深夜、人気のない校舎の廊下に、荒い息遣いが響いていた。 薄暗い床には、もぞりと動く少女の人影があった。後ろ手と両足、そして胸周りと下腹部に至るラインを衣服の上から荒縄で縛られ、腹を下にした状態でもうひとつの人影を見上げている。窓から射し込む月明かりだけが頼りの視界では、はっきりとした表情がわからない。ただ、自分を見下ろす瞳がとても静かな色をしていることを、彼女は知っていた。 小さく身を捩ると、服越しに肌を締めつける縄が擦れる。直接触れている手首には擦過の痛みが、靴下や制服、下着に包まれている箇所には仄かな熱と炙るような快感が走り、床に伏せた彼女の顔がさらに赤みを深めた。こぼれる吐息が艶やかさを増す。 与えられる苦しさも、この屈辱的な状況も、彼女にとっては決して不快なものではなかった。 ただ。 「……ねえ、理樹くん」 ずっと、何かがおかしいと思っていた。付き纏う違和感の正体を考え続け、ようやく今日、答えに辿り着いたのだ。 故に彼女は決断した。心地良い現状を捨ててでも、やらなければならないことに気付いた。 顔を上げる。どうしたの、と問いかけてくる彼に、縛られることで強調された両の胸を張りながら、 「あたし、明日からSになろうと思うの!」 「……え?」 高らかに。 朱鷺戸沙耶は、自らの恋人に宣言した。 きみのためなら踏める 今更言うまでもないが、彼女は真性のドMである。 つまり踏まれたり縛られたり罵倒されたり放置されたりすることで性的快感を得るという、人間的にどうしようもないどころかもう完全に手遅れな性癖を持つ変態なわけだが、彼女は自分が変態であることに誇りを抱いていた。 マゾヒストとは、ある意味相手の全てを受け入れる存在だ。ガッチガチに荒縄で拘束され、さらに宙吊りにされた挙句そのまま二時間放置プレイに移行したって、投げ出された素足をふやけるまで舐めさせられたって、もう少しで達しそうだという状態であまりの寸止めっぷりにビクンビクンしているところを言葉攻めされながら携帯のカメラで撮影されたって、沙耶は理樹を愛していた。もう何されたって構わないと本気で思っていた。というかそれらの行為は全部理樹に(場合によっては土下座してまで)頼み込んでやってもらった。 これで理樹がぶっちゃけ不能だったら二人の関係はアブノーマルな方向へ全力疾走することもなく、それどころか恭介辺りとキャッキャウフフしていた可能性も無きにしも非ずだが、見た目が如何に可愛かろうと彼も立派な男の子なので、十八歳未満お断りの行為に関しては興味があった。それに、沙耶は正直エロい。リトルバスターズ随一のスタイルを持つ来ヶ谷と比べれば僅かに劣るものの、豊満で形の良いおっぱい。びっくりするほど白いうなじ。細く滑らかな腰のライン。同じ人間とは思えない、柔らかくてぷにぷにした肌。適度に肉の付いたしなやかな手足。くらっとするような曲線の尻。理樹の中で美化している面は多分にあるが、それを差し引いても彼女からは充分過ぎる魅力を見出せた。 ……ここまでだと互いの愛称はぴったりのように聞こえる。しかし、唯一残念なことに、理樹もまたどちらかと言えば受けだった。サディストのふりをすることで仮初めの充足を得ていても、何かが違う、という意識が心のどこかでくすぶっていた。 沙耶は、彼をいつも目で追っている。だからこそ、その微妙な違和を悟れないはずはなかったのだ。 「ということで理樹くん、準備はいい?」 「いや、ちょっと待ってよ沙耶。何でこんなことになってるのか、未だに僕はわかってないんだけど」 「もう……昨日ちゃんと説明したでしょ。それとも聞いてなかったの?」 「聞いてたけど理解できなかったというか、したくなかったというか……」 「……わかったわ。じゃあ、今度はしっかり話を聞いてよね」 基本的に、二人の逢瀬の時間は深夜に限られる。理樹の部屋は真人がいるので当然使えるはずもなく、沙耶は部屋が云々以前に寮住まいですらなかった。かといって野外プレイはリスクが高過ぎるので週一程度しか実行できない。 結果、安全に、かつすぐ証拠隠滅ができる場所を探したところ、見回りが済んだ後の校舎内がベストだ、という判断を沙耶が下した。