その日、珍しく僕は先に目覚めた。ナルコレプシーの影響なのか、いつも夢を見ないほどに眠りは深い。あるいは単純に覚えていないだけなのかもしれないけど、どちらにしろ記憶にないものを思い出せるはずもなく、まだ少し重い頭を軽く振って、とりあえず顔を洗うことにした。流し場で蛇口を捻り、勢い良く落ちる水を両手で受け止めてばしゃりと被る。 何度かそれを繰り返すと、瞼がさっきよりはっきり開くようになった。備え付けのタオルで濡れた顔と手を拭き、一息。 「ふぅ……」 枕元の携帯で時刻を確認してから窓際に寄り、カーテンを開く。途端、遮られていた朝の光が室内に入り込み、僕は微かに目を細めた。眩しくても、この明るさは心地良いものだと思う。網戸側の窓も開け、ちょっぴり熱が籠もった部屋の空気を入れ換えつつ、未だ寝ている真人を起こしに掛かる。 ちなみにいつもなら、真人の方が起床は早い。だいたい僕がベッドから出る頃にはもう着替えも済ませていて、おはよう、なんて言いながら庭先でダンベルをぶんぶん振っている。だから正直こんな朝は久しぶりで、何となくいい気分だった。 二段ベッドの上で今日もだらしなく掛け布団を蹴り飛ばしてる真人に声を掛けようと梯子を上り、 「…………え?」 そこで僕は、有り得ないものを見た。 薄手のシャツと短パン姿の真人は、仰向けになって手足を四方に投げ出している。それはいい。 服の生地を激しく突き上げる何かが、胸の部分にあった。何か。張り詰めた衣服の圧力で柔軟に歪む、何か。 その物体の名前を、僕は知っている。でも、おかしい。有り得ない。だって――。 「んあ……お、理樹。おはよう、今日は早いな」 「あ、う、うん。ふっと目が覚めちゃって、真人を起こそうと思ってたんだ」 「今何時だ?」 「六時、五分くらいかな」 「オーケイ、じゃあオレは起きるぜ。顔洗ったらちょっくら外走ってくる」 「わかった。僕も付いてっていい?」 「理樹がそんなこと言うなんて珍しいじゃねえか。何だ、ついに理樹も筋肉付ける気になったか?」 「違うよ。折角早起きしたんだし、たまにはいいかなって」 ニカッと笑って言う真人にそう返し、小さな罪悪感を覚えた。 梯子から下りる直前、最後にちらりと真人の胸部に視線を向ける。 そこにある二つの膨らみ――即ち、おっぱいへと。 嗚呼素晴らしき筋肉様 全身筋肉の塊みたいな真人は一見すると鈍重そうだけど、実際はそうでもない。足の速さでは恭介や鈴に及ばないし、瞬発力なら謙吾の方が上だ。けれどもその代わり、真人には驚異的な体力、持久力がある。毎日ランニングを欠かさず行っている成果だろう、一度走り始めると、寮からグラウンド辺りまでを往復する間、決してスピードは落ちない。 今日は僕が一緒だからか、軽く流すくらいの距離だっていうのに、後を追うこっちは半分も行かないうちに息が苦しくなった。一応人並みには運動できるって自負もあるけど、真人のペースに合わせるのは至難だ。徐々に離されていき、結局折り返し地点で真人は立ち止まって待ってくれた。 「真人、は、速いよ……」 「そっか? これでもゆっくりめなんだけどな。理樹は筋肉が足りてないぜ」 残念ながら反論の糸口がないので、頷くしかない。まあ、真人と比べれば誰だって足りてないだろうけど。 荒れた呼吸を整えると、周囲の状況に気を配る余裕が出てくる。五月半ばとはいえ朝の大気はそれなりに涼しくて、流れた汗を吸ったシャツがすうっと冷えていくのを感じた。後で着替えなきゃと思いながら、お腹の辺りで腕を組んでいる真人……というより、おっぱいの様子を窺う。出かける前に頬を抓って確かめたところ、夢じゃないのは確かだった。 とにかく、大きい。