「リキリキっ! お弁当作ってきましたー!」

「うん、ありがとう。いつも悪いね」

「いえいえー。……それで二つ作ってきたんですけど、おっきい方とちいさい方、どちらがよろしいですかっ?」

「えーと、じゃあ大きいほうで」

「がーん!?」

「ど、どうしたの、クド?」

「そうですか……おっきいほうがいいですか……」

「いや、何がそんなにがっかりなのか全然わからないんだけど……」














すもーる・いず・じゃすてぃす!














 どうも皆さん、こんにちは。
 僕、直枝理樹っていいます。

 突然ですが、



 最近僕の彼女の様子がおかしい。



 どうおかしいかと聞かれると、言葉でうまく説明するのが難しいんです。
 普段はいつものように『わふー』とか言ったりして、とても可愛いんです。
 でも、ふとした瞬間に、まるで人が変わったかのような、異質なオーラを感じるときがあるんです。
 たとえば授業中に、



「では、次の簡単な例文を……能美、読んでみろ」
「は、はいっ。えーと……ざ・まん・ふー・あい・めっと・いえすたでい・わず・べりー……び、び、び」
「どうした? 『The man who I met yesterday was very big.』……難しい単語はないだろう?」
「び、び、び」
「……」
「うわあああああああん! おっきいなんてくそくらえなのですー!」
「おい、能美! どこへ行く!?」



 てな感じでどこかへ行ったきり戻ってこなかったり、はたまたお昼のときには



「わふー、今日は食堂がらがらなのですー」
「まあちょっと時間がずれてるからね」
「どこに座りましょう?」
「そうだね、じゃあこの辺に座ろうか」
「はいー」
「なんだか静かだね……」
「テレビでもつけましょう。ぽちっとな、ですー」

 ポチッ

『ぺったんぺったんつるぺったん♪』

 プツン

「……やはり食事時にテレビを観るのははまなー違反ですっ」
「そ、そうかな? いつも皆観てると思うけど」

「まなー違反ですっ!!」

「は、はい!」



 このときはすごく怖かったです。
 犬耳の代わりに鬼の角が生えてるんじゃないかと思いました。
 もちろん彼女の行動に一貫性がないわけではなりません。
 彼女は、とあることを主張したいのでしょう。

 でもね、クド。
 そういう問題じゃあ、ないんだ……。













「リキ? どうかしましたか?」

 二人きりの家庭科部室にて、僕たちは今、今日出された数学の宿題を片付けていた。
 室内の真ん中に置かれた、よくある丸い形のちゃぶ台の上には、授業で使っている教科書やノートの他、図書室で借りてきたいくつかの問題集なんかが散らばっている。

 今僕に声をかけてきた愛らしい少女と付き合うようになって数ヶ月。
『学生たるもの、学業を疎かにしてはいけませんっ』なんて、えっへんと誇らしげに胸をそらして言った彼女の言葉に従い、僕らは宿題が出された日は必ず、いちゃつく前にそれを片付けることにしていたのだった。
 その甲斐あってか、現在までのところ僕も彼女も成績が落ちている、ということはない。
 むしろ僕の場合、少しずつ上昇していってるとすらいえよう。

 そんなこんなで、今日も今日とていつものように二人でノートを広げて問題を解いてるうちに、どうやら僕はいつの間にか物思いに耽ってしまっていたらしい。
 そこへ、僕がぼーっとしていることに気づいたのだろう、クドが声をかけてきたのだった。
 とはいっても、その声に咎める様子はなく、どちらかといえば心配している感じだ。
 その声にはっとし、何もない中空へ向けられていた目線を下ろしてみると、至近距離にはクドの顔。
 ちゃぶ台から身を乗り出し、上目遣いで心配そうに僕を見つめる瞳に、思わずドキッとしてしまった。

「え? あ、ううん。なんでもないよ」

 心配しないで、と優しく微笑みかけると、彼女はほっとした様子で乗り出した身を引っ込める。
 対面に座り直し、「それならよかったですー」だなんて極上の笑みでいうものだから。
 この質素な一室に、とても綺麗な花が咲いた、なんて、我ながらとても恥ずかしいイメージが頭をよぎってしまった。

「なんだか、ひどくお困りの様子でしたので……」
「ほんとに何でもないんだ。ただ、ちょっとわからない問題があったもんだから……そうだ、クド。これ……この問題、わかるかな?」
「どれでしょうか? あ、えーと、これはですね……」

 苦し紛れに今しがた解いていた問題がわからないフリをして話題を逸らす。
 すると、彼女は何の疑念も抱く様子なく、素直に僕の問いに応じてあれこれと解説を始めた。

「それで、これがこーなるわけですから」
「うんうん」

 小さな体を精一杯伸ばしてちゃぶ台から身を乗り出す少女の姿があまりにも愛しすぎて。
 解説なんて耳に入らずそっちのけで、せわしなく動く小さな唇にばかり目を奪われる。

「それからこうしてこうなって」
「クド……」

 一度意識してしまってからではもう遅い。
 高まりつつある欲求を無理やり奥へ追い払おうとするも、理性が本能に叶うはずもなく。
 自然、唇が唇に吸い寄せられていき、

「最終的に答えは『たまには貧乳もいいよね』となるわけですー」

 そこで一気に冷めてしまった。

「リキ? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない……」

 控えめな、かわいらしい唇が悪びれた様子もなくそんなことを言うものだから、僕には何も言えそうにない。
 数式を解いていたはずなのにどうして答えが『たまには貧乳もいいよね』になるんだろう……。

「……休憩にしようか」
「はいー」

 いちゃいちゃするにしても、台無しになった今の気分では到底楽しめそうになかったし、勉強を続けるにしても、どうにも集中できそうになかった僕は、気持ちを切り替えるためにと休憩を提案してみる。
 クドのほうにも特に異論はないらしく、素直に頷くとお茶を淹れるために奥へと引っ込んでいった。

 姿が見えなくなるのを確認すると、僕はうっかり彼女に聴こえてしまわないように小さくため息をつく。
 ……思えば初めて二人でえっちなことをしようとしたときのことが、クドがおかしくなってしまった原因の発端だったのだ。