その結論自体には、理樹も異論はない。ただでさえやっているのは見つかったら通報されてもおかしくない犯罪スレスレの行為なので、絶対人目に付かないことが最低条件だからだ。 「理樹くんを見ててね、もしかしてあたしは、ずっと無理をさせてきたんじゃないかって思ったのよ。あたしのしたいことを優先して、理樹くんには意に沿わないことをさせちゃってたのかな、って」 「……別に、そんな風には思ってないよ」 「でも、SかMかで言うなら理樹くんってMでしょ? それなのにあたしばっかり理樹くんにいじめる役を押しつけちゃってたんだもの。こんなの、カンッペキにひとりよがりじゃない」 「じゃあ、僕が縛られてるのは……」 「とりあえず今度はあたしが攻める立場になれば、お互い新しい何かに目覚めるかもしれないと思ったから」 何かがおかしい。けれどおかしいところがあまりに多くて具体的にどこがおかしいのかを指摘できずにいた理樹は、昨日の沙耶と同じようにきっちりばっちり縛られた状態で仰向けになっていた。逆さに映る沙耶の顔は、気のせいでなければほんのり上気していて艶かしい。 すっとしゃがんで目線を下げた彼女は、右の踵に指を差し込む。脱がれた靴が床に残り、膝下まである白い靴下に包まれた足が宙に浮く。今度は腰を下ろし、靴下に手が添えられた。互いの息遣いしか聞こえない夜の廊下に、しゅるしゅると微かな衣擦れの音を響かせて、沙耶は自分の右足を露わにした。普段は見えない五本の指と、骨張った感じのない可愛らしい足首が視界に入る。 思わず、理樹はごくりと喉を鳴らした。その足指に蹂躙される光景を想像したから……というのも勿論あるが、丁度彼女の真下にいると、片足を軽く上げているのでもろにぱんつが見えるからである。黒のレース。珍しくアダルティだった。 下着を凝視されていることに気付かないまま、ゆっくりと沙耶の足が近付いてくる。徐々に隠れていくぱんつ。複雑な気持ちを抱きながら、もういいやと諦め気味に現状を受け入れた理樹の頬に、ひんやりとした足裏が触れた。顔が地面に押しつけられ、乗った足がぐりぐりと動く。床に頬骨が当たるのは少し痛かったが、不思議と彼女の踏み方からは優しさが感じられて、嫌だとは思わない。あとぱんつ。 こんなにも屈辱的な状況なのに――確かに、理樹は興奮していた。 「ふぅん……。やっぱり、理樹くんも変態なのね。あたしに踏まれて感じちゃってるんだもの」 「あ、ぅ、こ、これは不可抗力というか何というかむぎゅ」 「喋っていいなんてひとことも言ってないわよ」 蒸れた汗の匂いが鼻につく。そこに淡く混ざる、沙耶自身が放つ脳を蕩かすような女の子の香り。そしてぱんつ。 鋭く細められた彼女の瞳が、嗜虐の色を宿して揺らめいた。踏みつける足が乱暴に理樹の身体を転がし、うつ伏せにさせる。胸元で幾重にも交差した縄が肌に食い込み、小さな呻き声が漏れた。 「顔を上げて。ほら」 それに構わず、頭を浮かせた理樹の前に、無造作に素足が投げ出される。ぱんつ。 「いつもあたしがやってるみたいに、できるでしょ? じっくり、舌で綺麗にして」 さすがに僅かな抵抗感を覚える。が、これまでは逆の立場で、理樹が沙耶にやらせてきたことだった。自分が逃げれば、それは沙耶を否定することに繋がってしまう。例えどんなに酷い性癖を持っていようと、人間としてかなり終わっていても、嫌いになんてなれるはずがない。どうしようもなく好きで、ぱんつも好きで、だから、彼女のために何でもしてあげたいと思うのだ。 閉じた唇を、そっと開く。興奮で乾いた口内に唾液を行き渡らせ、濡れた舌をちろりと伸ばし、白い足に這わせる。仄かな塩辛さと心地良い冷たさを感じ、心の中にあった抵抗感がすっと薄まった。 遠慮なく湿った音を立てながら、足の甲を丹念に舐め上げる。指と指の間には舌先を差し込むように。ねっとりとした唾を塗りたくり、塩の味を少しずつさらっていく。慣れない感覚に沙耶がくすぐったそうな声を上げた。 「ん……っ、ふ、理樹くんってば、犬みたいね。そんな情けないことして恥ずか……恥ずかし……」 「れる、ちゅ……沙耶?」 