かつて、わたしが持つ日傘には、他者を遠ざける役目が与えられていました。
 いつもそれを手放さないわたしをクラスの生徒達は『カゲナシ』と揶揄しましたが、そのことに何の痛痒も感じませんでしたし、むしろ望ましいとすら思っていたのです。

「……もう、一ヶ月になりますか」

 修学旅行の初日に起きた、バスの転落事故。
 他の方々より負傷の度合いは小さかったとはいえ、わたしも足の骨を折り、ギブスが取れるまでにそれだけの時間を要しました。
 先ほど病院から寮に帰宅したところで、まだ少し外気に晒されたばかりの箇所には違和感があります。
 怪我をする以前と比べ、細く、白くなった足は自分の身体の一部でないようにも思え、そこに事故の名残を感じました。
 今が時期的に夏休みであったことは、学校側としては幸いなのでしょう。現在入院中の生徒も、夏季休暇が明ける頃には半数以上が戻ってくるはずです。もっとも、それで授業が成立するかと言われれば首を傾げてしまうところですが。
 そう――事故の傷痕は、まだ深く刻まれたまま残っているのです。わたし達にも、わたし達以外の皆さんにも。

「………………」

 部屋の片隅に畳んで置いてあった白の日傘を、わたしは手に取りました。
 いってきますという呟きに、言葉は返ってきません。ルームメイトはまだ戻ってきていないのですから。
 それでも、いってらっしゃいですー、と言われたような気がして、頬が微かに緩みます。
 今はまだバラバラですが、きっと近いうちに全員が揃うはず。少しの迷いもなく、そんな風に信じられました。

「さあ、行きましょうか」

 思い出を巡る散策へと。










雨のち晴れ










 学校の敷地を出て、まばらな人で賑わう商店街に足を踏み入れます。
 日傘が邪魔にならないよう、端に寄りながら歩いていくと、街で一番大きな本屋が目に入りました。
 一瞬通り過ぎようかとも考えましたが、久々の書店が恋しくなっているのも確かです。
 結局、見るだけ見ていくことに決めました。夏休みだからか普段の平日よりも混み合っている店内を回ってみると、入ってすぐの場所に積まれた新刊にまず引き寄せられます。入院中、家族にいくつか見繕って買ってきてもらっていたのですが、やはり自分で探した方が心躍るものです。
 ひとつ欲しい物を見つけると次の本が目に入り、またその近くには興味を惹かれる一冊があって、購入意欲を抑えるのにかなり神経をすり減らしました。個人的には片っ端から入手しておきたいところですが、残念ながら懐はさほど温かくありませんし、何よりこれから行く先、本の束は邪魔なお荷物にしかなりません。
 わたしはつい癖で抱えるように集めてしまった本を戻そうとし、

 ――ありがとう、色々と選んでくれて。

 ふと脳裏に過ぎった声。どこかで体験したような、既視感。
 それはきっと、幻想と虚構で形作られたあの世界で体験した出来事です。今はもう、おぼろげにしか記憶になく、勘違いではないかと看過できるほどの曖昧な感覚。けれど確かにわたしは何かを覚えていて、輪郭のぼやけた過去に思いを馳せるのです。

「……長居は無用ですね」

 全ての本を元あった場所にきちんと置き直し、書店を後にしました。
 後ろ髪は引かれますが、この口惜しさは次来た時にでも晴らせば良いでしょう。
 再び日傘を開き、わたしは人の流れに混じって商店街を抜けます。それから少し歩くと、視界に入るのは幅の広い川。
 学校の裏山からグラウンド横を通っている、野球の練習では見慣れた川です。
 この辺りは下流なので、対岸までの距離はかなり長く、もうしばらく先にある橋か電車を使わなければ反対側には渡れません。もっとも、あちらに行く機会はほとんどありませんから、用事でもない限りはここで引き返すのですが。
 河原では子供達が走り回っていて、どうやら鬼ごっこか何かで遊んでいるようでした。楽しそうな笑い声が彼らを見下ろすわたしのところまで届き、自然と頬が綻びます。

 ――それは綺麗に飛んでいったんですよ。

 また、霞掛かった記憶の中の風景が、目の前のものと重なりました。
 鉄橋の向こう、海に続く川を降るように、風に乗って飛んでいく紙飛行機を幻視します。
 ……わたしはそんな風に、青の挟間へと消え去ってしまいたかった。何物にも染まらず、白いまま、孤独なまま、永遠に漂っていたかった。
 それこそが、わたしがあの子を失い、再び思い出した日から求めていたことです。
 今度は、二度と忘れることがないように。時の経過にも、人の変化にも触れることなく、不変であり続ける。
 けれども、その願いは現実に叶うものではありません。罪を償える瞬間は来ないのだと、わたしは思っていました。

