八月半ばのことである。
 決して小さくはないアパートの一室で、一組の男女がぐったりと横たわっていた。
 二人の傍では扇風機がういんういんと頑張っているのだが、部屋の空気を徒に掻き回すだけ。
 全開にされた窓の外から入ってくる風が涼しいのならまだしも、嫌になるほど蒸し暑ければ撹拌しても大差ない。

「ま、舞ー、生きてるかー……?」
「……なんとか」
「そうか……」
「祐一は、平気……?」
「どうにかな」

 最悪なことに、連日の猛暑で酷使し過ぎた所為かクーラーが昨日壊れてしまった。
 元々この部屋に取り付けてあったもので、些か型が古く、しかも業者が盆の休みで修理まで一週間掛かるとのこと。
 こうなると、快適だったはずの室内は地獄と化す。あまりの暑さに何かをする気にもなれない。
 普段は平然と二杯以上おかわりをする舞も、昼食ではその半分しか食べなかった辺り、かなり参っているのがわかる。
 これで大学にでも行ければ空調の利いた教室にいられるのだが、残念ながらと言うべきか、既に夏季休暇突入中である。
 佐祐理は実家に戻っていて、明日にならないと帰宅しない。二人きりだ。
 かといって何をするでもなく、気だるさに身を任せ、せめてこれ以上熱を生まないよう寝転がっているしかないと祐一が言って今に至るのだった。

「市民プールとか、空いてたっけ……」
「……確か今日は、休み」
「じゃあ、どっか適当な店でも探して夜になるまで涼むか……?」
「……佐祐理が帰ってくる時は、家にいたい」
「だよなあ……。どうすっかな……」

 卓袱台を挟み、ごろごろと寝返りを打つように動く祐一。
 唸りながら考えていると、舞がふと起き上がってずりずり尻を擦って動き、祐一の耳元で囁いた。

「いいことを思いついた」
「ん、何だ?」
「プールに入る」
「市民プールは閉まってるんだろ。他にこの近くで入れるようなとこはあったか?」
「……ここで」

 舞が指す方向を、祐一は見る。
 細いその指の先にあるのは、家の中、台所とトイレに並び、最も水を使う場所。

「おお、なるほど、その手があったな! 全然思いつかなかった」
「クールダウンした方が、いいと思う」
「だな。……で、どうする? 一緒に入るか?」
「……一緒がいい」
「そっか。よし、それじゃ湯船に水を張るぞ」

 風呂場を簡易プールとして使うことに決め、嬉々として蛇口を捻りに行った祐一の背を、舞はぼんやりと見つめていた。










時には服のない子のように










 どうにか水が溜まるまで待つこと約二十分、充分な量が湯船に満たされたのを確認してから。
 脱衣所には、一人で着替える祐一がいた。恥ずかしげもなく一緒に脱いで入ろうぜと提案したのだが、すげなく断られたのでその表情は少し落ち込み気味である。 「先に行ってて」のひとことでばっさり切り捨てられた所為か、ダメージはかなり大きかった。

「別に、今更お互い裸見られたって構わんのになあ」

 普段どの程度爛れた生活を送っているのかよくわかる台詞を漏らし、パンツタイプの水着を穿く。
 泳げるほど風呂場は広くないため、せめて見た目だけでも気分を出した方がいいんじゃないかという個人的な判断からだった。

「そういや、水着なんか着て風呂入るのは初めてだよな。……って当たり前か。ま、んじゃお先に失礼するよっと」

 わざわざ股間をタオルで隠す必要もない。
 軽く扉を開け中に踏み入ると、汗で不快に湿った身体がすっと冷えるような空気を感じる。
 心地良い涼しさに思わず目を細め、祐一はシャワーの蛇口を捻った。湯と水の配分を半々程度にし、気持ち悪い汗を流す。
 ついでにばしゃばしゃと髪も濡らして、雫を滴らせながら湯船にゆっくり浸かってみる。

「くうううぅぅーっ! 冷た気持ちいいっ」

 肩が出ないくらいの水に身体を沈め、どことなく親父臭い声と共にゆったり足を伸ばした。
 それでもまだスペースに余裕のある湯船は、祐一達が三人での暮らしを始めようと決めた時探した条件のひとつだ。 キングサイズのベッドが置ける部屋と、古くても温かみのある雰囲気、そしてみんなで入っても窮屈でない風呂場。 三人が仲良く、家族のように過ごせる場所を見つけるのは本当に苦労した。
 だからこそ、祐一はこの家が気に入っている。日々の幸福をいっぱい詰め込んだ、三人でいる空間が。