 それは一月ほど前、真人の留守を狙って僕の部屋へと押しかけてきたクドといちゃいちゃしていたときのこと。
 軽く体を寄せ合ったり、触れ合うだけのキスを繰り返しているうち、僕はとうとう我慢しきれずに彼女をベッドの上に押し倒してしまったのだ。
 ……まったく、本能というものは恐ろしい。あのときはどうしかしていたとしか思えない。
 たしかに僕はクドのことが大好きだったけれど、彼女を性の対象としてみたことがなかったわけではないけれど、本格的にそういう行為に及ぶつもりは全然なかったんだ。
 せめて学園を卒業するまでは、それが僕とクドの間で取り交わされていた暗黙の掟だった。

 しまった、と思った。
 せっかくここまでうまくいっていたのに、そんな掟を僕のほうから一方的に破ってしまったら、彼女はどう思うだろう? 軽蔑されるだろうか? 頭の中で最悪なイメージが次々と展開していく中で、しかし彼女はこう言ってくれたんだ。

「リキ……リキになら、その、いいですよ?」

 と。
 よほど恥ずかしかったのか、顔を赤らめてあらぬ方向へ眼を向ける彼女を見て、僕は感激すると同時に少し後ろめたくなってしまった。
 女の子にこんなことを言わせてしまうなんて……。
 きっと、ものすごく恥ずかしかったと思う。その証拠に、未だに彼女はまともに僕を見れずに真っ赤な顔で縮こまってしまっている。時折チラチラとこちらを横目で窺っているのがなんともいじらしい。
 緊張しているせいか、カクカクと小刻みに震える彼女の肩を優しく抱き寄せながら、僕は決意した。
 ここまで言わせてしまったからには、やらずには済ませられない……それは、彼女に恥をかかせることになるからだ。
 だから、せめてできる限り優しくしてあげよう、と。
 そうして服を脱がせ、露わになったクドの胸に目を注いだところで、思わず僕は言ってしまったんだ……。







「―――――小さいね」







 最低だ。好きになった女の子の、その象徴たる部分をみて『―――――小さいね』はない。これがせめて『可愛いね』とかだったらまだマシだったと思う。あるいは『控えめだけどそんなところが素敵だよ』とか……いや、これもひどいといえばひどいかもしれないけど。
 とにかく、僕は言ってしまった。
『―――――小さいね』
 真顔で僕がそう呟いたときの彼女ときたら……まるで『あなたは明日死にます』とでも言われたかのように顔は青ざめ、目を見開いて硬直していた。
 あの姿を思い返すたびに胸がちくりと痛む。もっと他にいいようがあったはずなのに……『―――――小さいね』だなんて……我ながら残酷にもほどがある。
 何より、彼女を傷つけてしまったことが悲しい。

 あの後、なんとなく居たたまれない空気になってしまい、クドは『用事を思い出したのでこれで失礼しますー……』といって服を着て帰ってしまった。
 部屋に一人取り残された僕はといえば、とてもじゃないけど追いかける気にはなれなかったので、ひとまずベッドに倒れこんで明日彼女に会ったらどう謝ろうか必死になって考えた。
 けれど結局何も思いつかないままに翌日を迎えてしまい、僕はもうこうなったら直球勝負だとばかりに、彼女に会ったらまず一言『ごめん!』とだけ謝ろうと決めて学校へと向かった。
 しかし、教室へ足を踏み入れて一歩目、ちょうどクドが出てくるところだったので駆け寄って「昨日はごめん!」と声をかけると、彼女はびっくりした様子で「わふー、いったい何のことでしょうか?」などと不思議な顔で答えるものだから、僕にはもうそれ以上は何も言えずに押し黙るしかなく、そのままこの件に関しては事なきを得た、かのように思われたんだけど……



「やっぱり、気にしてるんだろうなぁ……」

 そりゃそうだろう。
 もし僕が女の子だったとして、いざ行為に及ぼうとしたところで、相手に『―――――小さいね』だなんて冷めたことを言われたらひどく傷つくと思う。
 ショックでもう顔も合わせられなくなるかもしれない。
 決してがっかりしたとかそういうわけではないんだけど、あの胸を見た瞬間にある種罪悪感に似たようなものを感じ取り、思わず言ってしまったんだ。
 ……どんな理由にせよ、彼女を傷つけたことに変わりはないけれど。
 優しいクドのことだから何も言わず、なかったことにしてくれたのだろうけど、あの日以来目立つようになったお弁当の件やその他数々の奇行から察するに、ひどく気にしていることは間違いない。
 何とかしてあげたいとは思うものの、その原因が僕にあるだけになんとも難しい立場だ。
 それに何より、彼女にとってあの一件はなかったことになっているのだから、今更話を蒸し返そうとしたところで取り合ってはくれないだろう。

「リキ……」
「うわっ!?」

 と、そこで奥へ引っ込んでいたクドがいつの間にか僕の隣に座っていることに気づいた。
 ぼーっとしていたので、体が触れるまで全く気づかなかった。
 彼女は湯のみを載せたお盆をちゃぶ台の上に載せると、いきなり僕の上へとしなだれかかってくる。

「リキぃ……んぅ……」
「く、クド……」

 切なげに僕を呼ぶ声、トロンと焦点の定まらない妖しげな瞳、熱い吐息、全身で感じる彼女の体温、柔らかな体、そしてその体から発するあまいにおい。
 からだは否応なく熱くなっていく。
 鼓動は高鳴り、もう目の前の女の子の唇を奪うことしか考えられなくなっていた。
 このまま流されるのは非常にまずい。
 そう思うも、次の瞬間、

「はむぅ……ちゅる、ちゅ……」
「ん……」

 唇に熱い感触が走ったと思うと、トロンと蕩ける様な甘い液体が口の中へと流れ込んできた。
 ……ああ、もうだめだ。
 わずかばかり残されていた僕の理性は、その熱く甘い蜜で綺麗さっぱり溶かされ、もう何も考えられない。
 流し込まれた液体を舌で存分に味わった後、それをこくりと飲み干し、お返しとばかりに僕も唾液を流し込む。