「陽が暮れてしまう前に、少し急ぎましょう」

 目的地はまだ先です。
 河原を離れ、川の流れを辿るようにわたしは歩き始めました。
 遠くに見えていた鉄橋を過ぎ、次第に交通量の減っていく道をさらに進みます。
 そうして出発から、およそ一時間。わたしの眼前には、果てしない青が広がっていました。徒歩で辿り着ける距離にある海。ですがここは泳げる場所ではなく、無機質な防波堤で区切られた砂浜には、夏だというのにまるで人気が感じられません。
 本当に、静かなところです。聞こえるのは不規則に響く波の音と、気まぐれな鳥の鳴き声だけ。

 わたしは日傘を携えて、砂浜に続く階段を下ります。
 靴に砂が入らないよう意識を配りながら、波打ち際まで。

 ……今、わたしが立つ位置からは、海が見えます。無限に続いているかのような、途方もない大きさの青。
 視線を上に向ければ、そこには空があります。時折雲を含みつつも、永遠に途切れないかのような、眩暈がするほどの青。
 でも、そのどちらにも終わりがあるのだということを、わたしは知っています。
 人は鳥になれない。例え翼を手に入れたとしても、羽ばたいてはいけません。
 だからこそ、わたしはあの虚構の世界で、ただひたすらに償いを求めました。
 分かたれた半身。失った影。何物にも染まらず漂う白鳥となって飛び去ってしまった、わたしの大切な妹。
 現実でなら叶わなくとも、夢で紡がれた舞台でなら、きっとあの子と再会できる……そんな確信を、得られたから。

「美鳥」

 あの子は、確かに存在していました。
 少なくともわたしにとって、美鳥はかけがえのない、たったひとりの妹だったのです。
 他の誰もが知覚できなくても。他の誰もが信じてくれなくても。わたしが覚えていれば、あの子はわたしの隣にいることができました。
 そう――わたしが忘れさえなければ、あの子が消えることは、なかった。
 死者が生者の記憶から忘れ去られることにより、本当の意味で死に至るのと同じように。
 知る者がひとりとしていなくなれば、存在は証明できなくなります。
 わたしはそうやって、美鳥の居場所を無くしてしまったのです。

 当時の母の心境を察せないわけではありません。元々人付き合いを不得手としていたわたしは、あまり学校で話すこともなかったですし、何より美鳥がいれば遊び相手には困らなかったので、友達はいませんでした。そんな娘を心配するのは当然だろうと、今のわたしには理解できます。虚空に向かって会話を始める子供を異常だと思わない親は、それこそおかしいのでしょうから。
 ですが、わたしが美鳥を忘れてしまったことに変わりはないのです。
 罪は、あの子をただ一人認識できた、わたしにしか背負えなかった。わたしにしか、償えなかった。

 白鳥はかなしからずや空の青
 うみのあをにも染まず
 ただよふ


 わたしの影は、本当に欠けていたのです・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 それが自分自身にしかわからない欠落であったとしても、もし誰かがわたしの影がないことに気付いたら――そんな強迫観念めいた考えが付いて回りました。足下の影を見れば、わたしは嫌でも自らの罪を直視することになる。あの子を忘れてしまっていたということを、思い出してしまう。
 他者を遠ざけるのと共に、わたしが持つ日傘には、戒めの役目も与えられていました。
 自分の影は、隠さなければならないものなのだと。それこそがこの身に課せられた罰なのだ、と。

 わたしはそうして、孤独を獲得しました。
 人々の好奇や興味、敵意や悪意の視線を全て傘で遮りながら、誰にも侵されることのないよう、ひとりで居続けました。
 あの子はいつかきっと、わたしの前に現れる。その時に、例え恨まれていても、憎まれていても、構いませんでした。
 ただ、わたしはあの子と代わりたかった。代わって、絶対的な孤独の中で、今度こそ永遠に忘れずいられることを夢見ました。
 空の色にも、海の色にも染まることなく。青に挟まれた世界を、白いまま、変わらないまま、飛び去ってしまえるのなら。
 わたしは「わたし」を差し出すことさえ、厭わなかったのです。
 あの子が、美鳥が「生きて」いけるのなら、それだけで、よかったのです。

「夏とはいえ、やはり海の水は冷たいですね」

 空いた片手で掬い上げると、青だったものは途端に色を無くします。
 しかしわたしの小さな手からはすぐにこぼれ、海に還れば水は再び青に染まる。
 見上げた空を流れる雲も、同じです。肉眼では捉えきれない小さな粒となった水は、雲を形成します。それは風に散らされ、あるいは雨となり地上に降り注ぎ、いずれは空に溶けていくのでしょう。透明になって、大気に混じり、わたし達と共にある。
 認識できなくても。判別できなくても。遠い未来や近い将来、わたしがまた忘れてしまっても。

