず、悲しさを表に出すこともせず。
あの頃、舞と佐祐理さんの二人が卒業してしばらく経つまで、俺は佐祐理さんの笑顔しか知らなかった。
ずっと笑っていて、辛いことなんて、苦しいことなんてないとでもいうように。
なんて強固な虚飾だったんだろうか。長い間被り続けてきた仮面は、簡単には剥がれなかったのだから。

今、佐祐理さんは笑っている。
偽りの表情じゃない、それは幸せから来るものだ。


けれど――― 時々、俺は思う。


まだ、本質的な部分で終わってはいないんじゃないか。
一見わからないだけで、危ういところが佐祐理さんにはあるんじゃないか、と。

一弥といる時の佐祐理さんは、とても嬉しそうだった。
贖罪の意味があるのかもしれない。「できなかったことをしてあげるんです」。そう前にぽろっとこぼしたのを覚えている。
でもそれ以上に、弟へと向ける単純で強い家族への愛情を感じるのだ。
当たり前に人を愛することが、どれほど難しいか。俺達はよく知っている。特に舞は、過去が過去だけに。
そんな俺達から見て、佐祐理さんは一弥に対し、決して歪んだ感情を向けてはいなかった。
溺愛にも近いだろう。もしくは文字通り遊び相手。本人が拒絶しない程度に、大事にできている。


……安心していた。安心していたから、俺は忘れていた。
かつて、一弥を失った佐祐理さんが走ったのは、自傷行為。消えない傷を残す行為。
ならばこの状況でもう一度、一弥と離別することがあるとしたら……その痛みに耐えられるのだろうか。

「……うーん」
「どうしたまい、まさかさっきの手羽先が一個自分だけ少ないと気づいたのか?」
「あれ祐一くんのせいだったんだ。あとでじっくり話し合う必要があるね。……じゃなくて、あのね」
「……何だ、真面目な悩みか? 話せる内容なら相談に乗るぞ?」
「ううん、えっと、あたし、なんか忘れてるような気がするんだよね」
「大事なことを?」
「そうそう。喉元まで出かかってるんだけど思い出せないの。あー、もどかしいー」
「まぁ、思い出せないなら大したことじゃないんじゃないのか?」
「それもそうだね」

忘れていたのだ。

「あ、手羽先の件についてはまだ終わってないよ。食べ物の恨みは怖いんだから」


……ちっ。それは忘れてくれてもよかったのに。




















"まい"のいる生活+1。 -5-




















八月になり、蝉の大合唱も本格化してきた頃。
家の周りでみんみんみんみん騒がしい鳴き声にいい加減うんざりし始めてきた俺に、一弥は麦茶を持ってきてくれた。
三人娘は現在お出かけ中。話によると、

「乙女には逃しちゃいけないチャンスがあるんだよ」
「今日もはりきって行きますよー」
「…………完全勝利」

佐祐理さんが手元にチラシを持っていたんだが、内容までは確認できなかった。
まぁ、バーゲンセール辺りだろうと思う。何しろ倹約は俺達にとって最優先事項だ。
極限まで食料を安く買い済ませるには、そういった努力が欠かせない。
ちなみに俺も何度か付き合ったことがあって……結論だけ言えば、戦力外通告を受けた。
恐るべしは女のパワフルさ。体重を乗せた渾身のタックルは男の俺を吹き飛ばすのに十分な威力を持つ。
以来、バーゲン時のおばちゃんどもは俺にとってのトラウマになっている。怖いよあの人達。目血走ってるもん。
……いや、真に恐るべしはさゆまいトリオなんだが。勝率十割。『商店街の女王』の名は伊達じゃない。

そんなこんなで男二人、扇風機の心許ない風で暑さを凌ぎながら向かい合っているわけで。
買い物が終わるまではしばらく掛かる。日暮れには早く、外の陽射しがまだ昼の時間だと強調していた。

「なぁ、一弥」
「どうしました?」
「これ読めないんだが。なんて書いてあるんだ? 牛の一種か?」
「…………かたつむり、ですよ」
「おー、なるほど。ありがとな、これで全部埋まったぜ」
「なんで所謂は読めてるのに蝸牛が読めないんですか……」