煽る言葉を聞く度に、背筋がぞくりと震える。なるほど、自分がMだというのもあながち間違いじゃないのかもしれない、と沙耶の慧眼とぱんつに感心していたところで、理樹は彼女の様子がどうもおかしいことに気付いた。俯き、熱に浮かされた表情でぼんやりとこちらを見つめて、 「だ、だめ……やっぱりあたし、我慢できないっ! 理樹くん代わって今すぐ代わってっ!」 「ちょっと、え、沙耶待って……!」 ――その日はいつもより、エクスタシー(文字通り絶頂的な意味で)が長かった。 「……もう死にたい」 「いやいや、そんなこと言わないでよ……」 翌日。生徒達が寝静まった時間に理樹と落ち合い、夜の散歩をしていた沙耶は、手と膝を地に着けたまま暗い声色で呟いた。落ち込む彼女の頭をそっと撫でるものの、普段のテンションは戻らない。あからさまにしょげた表情を前に、理樹のこころがじんと痛んだ。 「だって、力いっぱい宣言したのにこの様よ? 自信満々に理樹くんのことを踏みつけてこれでいい感じだなんて息巻いてたのが馬鹿みたいじゃない、というか馬鹿そのものよね、ああもうどんだけ惨めで情けないのよあたし、ほら笑いなさいよ笑えばいいじゃないむしろ笑ってさあ思う存分馬鹿にして理樹くんカモン!」 最近自虐を通り越して能動的に言葉攻めを要求してくるようになった沙耶に、どう反応していいものかと迷う。少し考え、控えめに罵倒の言葉を並べると、彼女はふっと力ない笑みを浮かべた。 「ごめんね。あたしが不甲斐なくて、理樹くんに無理させちゃって」 「ううん。僕も上手くやれてないのが悪いんだと思う。ごめん、沙耶」 例えば今だって、他の人ならもっと徹底的に沙耶を打ちのめすことができたはずだ。特に美魚辺りを見ていると、理樹はつくづくそう思う。本気で嫌そうな顔を向けられてビクンビクンするようになった葉留佳は順応し過ぎな気もするが、あの恐ろしく冷たい、あなたなど路傍の石よりも価値のない存在ですと語りかけてくるジト目には、憧れさえ覚えてしまう。 もし美魚の下へ行けば、沙耶の欲求は容易く満たされるだろう。この頃サディスティックな嗜好に目覚めた彼女は、獲物(葉留佳限定)をありとあらゆる手段で鳴かせることにご執心らしい。きゅうりは折れやすいので次はにんじんにしておきましょう、と言っていたのを思い出し、理樹は改めて戦慄した。その時の葉留佳の叫びというか喘ぎ声が脳裏でリフレインする。「や、待って待ってみおちんそれ無理ですヨ! きゅうりは食べるものであってそんなところに入れるものじゃ」「大丈夫です、最初から最後まで痛いでしょうがすぐにそれが気持ちよくなりますから」「何も大丈夫じゃないってストップおねがい絶対無理だかららめえええええええええ!!」みたいな感じで濡れたり濡らしたりの十八歳未満お断りなガチ百合シーンが一方的に白昼堂々と繰り広げられ、本来そういった騒ぎを止める立場にあるはずの風紀委員長も何故か自然な流れできゅうり祭りに参戦していた。突っ込む方で。 ……どう足掻いても、あんな風にはなれない。 なったら人間として終わりかもしれないが、沙耶が満足してくれるなら理樹はそれでもよかった。彼女の悦ぶ顔が見られるのなら、後ろ指を差されるようになっても構わなかった。なのに、大事にしたい、という気持ちが僅かな躊躇を生んでしまう。求められていると理解しているにもかかわらず、最後の一線が越えられない。 それが理樹には悔しかった。ただ、中途半端な自分が情けなかった。 「……理樹くんまでそんな顔しないでよ。余計に悲しくなるじゃない」 おもむろに沙耶が理樹の手の甲をぺろりと舐める。口でリードをくわえ、軽く引っ張った。散歩を続けましょ、という無言の意思表示。それに理樹は頷いて、手元のリードをぎゅっと握り直した。返ってくる微笑み。四つ足の姿勢で再び歩き始めた沙耶の、左右に小さく揺れる尻を眺める。腰が揺れる度に標準的な長さのスカートが捲り上がり、淡いピンクのぱんつが目に入る。ぱんつはいい。ぱんつは和む。ぐっどぱんつ。一定の距離を保ちながら、先行する沙耶の後ろを歩いて寮をぐるりと一周する。 