肩幅や体型の問題もあるのかもしれないけど、来ヶ谷さんにも勝るサイズだ。 着慣れてくたびれたタンクトップに包まれたそれは、窮屈そうに己の存在を主張している。女性が身に着ければ充分過ぎるほど露出の高い服装のせいで、胸元の谷間も一目瞭然。張りのある肌は美しい曲線を描き、そこだけを見れば所有者が真人だとは到底考えられない。 僕の記憶が確かなら、乳房というのは九割が脂肪だ。筋肉とは正反対の、いわば余分な肉。反発する二種の属性を無理に融合させたかのようなその姿は、どこかグロテスクですらある。 ただ、現在真人の胸に付いているおっぱいが、抗い難い魅力を持っているのも事実。 何故なら、それがおっぱいだからだ。他にどんな理由が必要だろうか。 「よし、今度は少し速度落としてみっから、理樹も頑張れよ」 往路よりも僅かに遅いペースで再び走り出す真人を、僕も同じ速さをなるべく維持して追いかける。 滑らかな手足の動きと、規則正しいリズミカルな呼吸。バランスが崩れるようなこともなく、なるほど真人も努力してるんだな、と身を以って実感した。……まあ、それはそれとして。 音が聞こえてきそうなくらいに、おっぱいが弾んでいる。何かこう、すごい。よくわからないけどすごい。 思わず「痛くないの? 重くないの?」と訊きかけ、慌てて口を真一文字に閉じた。こうもあからさまなのに、真人はいつも通り過ぎる。つまり、現状を変だと感じてないってことなんだろう。だとすれば、そんな質問をして疑われるのはむしろ僕の方かもしれない。どっちが普通でどっちが異常なのか。二人分の視点では、まだ判別できなかった。……とりあえず、重力に反逆するかのようなこのおっぱいはそこだけ切り取って脳内フォルダに百万回保存しておく。眼福眼福。 「今度はちゃんと付いてこれたな」 「あ、もう戻ってきたんだ」 「着替えたらさっさと食堂行こうぜ。時間的にも丁度いいしよ」 「そうだね。このままだとちょっと汗臭いし」 部屋に到着してから、僕達はそれぞれ自分の衣服を取り出す。湿ったシャツは後で洗濯物としてまとめとかなきゃいけない。見られても別に困らないからと上を脱ぎ、制服に合わせた無地白色の物に首を通すと、すぐそばで真人が豪快にタンクトップを脱ぎ捨てた。当然、押さえつけられてたおっぱいは解放される。 「ん、どうした?」 「いや、な、何でもないよ」 「変な理樹だな。見つめられるとなんだか恥ずかしいぜ」 生。生おっぱいだ。 男だから真人は下着の類を着けていない。万が一ブラジャーがその胸を覆っていたら見かけた人が全員変態だと指を差すのは間違いないけれど、異常を認識してる僕からすれば、はっきり目の毒だった。小さな挙動でもふるふると柔らかそうに揺れる双丘はさっきから僕を誘い続けていて、舌が蕩けるほど甘い蜜を前にした蝶の気持ちになった気がする。 あれは筋肉、筋肉なんだと自分に言い聞かせたけど、自分の中に眠る本能がそんな欺瞞を嘘だと切り捨てた。 以前、真人に付き合って、テレビでボディービルダーを見たことがあった。最初僕は男だけが出てくるものだとばかり思っていて、だから筋骨隆々とした、ほとんど身体的には見分けがつかないような女性が画面に映った時にはびっくりした。肉の筋がくっきりわかるほど浮き上がった全身。肌を覆う僅かばかりの布さえも引き千切らんとする強靭な肉体は、スポットライトに照らされぬらぬらと妖しく光を反射し、画面越しでも一片の無駄もないことが窺える努力と研鑚の結晶は、気持ち悪くもどこか侵し難いものを備えていた。 でも、そこにはおっぱいがない。