無事新聞に付いていた漢字五十問もクリアし、テーブルの麦茶をくいっと飲み干す。
空になったコップに次の一杯をついでくれる一弥。いや、マジで気が利くな。
それには手をつけず、感謝の言葉と共に溜め息をひとつ。こうも蒸し蒸ししてると何もかもがだるい。

「……あの、祐一さん。ちょっと訊きたいことがあるんです」
「ん、なんだ? さてはお前、まいに……っ!?」
「違います。そんな血迷ったことはしません」
「何気に酷い言い草だな」

前々から気づいてはいたが一弥はツッコミ型らしい。
三人娘は全員ボケなので俺としてはとっても有り難い話である。

「いえ、大したことじゃないんですけど……」

そう言うと何故か俯き、思案顔でしばし沈黙。
質問の内容を吟味しているのか、口を開きかけては閉じる、その動作を繰り返す。
どう訊けばいいのかわからないような感じだった。
五秒近くを思考に費やし、えっと、と前置きしてから、

「この辺りに、広くて、水の汲める場所ってありませんか?」
「……広くて、水の汲める場所、ねぇ」

考えてみる。
ぱっと思いつくところがいくつかあった。例えば、あそこだ。

「そうだな、ものみの丘なら滅茶苦茶広いし、重要かどうかは知らんけどあまり人気もない。でも」
「でも?」
「困ったことに、俺の覚えている限りじゃ水の汲める場所はない」
「そうですか…………」
「昔はあったんだけどなぁ。おあつらえ向きの場所」

呟いて、思い出す。
もう随分と前の記憶だ。草の匂い、涼しい風、景色を照らす陽光、揺れる黄金色。

「ほら、今、高校があるところ。あそこは昔麦畑だったんだ」
「全然面影ないですね」
「俺が小学生くらいの時の話だしな。あー、近くに水飲み場もあったし、条件にはぴったりなんだが」
「……わかりました。ありがとうございます」

――― ふっ、と。
一弥は表情を曇らせて、けれどその暗い色をすぐに覆い隠し、微笑んだ。
どこか落ち込んだ、期待が外れたような声。それに妙な引っ掛かりを感じながらも、問い質すことはしなかった。

佐祐理さんに言えば、あっという間にふたつの条件を兼ね備えた場所に連れてってもらえるだろう。
他でもない一弥の申し出だ。断るどころか秋子さん並みの速度で了承を出すに違いない。

だが……何となく、そうじゃないんだな、と俺は理解していた。
おそらくそれは一弥にとって、とても大事なことなんだろうと思って。

結局有耶無耶になったまま、俺達は買い物兼調理組(まい除く)の帰りを待った。
夕食に入っていつもの如くまいとおかずの取り合いをしていて、シリアスな空気なんて忘れてしまい、その日は何事もなく終わる。


……一弥が不調を訴え始めたのは、数日後のことだった。










緩やかに、緩やかに弱っていく姿が、あの日の記憶と重なって、わたしを責め立てる。
お前が――― お前が一弥を、



「っ!」

わたしはびくん、と跳ね起きる。
いつの間にか眠っていたらしい。目の前には安らかな寝顔。少しだけ、ほっとする。
電気を点けていない室内は薄暗く、外を見ればなるほど、夕陽も沈みかけていた。
祐一さん達は外出中。我が儘を言って、看病役を代わってもらった。
みんなに対して申し訳なく思う。今だけ許してほしい。わたしはそう願った。

初めは軽い違和感だった。
それは次第に強くなっていって、途中で確信へと変わった。

日を経る毎に一弥は体調を崩し、微熱が続き、段々と動くこともだるくなってきて、今はベッドに寝たきりの状態だ。
医者は原因不明、と言っていた。精神的な失調にも似ているが、そんなことはないとわたし達が保証した。
だって、ずっと元気に笑っていたのだ。楽しそうに、嬉しそうに。毎日を喜んでいたのだ。
それが続いていくと、信じて疑わなかったのに。

