この名も無き世界が如何な理由の上に成り立ち存在しているのか、誰も知らない。 ただわかっているのは、四つの大陸と海があるということ。 世界の端に辿り着いた者もなく、そも、地平線の遙か先に何があるのかも謎に包まれている。 気が遠くなるほど昔、神々の時代と口伝によってのみ遺された伝承に、真実の切れ端が垣間見えるだけだった。 四つのうち、最も広大かつ芳醇な西の大陸には、様々な種族が暮らしている。 東側、それも一部の地域を除き、ねずみ返しのような断崖絶壁に囲まれた土地。 その海岸に面した地域から、鉱山脈と獣の森の間に広がる平野で生きる、人間。 彼らは平野の真中を流れる川と、協定により引かれた境で自国と他国を区別し、三つの国を作っていた。 他大陸との交易も盛んな海沿いに首都を置く漁業と異文化の国、アルヴァニスタ。 最も芳醇な土地で行われる農産業と獣狩りによって豊かな三国一の人口を持つ国、ミッドガルズ。 そして、程近い鉱山から採れる鉱石を使った錬鉄業を主とする専守防衛国、ユークリッド。 三国の均衡は際どいラインで保たれ、AとBは互いに水面下で小競り合いを繰り広げている。 王の意向で争いを望まないCは守りを固め、地の利と相まって他の二国にとっては不可侵とされた。 益を得るための、上辺だけの交易。突けばすぐにでも崩れてしまいそうな、危ういバランスの三つ巴。 そんな人間と比較的交流があるのは、鉱山脈の中腹にぽっかりと開いた洞窟でひっそりと暮らす、ドワーフ。 人間よりも格段に鍛冶技術が高い彼らの作る武具は、他の追随を許さない出来を誇る。 しかしドワーフは争いを嫌い、信頼した相手としか関わりを持たない。 並外れた膂力を持ち、自ら拵えた超重量の戦斧を軽々と振り回すその姿は、無謀な侵略者に対してのみ見せられる。 また彼らは、年月と共に魔力を帯びた特殊な鉱石を核に生まれるゴーレムと共存している。 そのため、鉱山脈は攻め行く者に対し難攻不落の要塞として立ちはだかっていた。 獣の森には、種々雑多な動物以外に、獣人と呼ばれる種族が住む。 二回りも大きな狼で、任意に人の姿を取ることも出来、頭頂部の耳と臀部から生えた尻尾が特徴。 本能に忠実だが理性もあり、知能は高く人語と獣の言葉、両方を解す。 実力主義で、雌雄問わず最も強く勇敢な者がリーダーとなる。 群れの意識が強く、仲間には絶対の信頼を寄せ、互いに助け合い基本的に裏切ることはない。 縄張り、つまり森の外には滅多に出ないが、領分を侵す敵には容赦なく襲い掛かる。 人化しても獣の俊敏さは変わらず、特に森と隣接しているBにとって、彼らは脅威とされてきた。 幾度か討伐が計画されていたが、それは予想される被害の大きさを考え必ず頓挫している。 ドワーフの住む鉱山脈を越えた先にも森があり、そこには長寿のエルフが静かに生きている。 彼らは総じて厭世的で、他種族との交流も全くと言っていいほどなく、特に争いの絶えない人間を毛嫌いしていた。 自然の象徴たる精霊と意思を交わすエルフは、稀に人間の中から出てくる魔法行使者、 即ち魔法使いとは比べ物にならないほどの魔力を持ち、精霊の力を借りることで脅威と称すべき現象を起こすことが出来る。 だからこそ、闘争を望まず、大地の恵みに感謝し、閉鎖的な環境で満足しているのだった。 そんなエルフと人間の仲介役、橋渡しと為り得るのが、両者の混血であるダークエルフ。 生活様式はエルフと何ら変わりないが、割と社交的で人間の里にも頻繁に足を運ぶ。 彼らを通じ、人間は僅かながらエルフに話し合いの場を求める機会を得ている。 もっともそれが叶ったことは片手の指で数えられる程度しかなく、結果は現状が明確に語っていた。 そのさらに西側、前人未到の領域に何がいるのかを人間は知らない。 時折見かけられる有翼人種、背に一対の羽を携える烏族が、獣人の森の先、険しい山々の頂上付近に住まうという噂があるくらいだ。 天が霞むような、伝承でのみ語り継がれている神の名残を留める古き山が、人々にとっての世界の端だった。 これは――そんな広くも狭い世界の中で生きる、一人の少年を中心とした物語。 ユークリッドの城下町、ハイデルで雑貨屋を営む家庭の、平凡な一日から始まる。 「お使い?」 「そう。ちょっと母さん達手が離せないから、行ってきてほしいのよ」 アスク・フォールドは、昼前の程良く忙しい店内で荷物運びをしている最中、母に声を掛けられた。 