 ――さよならは、言わないよ。

 おぼろげな記憶の中で、別れの際に交わした言葉だけは、はっきりと覚えています。
 ……いくら目を閉じたって、耳を澄ませたって、あの子はどこにもいないけれど。
 心には過去が。足下には影が。開いて掲げた日傘にも、一緒に歩いた思い出が。
 わたしに寄り添うように、今も静かに、息づいています。

 もう、影を隠す必要はありません。光を、他人を避けて生きる意味はないのです。
 だからわたしは最後に、この場所で終わりを迎えたいと思いました。
 長く続いた孤独の日々、その閉幕を、いつか憧れた青の挟間が見られる場所で。

「……今まで、お疲れ様でした」

 物言わぬ傘に労いの言葉を掛ける自分は、傍目には間抜けに映るのでしょう。
 直枝さん達ならそんなわたしを見て何と言うだろうかと、当たり前のように考えていたことに、少し驚きました。
 ……ああ、人はどうしようもなく、変わるものですね。
 思わずくすりと笑みが漏れ、日傘を下ろしかけたところで、不意にぽつりと布を叩く音が聞こえました。
 上を向いてみれば、こういった状況で普通なら目に入るはずの灰色が見当たりません。
 雨雲もないのに降る雫。……いわゆる天気雨、狐の嫁入りです。

「早いうちに止むでしょうか……」

 この場から走ってしまおうかとも思いましたが、それは些か風情に欠けます。
 別に急いでいるわけでもありませんし、本来の目的には反しますが日傘があれば濡れることもないでしょう。
 何よりわたしは、この場所に留まる理由を持っていました。
 しとしとと砂浜を湿らせていく雨の下、海の彼方を眺めること二十分ほど。

 ――地平線に掛かった太陽が、青の空と海を黄昏色に染め上げました。

 その光を待っていたかのようなタイミングで、降り続いていた雨がぴたりと止みます。
 水の滴る傘を畳み、わたしは両手を広げ、西日に身体を晒しました。
 風が吹き、足下から淡い影がひとつ、わたしの傍で伸びます。長く、長く、世界を抱きしめるように。

「あ……」

 頭上を小さな影が通り過ぎていきました。
 それは、錯覚かもしれません。でもわたしには確かに見えたのです。
 白い翼の紙飛行機。子供達の願いを乗せ、どこまでも、どこまでも飛んでいって――。





 日傘を閉じた帰り道。
 わたしの先を行く影と、二人並んで歩いてく。
 声を聞けなくなっても、姿が見えなくなっても、あの子はいつも傍にいて。
 わたしが『わたし』を見失いさえしなければ、もう、大丈夫。

「これからは……ずっと一緒、ですよ」



 鳥行けりしずかに白き羽のして
 ゆうべ明るき
 海のあなたへ











 あとがき

 ということで、何とか書き上がりました。とにかく冒頭に悩んだ悩んだ。
 ぺしぺしやってみてはぴんと来なくて書き直す、そんな繰り返しで、でも結局本文は三日ほどで終わってるんですよね。
 そこんところどうなのかと思わなくもないです。私って早筆なのか遅筆なのか。

 みおちんが散歩に行く話……と言ってしまえばそれだけなんですが、少しばかり解説を。
 彼女が『カゲナシ』と呼ばれていたのは、たぶん現実世界でも同じだったんじゃないかと思います。
 つまり、日傘を手放さない理由があった。肌が弱いから、ともっともらしく結論付けるのは安易ですが、私は本編での美魚さんが嘘を吐いていたとは考えられないんですよ。しかし、ファンタジー的な要素を許容し得る虚構世界でならまだしも、本当に現実で影を失ったわけじゃないでしょう。なら、全てが本当ではなく、一側面でのみ事実なら……ということで生まれた捏造設定。即ち、当人が信じていればそれは真実になる、という、ちょっと形而上学的な概念なのですが、まあ有り体に言えば「彼女にしか見えなかった」なんて独自解釈をしています。
 美鳥という妹が、美魚さんにしか認識できなかったように。
 影が失われているという現象もまた、当人にしか認識できなかったのではないか、と。
 たぶんもっとしっかり考えれば穴だらけの論理だと思うので、あんまり鵜呑みにしないでくださいね。妄想です妄想。

 文末の短歌は、本物の若山牧水歌集の『海の声』に掲載されているものです。
 ちょうどいいイメージがあるはずだと図書館から借りてきたんですが、案の定。
 ちなみに若山牧水歌集は(図書館で検索した限り)三冊存在し、1971年に野ばら社から出版されたものがおそらく本編に出てきた「掠れた緑色の本」かと思われます。いや、こっちは表紙とか青色ですし微妙なところですけど。一番新しい2004年版のは編者がいる上に表紙の色は白が大部分なので、絶対違うと言い切れますが。

 では今回はこれにて。
 そろそろラヴい話も書きたくなってきたなぁ。

 テーマソングは勿論『雨のち晴れ』。聴きながら読んでみると、また違う感じ方をするかもしれません。



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何かあったらどーぞ。