鋼の強固さを彷彿とさせる大胸筋は無駄がない故に平たく、それはつまり、どれほど鍛えても、否、鍛えれば鍛えるほどにおっぱいという概念からは遠ざかっていく、ある意味絶望的なまでに悲しい現実が立証されたってことだ。筋肉とおっぱいは相反する。決して、その二つは両立しない。 ――なのに今、僕の目の前には奇跡がある。 「ねえ、真人。真人の大胸筋、触っても、いい?」 気付けば、そんなことを口にしていた。 初め不思議な顔を見せた真人は、ほんの少し考える仕草をし、 「今日の理樹は本当に珍しいな……。ま、いいぜ。ようやく筋肉の魅力を理解してくれたみたいだしな」 ごくりと唾を飲む。一歩近づく毎に、手の震えを自覚する。学生としてはほとんど極限まで鍛え抜かれた胸板の上に付く、豊満な乳房。女性らしさと全く無縁な真人にはまるで似合わない、だけどもそれ単体で見れば美しいことに変わりない、人体の神秘。そう、真人と分離して考えるならば、理想的なおっぱいだった。 ――ふと思い出す。昨日教室で真人と遊んだ時、僕は何と口にしていただろうか。 『真人、そういえば今日は筋肉曜日だよ』 『なんだとぉ!? なんだかさっぱりわからねえが、聞くだけで興奮するぜっ』 『謝肉祭……いや、謝筋肉祭が始まるよ』 『内容は全くわからねえが、望むところだぜ……』 『じゃ、行くよ。はぁ〜、筋肉様よ、鎮まりなされえぇぇぇーっ!』 『う、うわああぁぁぁー!!』 貧乳がいた気がしたけどそれはどうでもいい。筋肉様、筋肉様だ。 もしかしたらこの状況は、筋肉様が齎したのかもしれない。だとすればあのおっぱいは、筋肉をひたすら鍛え、敬意を払い続けた真人に対する、心ばかりの贈り物ということになる。すごい。真人は筋肉様に認められたんだ。きっと今もどこかで筋肉様がみてる。ごきげんよう筋肉様。ありがとう筋肉様。僕はこれから毎日あなたに祈りを捧げます。 ということで、いざ。 「……っ」 「どうだ、すげえだろ?」 手のひらで触れた瞬間、背筋に甘い痺れが走った。尋常じゃなく柔らかい。力を入れて滑らかな肌に五指を沈めると、優しく跳ね返そうとしてくる。淡く吸いつく絶妙な触り心地。こうしてるだけでも、何時間だっていられると思う。 男同士が友情を深めるためのスキンシップ。だから問題ない、と一人頷き、夢中で揉み続けた。ここで喘ぎ声が聞こえたりなんかしたら萎えた可能性もあるけど、真人には普通に触られてる感覚しかないらしい。好都合だと割り切り、さらに強く揉んでみる。限界まで食い込んだ指に伝わる、至高の手触り。理性をあっさりと失わせかねない幸福感に、くらくらした。 「……うん、真人、本当にすごいよ」 「へへ、理樹に褒められると嬉しいもんだな」 撫で擦れば極上のシルクにも似ていて、好奇と期待の感情は際限なく膨らんでいく。もっと、もっと弄ってみたい。手指で触れるだけじゃなく、思うがままに蹂躙して味わいたい。だけどそれがどれほどリスクの高いことかくらいは理解してるし、今しているのは結局代替行為に過ぎないというのも、わかってる。僕だって男だ、素敵なおっぱいを見れば揉みたくもなるし、色々やってみたいと考えるけど、恋人でもない人間にいきなりそんなことをしたら、殴られるか蹴られるか、あるいはもっと酷い仕打ちを受けるかだろう。目も当てられない結果が待ってると知りながら実行する勇気は、僕にはない。 なら、妥協したって構わないはずだ。例え相手が真人であっても、おっぱいには変わりない。罪もない。みんなおっぱいは生まれてくる子供のためのものだと言うけれど、違う。 生物学的にはそうかもしれない。でも、全てのおっぱいは、自分以外の誰かに揉まれるために存在してるんだから。 「僕も……頑張れば、こんな風になるのかな」 「ひょろっちい理樹にはまだ遠い先の話かもしれねえけどよ。