頼み事の内容に、首を傾げる。自分ももう十七歳、それなのにお使いなんて子供扱いし過ぎじゃないだろうか。 ……と、言い返そうとしたのだが、その言葉は遮られる。 「近所じゃないわよ。ラシュアン村の村長さんの要請でね」 「ラシュアン村ってことは、そっか、片道四時間近く掛かるもんね。母さんも父さんもこの状況じゃ厳しいか」 「その通り。アスクが役に立たないとは言わないけど、私達より仕事が出来るわけじゃないでしょ?」 母の言い分に、彼は納得した。 力仕事なら任せろと言わんばかりの父、会計の速度はアスクより格段に早い母。 どうも最近慌しくなってきた(勿論それだけ売れ行きも上がっているのだが)店内で、一番自由に動けるのは自分だ。 年老いた祖母にそこまでの長距離を歩かせようとも思わないし、本当は外の空気を吸いたかった。 なので、アスクは快く承諾し、ちょうど手の空いていた祖母が軽食を作るまで手伝いを続けることになった。 「アスク」 「父さん、どうしたの?」 「あまり急ぎの届け物ではないから、森は通るな」 「え? でも、あそこは凄いショートカットになるし、迂回するとかなりの距離になるよ」 「数日前からあの森で獣を見た、という話があってな。お前は剣も碌に扱えん。無理はしないに越したことはない」 「む……わかった」 今度は憮然とした表情で、頷く。 確かに、護身用にと外を出る際持たされている細身の剣は、彼にとって悪い意味で無用の長物だった。 雑貨屋の息子として、品物の種類と並びを覚えることはあっても、剣術を習ったことはない。 男に生まれたからには強くなりたいという欲求もあるが、徴兵の募集は今はなく、彼も軍でやっていけるとは思っていない。 簡単に言えば、何もかもが平凡、人並み、なのだった。 「はい、出来たよ」 「ありがと、おばあちゃん」 「気を付けて行ってくるんだよ」 「うん。行ってきます」 来客の応対に手を取られた両親の代わりに、祖母の見送りを受けてアスクは店を飛び出す。 南側にある町の出口を目指していると、不意に呼び止められた。 声が聞こえた背後の方へ向く。そこに立っていたのは、薄茶に赤を混ぜた色の髪をした、一人の少女。 「ちょっとアスク、アンタどこに行くつもりなのよ。店が忙しいんじゃなかったの?」 「何だ、リリーか。誰かと思った」 「あたしで悪い?」 「う、ううん、そんなことはないけど……」 「質問に答えてないわよ。いいからさっさと吐きなさい」 「吐きなさいって……ちょっとお使いを頼まれたんだ。それだけだよ」 勝気な口調で喋る彼女は、リリー・マカルード。アスクの家の近くで薬材店を営むマカルード家の一人娘だ。 親と同じ、薬師になろうとしていて、まだ見習いだが調合とそれを応用した料理の腕は高い。 本人曰く「まだまだね」とのことだが、森などに生えている薬草の大半を見分けられるその実力は、親譲りの優秀さと言えた。 アスクとは幼少時から付き合いがあり、二人の間柄は幼馴染。 とはいえ力関係はリリーの方が断然上で、アスクは彼女を好ましく思いながらも、少し苦手意識を持っている。 「ふうん、お使いね……」 「まさか……付いてくる、とか言わないよね?」 「あたしだってこれでも忙しいの。だから、残念ながら一緒には行ってあげられないわ」 「そっか」 内心ではよかった、と安堵しつつ、それを表情には出さないよう努めて呟く。 しかし、リリーは目敏く僅かな顔色の変化を捉え、ぷう、と頬を膨らませた。 「アンタ、あたしが付いてこないって聞いて安心したでしょ」 「え、そんなことないよ……」 「わからないとでも? 何年幼馴染やってると思うのよ」 「……十七年」 「そう。その通り。だからあたしに嘘を吐こうだなんて、百年早いわ」 勝ち誇った顔で言うリリーに、アスクは小さな溜め息で返事をする。 確かに、この幼馴染には面白いほど嘘が通用しないのだ。 彼女の虚偽を見抜く目が人一倍優れているのかもしれないし、 あるいは、単純にアスクが嘘を吐くのには向いてないのかもしれなかった。 「で、お使いってどこに行くのよ」 「ラシュアン村だけど」 「結構遠いわね……。それに確か、ラシュアン村に行く途中は森があるでしょ。あそこで獣が出たって聞いたわよ」 「うん。父さんは迂回して行けって」 「妥当ね。