わたしにできるのは、治るまで付いていることだけ。
胃に優しい食事を作り、額に濡れタオルを当て、定期的に飲み物を与えた。

舞は普段わたしが請け負っている家事を全部やってくれた。
まいちゃんはわたしの手伝いをして、さらに舞の仕事にも付き合っていた。
祐一さんも、自分にできることをできる範囲でこなしてくれた。
その行動の何もかもが、わたしと一弥を心配して、気遣ってのことだ。
有り難く、同時に凄く申し訳なく感じた。だから精一杯、一弥の病気が治りますようにと祈った。
一弥はそんなわたしに、みんなに、ただひたすらごめんね、と謝っていた。

どうして、と思う。どうして謝るの、と。
あの日の幼い姿と重なる。黒い、昏い感情が心の中を満たす。
一弥は何も悪くないのに。悪いのは、本当に悪いのは―――

「……姉さん」
「なに?」
「姉さんは、悪くないんだよ。だから、自分を責めないで。お願いだから」

わたしの気持ちを察したかのように、弱々しい声で呟く。
こんな時でも、自分よりわたしを気遣うのだ、この弟は。

「一弥……」

……怖かった。
折角また一緒になれたのに、今度は間違えずに行けると思ったのに。

仮面をいくら被っても、隠す相手がいなければ意味はない。
同じことで、一人で浮かべる笑顔にも、何の価値もないのだ。
笑いかける誰かが、大切な誰かが必要だから。
倉田佐祐理にとってのそれは、祐一さんであり、舞であり、まいちゃんであり、そして一弥だから。


今、その笑顔さえ、わたしは保てそうになかった。











今日は全編シリアスです。つか佐祐理さん別人です。

一弥「でもこっちはまた別なんですね」

まぁ、せめて最後で暗い雰囲気は吹き飛ばしたいよね。

一弥「それにしたって……何で僕は弱ってるんですか?」

君、元は死人だよ? 古来より死者の蘇生には並ならぬ試練が必要なのですよ。

佐祐理「だからって一弥が苦しい目に合ってるのは理不尽じゃないんですか?(にっこり)」

……頼むからそのごっつい斧を首筋目掛けて振り下ろそうとするのは止めてください。

佐祐理「誠意ある説明をお願いしますよー」

うぅ。えっとね、最終話の頭でまいが話してくれるから。

佐祐理「一弥、はいっ」

一弥「え? ええ?」

佐祐理「まずは刃を真っ直ぐ保ったまま振り上げて、そうそう、力まずにねー」

ちょっと佐祐理さん何純粋無垢な少年の両手持って誘導してるんすか!?

佐祐理「後は狙いを定めたら、重力に任せて振り下ろすの。最後まで刃の部分を真っ直ぐにしてればいいから」

一弥「………………(諦めてください、と目配せ)」

いやいやいやいや、諦められるわけないってぬああっ!(間一髪で回避)

佐祐理「ちっ。よかったですね、一弥の慈悲によって救われましたよ?」

今「ちっ」って小声で言ったよね。詮索しないけど。ともあれさすがに毎回死にオチは勘弁です。

佐祐理「マンネリ化は駄作への一歩ですしね」

こんな座談会風味やってる時点でもう手遅れっぽいが。ともあれ次で本編は終わりです。

一弥「えっと……僕、ずっとあのまま?」

そこは作者の意地に掛けてちゃんとどうにかします。あと、まいに見せ場作るよ、と宣言。

佐祐理「男子に二言はなし、ですねー。じゃあここに捺印お願いします」

はーい。って何この誓約書。莫大な保険掛けてあるんですが。受取人は……あれ? 佐祐理さん?

佐祐理「倉田家がどうやって巨万の富を築いたか興味ありませんかー?」

ないです。ないですから懐の鈍く光るブツを仕舞ってください。

一弥「……強く生きてくださいね」

何で君はそんな遠目から見るかなぁっ!

佐祐理「今です。えいっ☆」

あぅっ!(昏倒)

一弥「容赦ないですね姉さん……」

佐祐理「いつもこんなものですよー」

一弥「あ、あはははは…………」

佐祐理「ということで、このでくの坊は預かりますねー」





あとがき初、次回に続くっ!(ぇー