「んっ、んふぅ……」

 この世のどんなものでも代わりのきかないクドの唇は、形容しがたいほどの快感を僕へともたらし、そのままどこか遠く、高みへと連れて行かれるかのような錯覚を引き起こす。
 フワフワと体が宙へ舞っていくような、浮遊感。
 不意打ちだったにも関わらず、僕の舌はもう貪欲なまでに彼女の唇を喰らうことしかできない。
 と、夢中になって柔らかな肉を吸っていると、突然クドが僕の手をつかんでそのまま胸へとあてがってきた。
 瞬間、手のひらに申し訳程度の胸の膨らみを感じ、僕は禁断の青い果実に触れてしまったかのような罪悪感にとらわれてしまう。
 そうして熱く煮えたぎっていた僕も、僕自身も、冷水をぶっかけられたように急速に冷めていく。
 もうこれ以上は我慢がならなかった。
 羽のように軽いクドの華奢な体を両手で思い切り突き飛ばす。

「クド、だめだって!」
「っ!? ……リキ……?」

 弾き飛ばされた彼女は、一瞬何が起こったのか理解できない様子だったけれど、徐々に僕が何をしたか、自分が何をされたのかを悟り、まだ幼さの残る綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めてうなだれてしまった。
 ……ああ、まただ。
 また、やってしまった。
 絶望色へと染まっていくクドの瞳を見て、僕は自分の失敗を悟った。
 彼女が落ち着くまで、様子を見ようと決めていたのに。
 流されて、傷つけて。
 僕は一体何をやってるんだ……。

「いや、その、なんていうか……ねえ、クド。慌てなくても良いんだよ? 僕はいつまででも待っているから」

 慰めにもならないことはわかりきっているのに、それでも声をかけずにはいられない。
 偽善だ。
 これは、彼女のためなんかじゃない。
 僕は自分のために、そんな言葉を彼女にぶつけているんだ。
 胸の傷を抉ることを承知の上で。
 ……最悪だ、本当に。



***



「はぁ……」

 お風呂場で一人ため息をつく私。
 ばす・たいむの度に憂鬱になるのが、最近の悩みです。
 ごしごしと体をスポンジで擦るたびに、自分の体がいかに貧弱かを思い知らされているようで……気づけばいつしか手は止まってしまい、そのまま1時間近くもぼーっとしていました。

『―――――小さいね』

 頭の中で延々とりぴーとされるリキの一言。
 改めて自分の体を見下ろして、

「なるほど、ですー……」

 リキががっかりするのも無理はありません。
 もし私が男の人だったとして、いざ行為に及ぼうとしたところでこんな貧相な体を見せ付けられたら、『―――――小さいね』といってしまうに違いありません。
 優しいリキのことだから「クド。慌てなくても良いんだよ? 僕はいつまででも待っているから」なんていってくださいましたけど、あの一件以来なんだかまともに目を合わせてくれなくなった気がします。……やはり、こんな洗濯板では萎えてしまうのでしょうか……。

「はぁ……」

 泡だらけの体を洗い流し、湯に浸かること15分。
 少し熱めに入れたお湯が全身を隈なく温めてくれたころ、一人寂しくお風呂からあがります。
 脱衣所に用意しておいたバスタオルでこれまたぷあーな体を丁寧に拭い、小学生の女の子がつけてそうなスポーツブラを手にとって、

「こんなんいらねーですっ」

 と床にぺちーんと叩きつけて、踏みつけて、ああ実は踏みつけてるのは私自身なんだなと気が付いて、とても虚しくなりました。
 物に当たるなんて最悪です。でもいいんです。どうせ私は底辺女です。スタイル悪くて、背が低くて、頭が悪くて、英語ができなくて、おっぱいが小さくて、ふにゃっと子供な物腰で、なんと惨めなことでしょうか……。

 部屋へ戻るとルームメイトの佳奈多さんがなにやら小難しそうな本を無表情で読みふけっていました。
 私が戻ってきたことに気づくと、目線を少しだけ上げてそっけなく声をかけてきます。

「ずいぶんと長風呂だったわね」
「あ、えーとその、気持ちよかったのでついつい……」
「……そう」

 まさか胸の小ささに悩んでいましたとも言えず適当に言い訳すると、誤魔化されたのかそうでないのか、はたまたどうでもいいのか、ともかく興味を失ったように呟き、佳奈多さんはまた本へと目を戻してしまいます。
 私としても特に話したいことがあったわけではないので、そのまま会話は終了し、やることもないので英語の勉強をしようと机と向かい合うことにしました。
 参考書を開き、辞書を手に例文を和訳していきます。

『I'm worried about my small bust.』
『Don't worry about it,you can be alive.』

 うぉりーどが、あばうとで、あらいぶだから…………できましたっ。今日は調子がいいですっ。この分なら英語ペラペラの道のりはそう長くなさそうですっ!

『胸が小さいのが悩みなの』
『小さくたっていいじゃない、生きていけるんだもの』

 やる気が失せました。
 なんだかもう、宝くじで一等当たったと喜び勇んで銀行に足を運んだら組違いです残念でしたーとか言われた気分です。
 参考書まで私を馬鹿にするなんて許せません……出版社に慰謝料を請求してやりたいです。
 だいたいこの例文横のイラストの『アン』はどう見ても真剣に悩んでいる様子なのに、『ジェシー』とかいう巨乳ビッチが笑いながら答えているのが気に入りません。なんですかこの笑いは。勝者のよゆーかこのヤロウ、ですっ。

 腹立たしかったので黒のマジックペンでジェシーを髭もじゃパーマに仕立て上げてやりました。ざまあみろです。ついでに鼻歌交じりにサングラスをかけてやろうとしていたところで、

「私の参考書になんてことしてるのよっ!?」
「わふー!?」

 スパーン、と小気味いい音が聞こえたと同時に後頭部に強い衝撃が加わりました。痛いです。頭がジンジンします。振り返ると佳奈多さんが鬼の形相でハリセン片手に息を荒げているのが目に映りました。「まったくもう」とぷんすか怒りながら参考書を回収していく佳奈多さん。その背中に向けて『あっかんべー』をしてやりました。大人げないですか? ええそうでしょうとも。こんな胸の小さい大人なんていませんから。もうこうなったらヤケです。とことんまでぐれてやるのです。
『あっかんべー』がばれなかったので調子にのって両頬をひっぱりながら『べろべろばぁ〜』をやっていると、唐突に佳奈多さんがくるっと振り返り、そこで気づかれて飛び膝蹴りをおっぱいの辺りに食らってしまいました。
 なんてことするんですか、これ以上引っ込んだらどうするんですか、あなた責任とれるんですかという趣旨のことをまくし立てると「やかましいっ!」と再びハリセンで叩かれて痛い痛いでもう踏んだり蹴ったりです。