アンタ弱っちいもの」 「う……」 「危ない目になんて遭わない方がいいに決まってるんだから、大人しく回り道しなさい。いいわね?」 何となく、子ども扱いされている気持ちになり憮然としながらも、アスクはわかったよ、と答えた。 素直な言葉に、リリーは当然だと言うような表情で首肯し、それきり興味を失ったのか早く行けと目線で告げた。 「はぁ……。じゃあ、行ってくるね」 そう伝え、走り出す。 振り返る直前、気の所為でなければ――行ってらっしゃいという声がアスクの耳に届いた。 Cの平原は、他の二国と比べて海抜が高い。 先のアスクと父親の話に出てきた森、その手前までは緩やかな斜面になっており、城下町まで足を運ぶには相当な体力を使う。 登るには難く降るには易いという立地は、攻め難く守り易いことにも繋がる。 また、平原は障害物が少なく、見張りを立てるにしても最高の条件が揃っている。 だからこそ、国が専守防衛の理念を掲げてもさほど反対論は出ず、他国からの侵略は今まで一度もないのだった。 軽快な足取りで長い長い坂を踏破すると、見えてくるのは件の森だ。 決して小さくはなく、横に伸びたそれを迂回すると、直線で抜けるより二倍の時間が掛かってしまう。 アスクが最後に来た限りでは、住み着いた獣も大人しい種が多く、ある程度道も舗装されている。 羽虫に纏わり付かれることさえ気にしなければ、通らない理由はなかった。 「父さんは、迂回して行けって言ってたけど……」 もしそうして往復すると、帰りは日暮れ過ぎになるだろう。 城下町付近まで辿り着ければ警備の目も行き届くので、野党に襲われる心配もなくなるはずだが。 やはり夜道を一人で歩くのは、心細い。陽が落ちる前に帰りたい。 「……うん、大丈夫、だよね」 幼馴染に対するささやかな反抗心も、なかったとは言えない。 自己判断で、アスクは森を突っ切ることに決めた。 父の忠告を頭の隅に残し、周囲に気を配りながら歩く。 森の中は、静かだった。風が枝葉を揺らし、そよそよと心地良い涼しさを届けてくれる。 遠くからがさりと響く草を踏む音は、草食動物か何かのものだろう。 獰猛な敵意はどこからも感じられず、そんな心配しなくてもよかったかも、とアスクは思った。 森を抜けるのに要した時間は、約四十分。 その間、自分以外のどんな生き物にも、出会うことはなかった。 少し進んだところで手頃な岩を見つけ座り、祖母に渡された軽食を懐から取り出す。 いただきます、と呟き、包みを剥き一口。それから水筒に唇を付け、流し込む。丁度良い塩気でおいしかった。 帰りを待ってくれている祖母に感謝の念を抱き、多少の疲れを癒して再び立ち上がる。 目的地の村まではあと僅か。薄く見えるシルエットを目指し、足を速めた。 結局、森を直線で抜けたおかげか、ラシュアン村には三時間弱で辿り着くことが出来た。 村長の住む一際大きな家に顔を出し、実家の店の名前を告げ、届け物の中身を確認してもらう。 どうやら問題はなかったらしく、村長に感謝の言葉を向けられアスクは照れた。 良ければ休んでいくかい、という申し出を丁寧に断り、早々に戻る。 急いで帰る必要はない。 けれど、アスクは両親の役に立ちたかった。 いずれ店の跡を継ぐにしても、自分には経験が絶対的に足りない。 父や母のように、もっと逞しく、強く在りたいと常々思っているのだ。 そのためにはまず、親孝行をすると共に、より仕事を確実に出来るようになるべきだ、と彼は判断していた。 復路を辿る足は、気づけば早足に、次いで駆け足に変わっていく。 『お使い』自体は何も初めてのことではない。基礎的な体力、持久力だけはそれなりにある。 今日はどのくらい早く帰れるだろうかと、過去の自分と比較して、荒れる呼吸を整えながら走った。 背後の村がどんどん離れていく。代わりに近づく、森。 平気だ、と思う。行きは問題なかった、だから帰りもきっと。 森に、入る。 半ばで持たず、一度足の回転が遅くなった。疾走は歩行にシフトし、やがて停止する。 膝に手を付き俯いて、しばし休憩。額から滲み出た汗を腕で拭い、思い切り空気を吸う。吐く。 落ち着いてくると、自然に止まった足が動き出した。 「ちょっと歩いたら、また走ろう」 自分に制約を課し、アスクはゆったりとした速度で進んだ。 ふとすれば方向感覚を失ってしまいそうな森の中だが、明確にそれとわかる舗装道から外れなければ迷いはしない。 ――不意に、遠吠えが聞こえた。 獣の、それも恐ろしい、人を襲うようなものの鳴き声。 父とリリーの言葉が脳裏に蘇った。数日前からあの森で獣を見た……。それは今や、ただの疑惑ではない。 限りなく真実に近い忠告となって、アスクを震え上がらせる。 急いで、急いでここを抜けなきゃ。 気持ちが先行し、しかし足は上手く付いてこない。ふとした弾みでもつれ、転ぶ。 鼻をしたたか地面に打ち、擦りながらも起き上がってまた走った。 見えない何かに追われるように。恐怖心に、急きたてられるかのように。 行けども行けども道の終わりが見えない。こんなに長かったろうかと、そう思う。 心臓は早鐘の如き拍動でアスクの息をあっという間に上がらせ、緊張が身体の自由を奪っていく。 ぴんと張り詰めた糸の存在を、アスクは自分の中に感じた。 これが切れてしまったら、僕は、足が竦んで立ち上がれなくなってしまう……。 今更ながらに、父の忠告に従えばよかったと後悔した。 悪夢が現実にならないことを祈り、ただ駆ける。姿無き敵から逃げる。 「……っ!」 前方で、茂みを揺らす音がした。 思わずびくりとして立ち止まり、身構える。 気の所為ならいいと願った。風の悪戯か、あるいは可愛らしい動物の仕業か、そうであればと。 だが、地の底から響くような唸り声を耳にして、アスクは何より先に絶望感を覚えた。 そこにいたのは、狼。 少なくとも、この辺りにはいないとされてきた、人に仇為す凶暴な獣。 何故、どうして、そんな疑問について考える余裕もなく、狼の瞳に目が行く。 爛々と輝く、捕食者の視線。……こいつは、自分を狩りの対象として見ている……! 震える手が護身用の剣の柄を握った。 けれど、抜けない。心臓がきゅっと締め付けられる感覚。 怖かった。今にも襲われそうなこの状況が、のどかな日常と乖離した現実が、怖かった。 狼の牙は鋭い。強靭な顎の力で噛み付かれれば、こんな細腕、引き千切られてしまうかもしれない。 いや、それよりも。ここにいる限り、誰も、助けてはくれないのだ。 幸いにも目の前の狼ははぐれ者、群れを成してはいないようだったが、脅威であることに変わりはなく。 アスク程度の力では、到底太刀打ち出来そうにないことは明確だった。 敵意が肌を焼く。膝が笑って、がくがく揺れて、それでもどうにか姿勢を保っているのは奇跡に等しかった。 いつか、祖母に聞いた話を思い出す。狼達はまず相手を見極める、目を逸らしたらその瞬間、彼らは襲い掛かってくるんだよ……。 じりじりと、円を描くように。アスクは狼と一定の距離を置き続けた。 そのことにより、道を塞ぐ形で現れた相手との位置を逆転させる。 萎えそうな心に喝を入れ、勇気を振り絞って、声に出さず、一、二、三、と数え、 瞬間、反転したアスクは全速力で走り出した。 僅かに遅れ、追う足音が迫ってくる。心臓が、喉から飛び出そうだった。 (逃げ切れる? いや、逃げ切らなきゃ……!) 狼は獲物を追いつめるかのように、じわじわとその差を縮めてきている。 それでもアスクは諦められなかった。無事に帰る、その一心で参りそうな身体を叱咤する。 森から出られればあと少し、運が良ければそこで警備の人に助けてもらえるはず。 淡い希望を抱き、逃げて逃げて――視界が、宙に浮いた。 「え……?」 最悪のタイミングで。 足を捻りバランスが崩れ、転ぶ。 反射で顔を腕で庇い、擦過で薄く皮膚が削られた。 痛い、と思う余裕すらない。恐怖で涙が溢れ、それでも振り向かずにはいられなかった。 どうしてこんなに僕は弱いんだろう。 自分の身さえ守れない、情けない男なんだろう……。 悔しかった。悲しかった。胸の中で、混沌とした感情が渦を巻く。 けれど身体は思うように動かない。立ち上がれないまま、見ていることしか出来ない。 背後から迫った狼が、自分をその牙と爪で傷つけようとすぐ間近まで―― 「ふんっ!」 そこで今度こそ、アスクは絶句する。 突然横から現れた第三者が、気合いの篭もった掛け声と同時に、一太刀で狼を斬り捨てたのだ。 鈍い悲鳴を上げ吹き飛び、それきり動かなくなる獣。 アスクの頭は混乱していた。助かったと安堵する前に、当然の疑問が浮かぶ。 「危ないところだったな。お主、大丈夫か?」 この人はいったい――誰なんだろう、と。 それが後に、アスクが師匠と呼び慕う初老の男との、出会いだった。 |