「ふふふーふふーん、ふーんふーふふふーん♪」

 興が乗ってきたので鼻歌を始める。
 時折他でも無意識にそうしている姿を見て、舞や佐祐理が可愛いと思っていたりするのを当人は知らない。
 と、ちらちら目をやっていた脱衣所の方に人影が現れた。扉の向こうにうっすらと映っている長身は、舞以外には有り得ない。

「お、ようやく来たか。何やってたんだ?」
「……特に何も。それより祐一、水加減はどう?」
「気持ちいいぞ。水道代が嵩むのは難点だけど、わざわざあのくっそ暑い外出て市民プール行くよりよっぽど楽だ」
「……そう。なら、言ってみた甲斐があった」

 視線の奥で小さく微笑む気配を察し、祐一も破顔する。
 それから間もなく影の動きとシンクロして衣擦れの音が聞こえ始め、二、三分で脱衣は終わった。
 さてどんな水着を選んできたかなと思いながら入ってくるのを見ていると、些か遠慮がちな足運びで姿を見せた舞は、

「………………」
「……祐一、あまりじろじろ見ないで」

 ―― 何も着てなかった。
 すっぽんぽん。
 一糸纏わぬ。
 いわゆる全裸。
 辛うじてハンドタオルと腕で大事な部分は隠そうという努力が見て取れるが、片手で抱えるように押さえられた豊満な胸は明らかにはみ出し、 タオルの覆いも臍下から股の辺りしかない。おおっぴろげにされるよりもよほどエロかった。
 無表情を装う顔は一目で判別できるほど赤く染まり、心なしか肌も薄く色付いているように思える。

「……っ」
「あのー」
「…………っ」
「あのー……舞さん?」
「………………っ!」
「どう頑張ってもどっちかの手離さなきゃ蛇口は捻れませんよ?」

 両の手の位置を変えないまま、肘や口でシャワーの水を出そうとするのだが、さすがに無理がある。
 手を貸してやればいいのに、祐一は必死な舞を眺めてにやにやしているだけ。
 そのうち舞は諦めて、じとー、と祐一に暗い視線を投げかけた。

「……趣味が悪い」
「んなことないだろ。舞がちゃんと手使って捻ればいいだけじゃないか」
「……そんなことしたら、見える」
「見えて何か困ることってあったっけ?」
「……恥ずかしい」
「え、だって舞、俺に見せたいから着てこなかったんだとばかり」
「…………!」
「いっ、いてっ、こら、本気でチョップすんのはやめろって!」

 さらに顔を赤くして祐一に連続チョップを叩き込む。
 当然そうすれば手を使うことになり、隠されていた双丘が露わになった。
 舞の動きに合わせ跳ねるふたつの膨らみに目を奪われ、祐一の鼻の下が伸びる。
 慌てて手を引っ込め隠し直すが遅い。しばしの間を置き、不満そうな表情で舞はシャワーを浴びた。胸は、もう隠さない。

「んで、本当のところはどうなんだ? どうして水着を着てこなかったのか」
「……なかった」
「は?」
「探したんだけど、水着が、見つからなかった」
「…………マジで?」
「マジ。……それに、祐一を待たせるのもいけないと思ったから」
「だから仕方なく素っ裸で来た、と?」
「……そう」
「佐祐理さんに電話して訊けばよかったんじゃないのか?」
「………………あ」

 微妙な雰囲気になった。

「……でも、邪魔したら悪い」
「確かにそうだが……さっき明らかに今気付きましたって反応してたぞ」
「してない」
「してた」
「してないったらしてない」
「……いや、まあいいけどな。おかげで眼福だったし」
「…………っ!」
「いたっ、だからチョップはやめ、おうっ!」

 そんなこんなで。
 祐一と舞は、同じ湯船の中で向かい合っていた。
 足は軽く曲げ、軽く崩した三角座りの姿勢。腕を伸ばせば互いの身体に容易く触れられる距離。
 舞の手は両方とも、下腹部を覆い隠すタオルに添えられている。対し祐一は湯船の縁に腕を乗せ、後ろに寄りかかって気分良さそうに踏ん反り返った格好だ。 その偉そうなポーズが微妙に嫌がらせっぽいのだが、今の舞にツッコめというのは少々酷というものだろう。

「どうだ、気持ちいいか?」
「……水が冷たい」
「そりゃ当然だろ。他に感想は?」
「……祐一の視線が恥ずかしい」
「我慢してくれ」

 あっけらかんと言う祐一の目は、さっきからずっと舞を、正確には舞の胸を捉えて離さなかった。
 見慣れた、どころか触り慣れてすらいるものではあるが、やはり良いものは良い。
 それに、普段とは違う場所で見ると、また違う感慨が湧き上がる。