 むしゃくしゃしたのでもう不貞寝してやると決めた私は、間違えたふりをして佳奈多さんのきっちりと整っていたベッドに飛び込んで荒らしまわります。ごろごろー、ばっさばっさ。布団をしわくちゃにしたところで気づかれてしまい、お尻を蹴っ飛ばされ、そのまま勢いに押されてぽーんと自分のベッドへと着地できたのでちょうど良いやとばかりに自分の布団に潜り込みました。向こうで佳奈多さんが何か言ってるようですが耳を塞いであーあー何も聴こえません。

 何を言っても無駄だと悟ったのか、諦めのこもったため息をつくと佳奈多さんも布団の中へと入っていく気配がしました。
 灯りが消え、真っ暗闇になったとたん、またも憂鬱な気分がぶり返してきてしまいます。

「はぁ……」

 もう本日何度目になるのかもわからないため息を一つ。
 ついたところで何の解決にもならないことはわかりきっているのですが、それでも人は悩んでいるときため息をつきます。

「うるさいわね……眠れないじゃない」

 と、もうすっかり寝入ってしまったと思っていた佳奈多さんが、隣のベッドから声をかけてきました。言葉を額面どおり受け取れば迷惑がっているように聴こえますが、その実、声には心配しているような響きがありました。あんな仕打ちをした私を心配してくれるなんて、佳奈多さんはやはり良い人です。

「ここ最近、ところかまわずため息ばかりついて……鬱陶しいったらありゃしないじゃないの」
「はいー……すみません……」
「何か悩んでいるならさっさと話しなさい」
「聞いてくださるんですか?」
「勘違いしないように。貴女がいつまでもそんなんじゃこっちもロクに睡眠取れなくて迷惑なのよ」

 良い人で、しかも優しいです……このツンデレっ子めーなんていうと怒られてしまいますので口にはしませんでしたが。

「でも、その、恥ずかしくて……」
「どうせ胸が小さいとかで悩んでいるんでしょ? まったく、くだらない」
「くだらないとは何ですかっ! それなりにおっぱい大きい佳奈多さんにはわからないかもしれませんが私は真剣なんですっ!」
「それなりって何よそれなりってっ!? ……まあいいわ、それで、貴女はどうしたいわけ? 言っておくけど、そんなに急に大きくなったりはしないわよ」

 そんなのはわかってます。実際、あの一件以来毎日牛乳たくさん飲んで自分でおっぱい揉んで、と努力を重ねてはいますが一向に結実する気配はありません。

「ですから、胸を大きくしようとするんじゃなくて、リキが貧乳好きになればいいと思うんですっ! これぞ発想の逆転ですっ! 革命的アイデアです!」
「また馬鹿なことを……で、その革命的アイデアとやらはうまくいってるのかしら?」
「……昔の人は言いました。『啼かぬなら啼くまで待とう時鳥ほととぎす』」
「こうも言ったわね。『啼かぬなら殺してしまえ時鳥』」
「物騒ですっ!?」
「いいじゃない、別れちゃえば」
「絶対だめですっ!」

 それだけは考えられません。初めて会ったあの日から今日この日まで、想いが途切れた日なんて一度もありませんでした。むしろ、それは強まるばかりです。だから、だからこそリキには喜んでもらいたくて……。
 思い悩んでいると、一際低い佳奈多さんの呟きが耳に飛び込んできました。

「まあ、『啼かぬなら啼かせてみよう時鳥』というものまた、一興よね」



***



「……ん?」
「どうした理樹? 筋肉か?」
「いや意味がわからないから。今ちょっと寒気がしてさ……」

 いつも通り恭介や謙吾、真人に鈴を交えて夜のひと時を過ごし終え、あとはもう寝る準備をして布団に入るだけとなった頃合のこと。
 歯を磨き、目覚まし時計をセットして横になったところで、突然身体がブルッと震えたのだ。
 単なる寒気とは、ちょっと違う。
 一瞬のことだったのでうまく感覚はつかめなかったけど、なんだかひどく胸騒ぎがするのだ。
 これからとてつもないことが起こるような、嫌な予感。
 粘り気のある液体を頭の中に流し込まれているような、不快感。
 頭を振って追い出そうとしたけれど、うまくいかなかった。
 それどころか、シェイクされて粘液が脳みそと良い感じに混ざり合ってしまったようだ。
 ズンと重くなった頭を休めようと枕に載せ、深呼吸で息を整える。
 すーはー、すーはー。

「大丈夫か? なんなら、俺の筋肉であっためてやろうか?」
「それだけは死んでもお断りするよ……」

 真人と馬鹿な話をしているうちに、深呼吸とあいまって気分が落ち着いてくる。
 こういうとき、真人がルームメイトであることがこの上なく頼もしい。
 感謝の念は口に出さず、ただ響きに込めて就寝の挨拶を交わす。

「おやすみ真人」
「おう、おやすみ」

 明日もまた、いい一日となりますように。



***



「そーっと、そーっと、なのです……」

 皆さんが寝静まったころ、私はこっそりと男子寮のとある一室へと忍び込むことにしました。
 佳奈多さんがおっしゃった『啼かぬなら啼かせてみよう時鳥』
 要は、貧乳のよさをアピールして貧乳好きになってもらうのを待つのではなくて、いっそ貧乳好きにしてしまえばよいのです。
 やはり、佳奈多さんは天才ですっ。
 神懸り的なアイデアですっ。

「……リキはよく眠ってるみたいですね」

 音を立てぬよう慎重にドアを開き、耳を済ませます。
 室内に響くのは、浅い呼吸音と微かないびき。
 人の形に盛り上がった二つのベッドのうち、小さいほうへと近づくと、そこには予想通りぐっすりと眠っているリキがいました。

「なんだか寝顔がとっても可愛いのです……」

 規則正しい寝息を立てながら安らかに眠るリキは、まるで物語に出てくる眠ったままのお姫様みたいで。
 リキが聞いたら怒るかもしれませんが、思わず嫉妬してしまうほどでした。
 来ヶ谷さんが『理樹君はかわいいなぁ』というのもこれなら納得、というものです。