この散歩自体には、何の意味もない。誰かが起きているかもしれない、見つかるかもしれない、そんな僅かばかりのスリルを求めてのものだ。背徳感と緊張感が混じり合った、適度な刺激が得られる。ついでにそのまま野外プレイにも走れる。直接恥ずかしい思いをするのは沙耶だけで、理樹は彼女に痛いことをする必要もなく、ただリードを持って隣を歩いていればいいというのも有り難かった。 けれど。 冗談で可愛らしく犬の鳴き真似をする沙耶が、終着点である校門前で足を止めた。お座りの姿勢で理樹が首輪を外してくれるのを待つ。両手が開いた膝の間にあるので、ぱんつが丸見えだった。ほんのりフルーティな香り。どこか甘酸っぱくて淫靡な、獣を誘う蜜の匂い。ポケットの中に入っていた鍵で優しく錠を開けると、細く滑らかな首筋が露わになる。闇に映える白さに目が眩む。寄せた耳に弱く流れ込む、生温く柔らかな吐息。 彼女の全てが、もっと一緒にいたい、と囁いていた。 「沙耶」 首輪を地面に落とし、その名前を呟く。視線を同じ高さに合わせ、背に腕を回して掻き抱いた。強く。息が詰まるほどに。それでも彼女は苦しいと言わない。されるがまま、理樹を受け入れてくれる。 やっと、わかったのだ。 いつでもそこには全幅の信頼があった。沙耶は絶対他の人間に今の顔を見せない。理樹だから。何もかもを丸ごと預けていいと思える相手だからこそ、こんなことを許している。だが、理樹は彼女を信じ切れていなかった。本当に好きでどうしようもないくらいなら、一片の迷いもなくその想いに応えられたはずなのに。 心を決める。例えそれで変態の烙印を押されることになろうとも、もう、胸の内に恐れはない。 「伏せ」 腰を抱く腕を解き、立ち上がって告げた命令を、沙耶は従順に聞き入れた。砂と土で制服が汚れるのにも構わず、細身が静かに伏せられる。その様子を見届けてから、片足の靴を脱いだ。続いて靴下。沙耶とは違う、少し骨張った足指が大気に晒される。彼女が理樹の意図を正確に読み取り、恍惚の声を漏らした。 今まで。 何度乞われても、沙耶を踏みにじったことはなかった。 けれど彼女は、ずっと待っていたのだ。いつか必ず、理樹が自分を満たしてくれると信じて。 最早言葉さえ要らない。 躊躇なく下ろされる足裏を、蕩けきった笑みで沙耶は迎えた。 ――大丈夫。 これからどんなことが待っていたとしても、僕は、きみのために踏み続けるから。 …いいよね…これで? いい ニア むしろ沙耶に踏まれたい あとがき 第30回草SS大会に投稿したもの。もうそんなにやってるのかー、と感慨深い気分にもなります。 今回はある意味これまでで一番自重しない書き方をしたかもしれません。裏テーマは「信用ならない語り手」。一応形式としては三人称なんですが、本来客観的な視点を持つべきである語り手がところどころで語り手自身の言葉を織り交ぜる、まあ要するにメタ的な要素を込めた感じです。「今更言うまでもないが〜」とか、中盤にやたら細かく挟んでいるぱんつとか。でも、当初予定していたよりもはっちゃけきれなくて、私のテキストじゃやっぱり真面目に駄目な方向にしか走れないんだな、と反省点も見つかりました。 感想会の方で語りましたけど、もともとは佐々美さんが(ドM的な意味での)ライバルとして登場するはずで、それはもう(性的な意味で)熾烈なバトルが私の脳内では展開されていたんですが、世界設定がスクレボエンドにしかならず、断念せざるを得なくなりました。というか初めて書いたスクレボエンド物がこんなんでいいのか私。意図的に他の登場人物を登場させてなかったりするのはその辺があるからなんですけど、あってもなくてもいい設定かもしれませんね。しかし、これを現実でやったら(社会的な意味で)大惨事になってしまいます。あうとー。 ちなみに、久しぶりに顔を出して「もしかしたらMVPいけるかな」とこっそり思っていて、投票時に「まさか決選投票……!?」とwktkしていたらウルーさんがさっくりみかんさんのに投票追加して夢が潰えました。心の中で泣きました。もう私、一生あそこのMVPは取れない気がするよ……。 何かあったらどーぞ。 |