「お前のそれ、水に浮くんだよな……」

 確かな質量を持った膨らみは、沈み切らずに半分ほどがぷかりぷかりと顔を出している。
 思わず上からぐっと押し込んで水中に沈めてやりたい衝動に駆られ、祐一は自制した。
 代わりに指で触れる。弱く力を入れると柔らかく凹み、舞が小さな声を漏らす。
 調子に乗ってさらに突っつこうとしたところでチョップが飛んできた。

「セクハラ」
「うぅ……いいじゃんかよぅ、少しくらい」
「……ここはプール。変なことは、禁止」

 そうもはっきり切り捨てられると、祐一とて強くは出られない。
 実は既に下半身が大変なことになっていたがそれは黙ってればいい話なので口を噤んだ。言わぬが華。
 しかし、目の前においしそうな果実が転がっているのに手を出せない辺り、完璧な生殺しである。
 まったり涼みに来たはずなのに、拷問めいた仕打ちを受けている自分は何なんだろうと祐一はふと思った。

「……祐一は、ずるい」
「は? 何が?」
「……私が恥ずかしい思いをしてるのに、祐一は全然平気そうにしてる」
「って言われてもな。男が胸を隠す必要はないわけだし」
「不公平」
「ならどうしろって言うんだよ」

 苦笑混じりで呟くと、舞がじっと祐一の胸板を見つめた。
 黒く澄んだ瞳を向けられ、初めこそ動じずにいた祐一も次第に居心地の悪さを感じ始める。
 姿勢を変え少し身体の位置をズラしてみるが、舞の視線はその動きに付いてきた。
 さらに見つめられ続け、段々と羞恥心が噴き出してくる。自分のそこに何かおかしいものがあるんじゃないかと錯覚しそうなほどの凝視に耐え切れなくなり、 祐一は慌てた仕草で胸元をばっと腕で隠した。身を捩り視線を避けるような姿に、舞はどことなく勝ち誇った表情を浮かべる。

「……やっぱり恥ずかしい」
「お前な、そんな目で見られて恥ずかしくないはずないだろ……」
「……さっきの祐一も同じ目をしてた」
「む」

 反論できない。

「ま、まあ、エロい想像してたのは確かだ」
「…………ずびし」
「いてっ! 何でチョップする!?」
「祐一にはデリカシーがない」
「何をぅ!」
「もっとロマンチックさを求めないと、女の子に逃げられる」
「意外だな……。ロマンチックさなんて欠片もない舞がそういうことを言うとは」
「………………」
「いっ、こら、何度も殴るなっ! わかったわかった、お前も充分ロマンチックさに溢れてるから!」
「……って佐祐理が言ってた」
「やっぱりあの人か……」

 あははー、と嬉しそうに講釈する佐祐理を想像し、祐一は軽く額を押さえた。
 祐一と舞が『そういう関係』なことを知っていて佐祐理は応援しているのだが、彼女の入れ知恵に振り回された時もあり、要するにあまりいい思い出がない。 というか、たまに妙な知識を教えるのは本当に勘弁してほしかった。

「まあ、悪いことばっかりでもないんだけどな……」
「……祐一、何か言った?」
「いんや何にも。で、マイフェアレディはどんな対応をご所望でらっしゃる?」
「………………んー」
「考えてないんかいっ」

 悩む仕草を見せた舞についノリでツッコんだ手が胸に当たる。
 ふにょんと弾力ある触り心地に喜ぶ間もなく、林檎色の頬になった舞の二倍返しが祐一に入った。
 役得だろうが、学習能力はない。

「お、お前……裏拳はマジ洒落にならん……」
「……祐一、今思いついた」
「今って……あ、いや、言ってみろ」
「……私が祐一に座るから、後ろから抱きしめて」
「後ろから……それは挿れろということか?」
「……違う。そういうのは、今日はなし」

 答えようと思ったが、腹のど真ん中に吸い込まれるような一撃を喰らい、祐一はびくんびくんと痙攣するだけだった。
 水中でもまるで威力を減じない辺り、どれほどのものかが窺える。そして本当に懲りない男である。
 祐一の返答を待たず、舞は腰を持ち上げて移動した。祐一からすれば舞の尻が迫ってくる形なのだがそんなことを気にしていられる状況ではなく、 ようやく復帰して俯いていた顔を上げた頃には、白いうなじと流れるような黒い髪しか見えなかった。
 すべすべとした綺麗な背中が、胸板に触れる。後頭部からは甘い匂いが漂い、腿の辺りに当たる尻は柔らかく潰れていた。

「………………」
「祐一」
「ん、ああ」

 無言で堪能していたが、舞のひとことを合図に祐一は腕を前に回す。
 どうやら今回は本当にエロいこと禁止らしいので、なるべく性的でない手付きで腰を抱く。
 力は込めない。優しく、愛おしむようにそっと。軽く指でなぞった肌は冷たく、触っていると心地良かった。