「はっ!? 思わず見とれてしまいましたっ!?」

 こんなことをしてる場合じゃありませんでした。
 これではいったい何のためにここまで来たのかわかりません。
 ……まあ、リキの笑顔をじっくり堪能できただけでも儲けものかもしれませんが。

「なんて、来ヶ谷さんみたいなことを考えてる場合じゃありませんっ。えーと、えーと……ごそごそ……ありましたっ」

 取り出したるは、禁断の秘密兵器。
 これを使えば、もう後戻りはできません。
 何より、大好きなリキに対してひどいことをしてしまうことになります。

「本当にこれでいいのでしょうか……」

 思わず自問してしまいます。
 悩んで、悩んで。
 そして、出した答えに深く頷きます。
 いいのだ、と。

「この小型ぼいすれこーだーをリキの枕元へと置いて……すいっちおん!」

 この小さな機械は、リキが目覚める直前まで囁き続けることでしょう。
 ある種拷問ともいえるこの仕打ちを、リキは許してくれるでしょうか?
 いいえ、許してはくれないでしょう。
 それでも、それでも私は。

「それ、退却ですーっ」

 最後にリキに向かって小さく「ごめんなさい」とつぶやきます。
 言葉は受け手が知らぬままに、闇夜に包まれた部屋のただなかにぷかぷかと浮かんでいて、朝になったら誰も気づかぬうちに消滅してしまうのでしょう。
 私はそれを知りつつ、部屋を後にしました。



















『……ジジジジ……ぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすき…………』



















 朝。起きぬけのぼんやりとした頭をめぐらせて目覚まし時計を見る。時計はいつも僕が起きる時間よりも20分ほど早い時間をさしており、これからのんびりゆっくり準備をしても楽々と間に合うらしいことを教えてくれた。それに安心した僕は大きな欠伸を一つ、緩慢な動作で起き上がった。

 なんだか深夜遅くに誰かが枕元に立っていたような気がするんだけど……どうにもはっきりしない。未だに寝起きでぼーっとする頭をぶんぶん振ってみるけれど、やはり昨夜のことは思い出せなかった。

 思い出せないものを無理に思い出すことはない、そう決めた僕は、同じく目を覚まし『朝筋トレ』に励んでいた真人のほうへと目を向ける。超高速で腹筋をしていた真人は、僕が見つめていることに気づくと、動きを止めてニカッと笑いながら挨拶をしてきた。

「おう理樹、おはよう」
「ぼくはひんにゅうがすき」
「…………は?」
「え? どうしたの、真人?」
「い、いや、なんでもねぇ……わりぃ、俺の気のせいだったぜ」

 そういって再び筋トレを再開する真人。しかし、その姿にはいつものような覇気が感じられず、しきりに首をひねってばかりで、あまり集中できていないようだった。
 筋トレに集中できない真人なんて珍しいとは思ったものの、取り立てて騒ぐことでもなし、僕はさっさとベッドから降りて顔を洗いに洗面所へと向かっていった。

 朝の支度を済ませ、真人ともに食堂へと向かう。いつもの定位置にはすでに謙吾と恭介が座って雑談をしており、近づくとすぐに彼らは僕たちの存在に気がついて各々挨拶を交わす。

「おはよう」
「おっす。今日の調子はどうだ、理樹?」
「ぼくはひんにゅうがすき」

 今日の朝食は洋風で、食パンに合わせて目玉焼きやソーセージ、サラダの盛り合わせなど定番のおかずが揃っていた。普段小食な僕はいつも何か残してしまうのだけれど、不思議と今日は朝からお腹が空いていたので、残さず綺麗に食べられそうだ。
 と、トーストにジャムを塗っていたところで皆の様子がおかしいことに気づき、何かあったのだろうかと手を止めて周りを見渡してみる。

「……?」

 特に何もない。いつも通りの光景だ。いつも通り学生たちで賑わう食堂。いつも通りおばちゃんたちが忙しそうに厨房の中を駆け巡り、いつも通りぼくはひんにゅうがすきで、いつも通りのメンバーで朝食をとっている。ん? 今何か違和感を感じたような……ああ、そうか。そういうことか。

「そういえば、鈴はどうしたの?」

 なんだか寂しいなと思っていたら、まだ鈴が来ていない。いつもなら女子生徒にのみついてくるカップゼリーを猫にあげているのが目に入るはずなのだけど、今日はまだ見ていないのだ。皆がちょっと変なのも、きっとそれが原因だろう。

「お前、俺の妹に何をするつもりなんだ……?」
「は?」
「いやいい、聞かなかったことにしてくれ。たぶん俺の気のせいだ。そう思わせてくれ……」

 意味不明なことを呟いてもそもそとトーストを齧る恭介。いったい何なんだと謙吾に目線で問うと、思い切り逸らされてしまった。

 そのままお通夜みたいなムードで朝食の場は進んでいく。恭介はぶつぶつと何か呟いているし謙吾は我関せずの様子だし真人は不自然なまでに静かだし。いつもとはまるで違う雰囲気に、不審さが増していく。
 こんなのっておかしい。まさか鈴がいないってだけでこんなに変化が起きるわけではないだろう。実際、鈴は時々小毬さんあたりと朝食をとることがあるけれど、そういうときでも僕らは変わらず馬鹿話をしたりしてるんだから。

 視線を感じたので眼を上げてみると、恭介がまるで未確認生物でも見ているかのような表情で僕を見つめていた。目が合うと、ついっとそらされてしまう。
 ……何なんだよ、もう。いったい僕が何をしたっていうのか? 僕は普段通り眼を覚まして普段通り食堂に来ただけだ。普段通りに食事を摂っているだけだ。格別奇行に走っているつもりはない。どちらかといえば、普段の真人や謙吾のほうが奇行に走っていると思う。ああ、でもこの場合彼らにとっては『奇行』こそが日常であって、それからすると『奇行』に走らない彼らこそがまさしく奇行に走っているといえるんだろうか?