オレはいつか理樹もこの高みに辿り着けるって信じてるぜ」 「……これからも、こうやって触ってもいいかな。真人を感じたいんだ」 「おう、オレとしても理樹が確かめてくれるなら安心だ」 もう戻れない、人間的な袋小路へ踏み出してしまったことを自覚しながら、それでも僕は幸せだった。 いつでも手の届く位置におっぱいがある。遠巻きに眺めて羨まずとも、彼女たちとの関係が壊れるのを恐れなくとも、真人は、真人だけは僕を受け入れてくれる。ささやかな欲望を、満たしてくれる。 それで、いいじゃないか。 何故か廊下の方から泣き叫んで走り去っていく鈴とクドの声が聞こえたような気がしたけど、それもどうでもよかった。 →筋肉(おっぱい)ルートへ続く 嘘次回予告 「大変だ、理樹が、理樹が筋肉馬鹿にべったりなんだっ!」 「このままではリキもいずれ井ノ原さんみたいにムキムキに……わふーっ! それは嫌ですーっ!」 さり気ない、しかし明らかな異変に気付けない少女達は、予想だにしなかった勢力の登場に危機感を隠し得なかった。 その情報は些か曲解されて走り回る。鈴とクドのみならず、他の四人にも。 「そんな馬鹿な……少年は私のおっぱいよりも暑苦しい筋肉の方がいいというのか」 「おおっ、姉御が珍しくうろたえてるっ!?」 「……葉留佳君、今すぐ小毬君を呼んできてくれ。理樹君を正しい道に戻すためにも、皆の力が必要だ」 かの筋肉に対抗するには、あらゆるおっぱいを総動員しなければならない。 豊満なだけでは駄目なのだ。悔しくも、来ヶ谷唯湖は冷静な自己分析の下に動き出す。 「な、なんだかよくわからないけど、理樹君のためならがんばるよ〜」 「少年をめぐるささやかな争いは一時休戦と行こう。私はここに、おっぱいバスターズの結成を宣言する」 「くるがや、その名前はしょーじきどうかと思う」 「何、これくらい直接的なら効果もあるかもしれないだろう? それに、私の勘が告げている」 「わふ? 何をですか?」 「少年はおっぱいに並々ならぬ興味を示している。……ならば、付け入る隙もそこにあるはずだ」 そして、もう一人―― 誰より現状を認めぬ少女が、立ち上がる。 「直枝×井ノ原……あまりにも美しくないです。わたしはそれを、許すわけにはいきません」 それぞれに思惑を抱き、筋肉対おっぱい、相容れない二者間で激しい戦いが始まる……! 次回『おっぱいのためなら死ねる』 注:公開は永遠に未定です あとがき 第10回草SS大会に投稿したもの。うん、わかってるから何も言わなくていいよ。 絶対被ると言ったら有り得ないと返され、神が降りてきたと言ったら邪神とかおっぱい神と返された内容です。もうみんな私をそんなにいじめたいんですか。いや、確かに我ながらあらゆる意味で酷い話だよなあとは思いましたけど。 絵的には最高にグロいと気付いたえりくらさんには拍手を送ります。そりゃああの身体に来ヶ谷さんも顔負けのおっぱいがくっついたら……その、規制、掛かりますよね。色々と。 系列的には『そこに○○○○がある限り』と同じ、まあ要するに真面目(に見えるよう)な語り口でひたすらアホなシチュエーションを演出するというものなんですが、萌えるにはグロく、笑うにも中途半端かもしれません。でも「作者はビョーキ」と言われたくて書いたので満足です。 オチが弱いなー、と思い嘘次回予告を後ほど追加しましたけど、大谷さんに「本編より面白い」と言われたのはちょっと複雑でした。負けず劣らず酷い内容だって自覚はあったんですがw まあとにかく、ところどころに仕込んだネタで笑っていただければ幸いですー。 何かあったらどーぞ。 |