「んっ……祐一、くすぐったい」
「悪い悪い。でも気持ち良くてな」
「……少しくらいなら、構わない」
「サンキュ」

 いつもなら迷わず十八禁コースなシチュエーションのはずなのだが、不思議とがっつく気持ちは湧かなかった。
 水に浸かりながらもこうしていると仄かに温かく、穏やかになれる。
 ……祐一の水着の中が臨戦状態なのは無視して、この扱いには舞も満足なようだった。

「いっそこのまま寝ちまうのはどうだろう」
「……それだと風邪をひくと思う」
「身体冷やし過ぎるのも良くないって言うしな。そろそろ出るか?」
「……もうちょっと」
「甘えん坊さんだなあ舞は」
「……否定は、しない」

 真顔で返す舞に、祐一はくすくすと笑う。
 抱きしめた格好のまま首筋に顔を近付け、微かに濡れた黒髪が掛かる肩に顎を乗せた。

「舞の髪、すげえいい匂いするんだけどさ。何か使ってたりするのか」
「佐祐理と一緒のシャンプーとリンス」
「ふうん。フローラルとかそんな感じの香りだっけ。こうしてると落ち着く」
「……そう」
「あとはたぶん、汗の匂いとかもするぞ」
「……祐一は変態?」
「ちゃうわい。でも、汗っていうと臭いイメージあるけど、舞のは全然鼻につかない。んー、いい匂い」
「…………あんまり嗅がないでほしい」
「フローラルなのに?」
「汗はフローラルじゃない。……きっと、汚いから」
「別に俺は平気だけどなあ。ほら、舐めてもいいくらい」
「ひぅっ! ……!」
「ちょっ、おま、グーはマジ洒落にならなぐふっ!」

 振り返るのと同時、抉り込むようなボディブロー。
 悶絶の声を上げ、祐一は身体を前に折って水に顔を付ける。
 ぶくぶくと顔の横で泡が立つが、舞は気にせず姿勢を戻した。
 数十秒後、どうにか復活した祐一が微妙に青ざめた表情で呟く。

「な、内臓が飛び出るかと思った……」
「……セクハラは禁止だって言った」
「いや、うん、調子に乗ってはいたけどな……。せめてもう少し優しく……」
「……祐一は優しくしたらつけあがる」
「よく理解してるこって」

 子供のようにむくれる祐一の頭を、よしよしと舞が撫でる。
 お前なあ、と呆れ声を放つが、その手を振り払うことはしなかった。

「今何時くらいだろうな」
「……わからない」
「もう結構いると思うんだが、確かここに入ったのが四時頃だから……そろそろ出てもいいか?」
「……充分涼は取れた」
「だな。だいぶ身体も冷えちまってるし。じゃあ舞、先に出ろ」

 言われた通り舞は立ち上がり、そこでぴたりと止まった。
 ゆっくり後ろを向くと、祐一の視線が尻の辺りに集中しているのを理解し、顔が緩んでいるのを確認して、

「あーっ!」
「祐一、先に出て」
「目の保養にするつもりだったんだがなあ……わかったわかった、行くからそんな睨むなって」

 機敏な動作で再び水の中に沈んだ舞の視線を受け、祐一はのっそりと立ち上がる。
 水着から大量に蓄えられた水が流れ、滴っていくのを眺め、祐一が脱衣所に消えるのを見てから舞は一息吐いた。

「………………」
 
 下腹部を隠していたタオルを絞り、扉の向こうに映る影が遠ざかるのを待つ。
 着替えを覗かれても昔ほど嫌ではないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。それに、そういうのはやっぱり夜の方がよかった。
 二人っきりの一日だ、昼はゆっくり過ごして、何をするでもなく、ただ一緒にいたい。
 勿論祐一とするのは嫌いじゃないけれど、穏やかな時間が舞は大好きだった。

「着替え終わったぞー」

 祐一の声が聞こえ、ざばりと風呂から出る。
 忘れずに栓を抜き、軽く全身を拭いて扉を開け、そこで舞は大変なことに気付いた。
 ……慌てて入ってきたものだから、着替えを用意していない。
 念のため見回してみても、下着の一枚すら置いていなかった。

「お、舞、もう着替えたの、か……」
「……替えを準備してなかった」
「じゃあここはひとつこのまま服を着ないで過ごすっていうのはごふっ!」

 延髄切りで祐一を落とし、着替えを急ぎ選び出して脱衣所に戻った。
 そしてショーツに足を通しながら、思う。冗談ばかり言って、おちゃらけた、でも憎めない、本当はとても優しい人のことを。

「……祐一の、馬鹿」

 ――馬鹿だけど、どうしようもなく好きなのだ。
 それだけは未来永劫変わらない、舞にとっての真実だった。