 ……なんだかわけがわからなくなったし、ものすごくどうでもいいことに思えたのでそこまで考えて思考をストップする。
 相も変わらず、朝食の場は不自然なまでに静かだった。



 なんとなく居たたまれなくなったので、僕は朝食を早々に切り上げ、一人で学校へ向かうことにした。出かけの際、『ちょっと用事があるから先に行くね』と声をかけてみたものの、生返事どころか反応すらなかったのが少し悲しかった。いったいどうしてしまったのだろう? 昨日の夜一緒に遊んだときはまったく普通だったのに。

 まあでも、たまにはこんな日もあるかと思い直し、校舎の中へと入っていく。いつもより少し早めに来たせいか、見かける生徒の数もまばらで、時々見かける人たちも皆悠然と廊下を歩いており、実に平和だった。うん、やはり朝はこれぐらいのんびりしてるほうがいい。少なくとも、鈴を教室の窓から放り込んで代返させるよりかはよっぽど健全だと思う。……そもそも鈴に代返させるっていうけど、実際のところ彼女の声は別に男っぽいわけではなく、どちらかといえば年相応な女の子の声なんだから、僕はともかく(自分で言ってて悲しい)野太い声の真人や謙吾の代わりなんてできるわけない。いくらなんでも担任の先生はそこまで馬鹿じゃないはずだ。でもなぜかこの間遅刻しそうになったときに緊急手段としてこの方法を用いたらなぜか皆出席扱いになっていた。おかしい。どう考えてもおかしい。もちろん今『なぜか』と2回いったのはわざとだ。うん、どうでもいいね。ぼくはひんにゅうがすき。

 なんだか今日の僕はいつにもましてどうでもいいことばかり考えている気がする。僕はいつもこんなどうでもいいことばかり考えているような人間だったろうか、いやそんなはずはない。わかってる。理由はわかりきってる。いつもの僕はこんな余計なことなんて考えてる暇がないぐらい皆と一緒に楽しくやってるんだ。マシンガンのようにネタの尽きない恭介の思いつきやら突拍子もない真人の筋肉トークやら馬鹿すぎる謙吾の振る舞いやらに気を取られる毎日。でも別に嫌って訳じゃない。むしろ好ましい。そんな日々をこそ、僕は望んでいるんだ。ぼくはひんにゅうがすき。

 ぐつぐつと煮えたぎるような思考を繰り返しつつ廊下を歩いていると、来ヶ谷さんが廊下の窓枠に肘をかけて悩ましげな表情で外の景色を眺めているのを見かけた。彼女は僕の姿に気づくとにっこり笑みを湛えて悠然と近づいてきた。

「やあ少年、ご機嫌いかがかね? なんだ、今日は馬鹿どもはいないのか? ……ふむ、まあたまにはそんな日もあるだろう。む? なんだ、じっと人を見つめてからに。……ふっ、そうかそうか、今日も今日とてお姉さんのナイスバディーに魅了されて言葉もないというわけか。いいぞ、そういうことなら遠慮なくこの胸に飛び込んでくるといい」
「ぼくはひんにゅうがすき」
「なっ!?」

 挨拶をしただけだったのに、なぜかがっくりと膝をついてうなだれてしまう来ヶ谷さん。いったいなにがそんなにショックなのだろうか? 僕にはよくわからない。

「そ、そうか……まあ人の好みなど千差万別、咎める気は毛頭ないが……しかし少年、若いうちからある種異常ともいえる性癖を抱えていると、近い将来苦しい思いをすることになるぞ? いや別にこれは負け惜しみではなく単に一般論であってだな」
「ぼくはひんにゅうがすき」
「まあ私としてもキミの意見は最もだといいたいところなのだが……あー、なんといったらいいんだろうな、その……何だ……くそっ! うまく言葉にできん! ……とにかくまあ大きくて悪いことはないのだぞと私は言いたい」
「ぼくはひんにゅうがすき」
「うむ、わかってくれたのならお姉さんとしてもこの上なく嬉しいぞ」

 僕の反応に満足そうな笑顔を浮かべて頷くと、彼女は『はっはっは』と豪快に笑いながら颯爽と身を翻してどこかへと消え去ってしまった。一人取り残される形となった僕は、まだ教室へ向かうには早すぎるかなと思い、つい先ほどまで彼女が肘かけていた窓枠へ近寄って、同じく彼女が見ていたであろう外の風景を眺めてみることにした。取り立ててなんというほどのものでもない、中庭が一望できる場所だった。彼女はあの悩ましげな表情で何を見ていたのだろうか? ぼくはひんにゅうがすき。

 それにしても……なんだか今日は皆変だなぁ。いつも冷静沈着で飄々としている来ヶ谷さんまでも、さっきはなんだかテンパってるみたいだったけど……。まあ考えたところで人の心なんて覗けるはずもなく、ましてや理解するのは困難だ。そう割り切らないと生きていくのは厳しい。
 しばらく中庭を眺めた後、頃合を見計らって僕は教室へと向かった。



「悔しくなんか、ないんだからな……」
「む、おかしいな……目から汗が……」
「お、姉御、おっはよー! ねえねえ見て見て! 今日はいつもよりも小さく髪まとめてみたんですヨ! 似合う? 似合う?」
「やかましいっ! そんなに小さいほうが好きかっ!? 私だって別に好きで大きくなったわけじゃないぞっ! まだ誰にも触らせたことだってないんだからなっ!」
「……何の話?」



 教室につくと、幾人かはすでに登校していたので彼らと挨拶を交わしながら自分の席へと向かう。声をかけると皆一様に目を細めて何か言いたげな表情をしたけど、結局何も言われなかった。なんだかひどく感じが悪い。

 やがて次々とクラスメートが姿を見せ始め、教室は段々といつもの見慣れた光景へと変遷していく。小毬さんが後ろの席の女の子とワッフルを半分こにしていたり、西園さんが自分の席で静かに読書をしていたり、葉留佳さんが相変わらず自分のクラスでもないのに勝手に入ってきて大騒ぎしていたりと、代わり映えのしない日常だ。まったく、ついさっきまで感じていた違和感はなんだったんだろうというぐらい平和だった。来ヶ谷さんがいないのもいつものことだし、鈴はどうせそこらへんで猫と遊んでいるんだろうし、真人や謙吾は朝食をぎりぎりまで摂るだろうからどうせ遅れるだろう。そしてそういえばクドはどうしたんだろうと思い周囲を見渡したところで、ちょうど教室に入ってきた待ち人と目が合った。僕に気づくと彼女はぱぁと花が咲いたような笑みを浮かべて真っ先に僕の許へと駆けつけて、

「リキ、おはようございますー」

 と元気よく挨拶をしてきてくれた。ご主人様を見つけたときの忠犬みたいな反応だな、なんてちょっと失礼なことを考えながら挨拶を返すと、クドは一瞬だけ真顔になり、破顔一笑、まるで全身で喜びを表すように飛び跳ね回る。大げさだなぁ。でも悪い気はしない。

「ではリキ、またお昼に、ですー」
「うん」

 衆人環境の下いちゃつくわけにもいかなかったので、お昼休みを一緒に過ごす約束をして別れた。クドが自分の席へ着くのを見守ってから僕も着席する。と、タイミングよくそこで鐘が鳴り、担任の先生が「滑り込みセーフ!」とか叫びながらスライディングで教室に滑り込んできてホームルームの開始と相成った。

 午前の授業が何事もなく無事に終了すると、クドが待ってましたとばかりに僕の席へと駆け寄ってくる。その手には大小二つのお弁当箱が握られており、その両方をずいっと突きつけられた。何だろうと様子を見守っていると、どちらがいいですかと問いつめられたので迷わず小さいほうを選ぶ。するとなぜか「リキを信じていましたっ!」と感極まった声で叫ばれ、その後両手でがっしりと握手を求められてしまった。なんなんだ、一体。

 教室では人目があって落ち着かないという理由で家庭科部室へと移動する。部屋につくと彼女はいつものようにお茶の準備をするといって奥へと引っ込んでしまった。一人取り残され、手持ち無沙汰になってしまった僕は、ぼーっとしているのもなんなのでお弁当を開けてすぐ食べれるよう準備しておくことにする。

「うわぁ……」

 弁当箱を包んでいたかわいらしいナプキンを丁寧に解き、犬のワンポイントがプリントされた蓋をぱかっと開けてまず飛び込んできたのは、仕切りできっちりと区切られたいくつかの区画のうち、もっとも大きな箇所にきっちり敷き詰められた真っ白なご飯、そしてその上に彩りとして添えられた桜でんぶが織り成す美しい二つの文字。

『貧乳』

 見事だ。美しい。芸術的なまでに高められた技術により描かれたその二文字には少しの乱れもなく、バランスよくお米の上に広がる白とピンクのコントラスト。どうがんばっても文字が目立ってしまって仕方ないはずなのに、それでいて自己主張を極力まで抑え込み奥ゆかしさすら感じさせるほど限界ギリギリまで切り詰めたそのフォームが実にその文字に相応しく、まるで奇跡を目の当たりにしたかのような錯覚にとらわれてしまった。控えめ。なんていい言葉だろう。
 図が高いとのお達しが脳内から響き渡ってきたので平身低頭、弁当箱に向かって土下座。おでこを畳みにこすり付けると摩擦熱を伴った痛みが僕を更なる高みへと連れ去っていく。ズリズリ。痛い。ズリズリ。あぁん、もっともっと!

「リキ? 何をやってるですか?」

 と、畳に火をつけんばかりに勢いよく擦っていたら頭上からクドの声が降ってかかってきた。その声に我に返った僕は、慌てて頭を上げて何事もなかったかのようにちゃぶ台の側へと擦り寄って正座する。なんでもないよーと両手でアピールすると、彼女は不思議そうな顔をしていたけれど、ともかくまあ気にしないことに決めたのか、僕の対面へと座って湯のみを一つ差し出してきた。ありがたく受け取り、まず一口啜る。

「ふぅ」
「はぁ」

 思わず二人ため息をついてしまう。それが全く同じタイミングだったので、僕たちはどちらからともなく笑い出してしまった。ああ、幸せだなぁ。ぼくはひんにゅうがすき。

「ところでリキ……?」
「ん? どうかした?」
「おでこから血が出てますよ?」
「ああ、これ?」

 ひとしきり笑いあったあとで、今気づいたとばかりにクドがおそるおそる尋ねてきた。クールに『ああ、これ?』だなんて返した僕だけど、実は内心はものすごくあせっていた。まさかさっき擦りすぎたせいで出血してしまったとでもいうのだろうか? だとしたら馬鹿らしすぎる上にこの上なく恥ずかしい。どうしよう? なんて言い訳しようか?

「ちょっと大サービス中なんだ」
「そ、そうだったんですかー」

 苦し紛れに使い古されたギャグをいったつもりだったんだけど、思い切り素で返されてしまい、ちょっと虚しい。かといってわざわざ自分で解説するのも間の抜けた話のように思えたので、軽く二、三度乾いた笑い声を立てて流すことにする。うん、人間引き際が肝心だよね。

「いただきます」
「どうぞ召し上がれ、ですー」

 せっかく用意してもらった弁当なんだ、手をつけないわけにもいくまい。
 ざっと中身を見渡すと、おいしそうなおかずがたくさん並んでいた。さてどれから食べようかなんて、弁当箱の中身をじっくり吟味してみると、これが想像以上に優れたお弁当であることに気づく。先ほどは桜でんぶの芸術ばかり意識してしまっていたけれど、よくよく見ればおかずのほうもどれも手の込んだ仕上がりとなっているのだ。卵焼きにミートボール、タコさんウインナーに煮物とお弁当の定番が所狭しと並んでおり、そのどれもが冷凍食品にはない、手作りの輝きに満ち満ちていた。実においしそうで、何から食べようか本当に迷ってしまうほどだ。とはいえ、迷い箸など行儀が悪いので、一番初めに目に付いた卵焼きからいただくことにした。きつね色の焦げ目がきれいについた黄色い塊を口の中に放り込む。もぐもぐ。咀嚼してみると、僕好みに甘く味付けされていた。こういう細かい気配りに男はコロっといってしまうんだよね。ああおいしい。もぐもぐ。ん? なんだか口の中に卵焼きとは似ても似つかない不思議な感触の何かが……どうも、卵焼きの中に変なものが混じっていたらしい。ペッとその異物を出してみると、それは小さく折りたたまれた紙片だった。不審に思い中を開けてみると、予想通り達筆で記された『貧乳』の二文字。あはは、クドったら可愛いことしてくれちゃって。
 目を上げてみるとこちらの様子をじっと窺っていたクドと目が合ったのでにこっと微笑んでみる。にこーっ。うん、やっぱりクドの笑顔は元気が出てくるなぁ。
 ちょこんと乗った桜でんぶがまるで乳首に見える小さめなミートボール、貧乳なタコさん(タコにもおっぱいがあるのかと疑問に思ったが口にはもちろんしない)ウインナー、よーく見ると爪楊枝らしきもので『ペチャパイ』と彫られているにんじんやジャガイモの煮物、これぞまさに至高の料理ってやつだね。うん、おいしいおいしい。僕がそういう度に、よほど嬉しいのかクドはにぱ〜と元気のであるあの笑顔を浮かべてくれるので、僕としても非常に嬉しい。スパイラル、スパイラル。

「ふう、ごちそうさま」
「お粗末様ですー」

 あっという間に弁当箱を空にし、ほんの少しだけ残していた湯飲みの中のお茶で口の中を洗い流す。ふう、と一息ついたところで、クドがそんな僕の様子を満足そうにニコニコと眺めていたことに気づいた。……結局、彼女は僕が食べはじめてから食べ終わるまでの間、ずっと変わらず僕を見つめていたことになるわけだ。とすると、彼女は自分の分の食事を摂っていないことになるのではないか? そもそも彼女は自分の分のお弁当を作っているのだろうか?
 気になって尋ねてみると、

「もうお腹がいっぱいなのですっ」

 もうもなにも、一口も食べていないじゃないか、そんなんじゃ大きくなれないよと言おうしたけど、なんとなく危険な匂いがしたので黙っていることにした。ひょっとすると、ダイエットってやつかもしれない。彼女にはそんなものまるで必要もなさそうに思えたけれど、この年ごろの女の子がそういうのを気にしていることは、さすがの僕にだってわかるのだ。

 なんとなく間が空いてしまったので、壁にかけられていた時計に目を向けると、昼休みの終了にはまだ30分も余裕があった。授業の合間の貴重な休み時間を、大好きなクドと一緒にまったりと過ごせる時間がたくさん残されているんだと思うと、うれしくてたまらない。彼女も僕の目線を追って時計を見つめており、同じこと思ったのか、

「リキ、まだ時間はありますし、デザートでもいかがですか?」

 なんて素敵な提案をしてくれた。お弁当だけでは少し物足りないかなと思っていた僕にはまさに渡りに船というやつで、二つ返事でOKする。「では目をつぶっててくださいー」と言われたので素直に目を閉じ、デザートについてあれこれと思いを巡らす。なんだろう? ケーキ? クッキー? いやいや、和風でわふーなクドのことだ、和菓子なんてこともありうるかもしれない。いずれにしろ、楽しみであることに変わりはない。まだかなまだかなーと焦れていると、唐突にふわっとフローラルな香りが鼻腔をくすぐってきた。いい匂いだ。つい最近どこかで嗅いだことがある香り。けれど、どうしてかそれが思い出せない。

「リキ、あーんしてください」

 請われるままに、口を大きく開ける。途端に口内に感じる、熱くぬめった感触。それはまるで生き物のように蠢き僕の舌を絡めとっていく。ひとねぶりした後、歯垢を削ぎ取るように一本一本歯を磨き上げ、時々思い出したように熱い液体を僕の口内へと流し込む。くちゅくちゅと淫らな音を立てるそれの正体はもはや語るまでもなく、目を開けると、そこには予想通りほてった顔のクドがいた。真意を目で問うと、彼女は僕がこれまで見たことがないような妖艶な笑みを浮かべ僕の体へとのしかかってきた。クドってこんな表情もできたんだなぁなんて感心していたので、僕はあっけなく押し倒されてしまった。とはいっても、彼女の軽い体重では僕の体を地に倒させることはできず、自然、倒れ掛かってきたクドの体を僕が支えるみたいな形となっただけだ。しかしそんなことはどうでもよかったのか、彼女は気にした風でもなく、そのまま服の上から僕の胸に手を這わせる。ざわざわっという絶妙な感触に思わず仰け反ってしまった。僕の反応に満足そうに目を細めると、引き続いてクドは僕の手をとり、自分の胸にあてがおうと引き寄せた。そこでフラッシュバックのように脳裏をよぎる文字の羅列。

 ぼくは、いいのか?、ひんにゅうが、いや、すき、ぼくは、いいわけない、ひんにゅうが、だめだ!、すき、止まれ!、ぼくは、頼む、ひんにゅうが、やめてくれ、すき、誓ったんだ、ぼくは、僕は、ひんにゅうが、二度と、すき、彼女を、ぼくは、傷つけたり、ひんにゅうが、傷つけたりしないって!、すきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすき!
 対極する二つの思考。交錯。ばちばちっと脳内でスパーク。真っ白に染め上げられた頭、思考がカット。ありとあらゆる身体機能も停止。唯一残された視覚。固定。目の前で発生する事態。回避不能。

 制服からでは盛り上がっているかどうかすら定かではない彼女の胸目掛けて飛んでいく僕の手が、あと1ミリで触れるところまで行き着く。そして、すぐに訪れるだろう至福の瞬間ときに備えた瞬間、

 ガキッ!

「硬っ!?」

 想像とは正反対の、金属的な感触に思わず声が上がってしまった。馬鹿な!? おっぱいだぞ!? いや、むにゅ、なんて贅沢な感触を予想していたわけではないけれど、いくらなんでも、ガキッ、はないだろう!? あばら骨とかそういう問題ではない。
 なんともいえない不気味な感触に、その場からバッと離れる。拍子に支えを失った彼女の体がグラっと前のめりに傾き、そのままべしゃっと畳の上に倒れこんでしまった。

「わふー!?」

 驚きの声を上げつつ畳の上をずざざざーっとヘッドスライディングしていくクドを見て、一瞬しまったと思った。けれど、転んだ拍子にクドの制服の胸ポケットから飛び出してきた何か妙なものに気をとられ、そんな思いは消し飛んでいた。なんだろうと思い取り上げてみると、それはいくつか操作ボタンがついた携帯くらいのサイズの機械だった。携帯と違うところは、ナンバーボタンやらの代わりに『■』『▲』などの記号が並んでいるところだ。僕がそれを拾い上げていることに気づくと、クドは慌てて立ち上がり、取り上げようと飛び掛ってくる。しかし、一瞬早く僕は三角ボタンを押していた。数秒ノイズが続いた後、唐突に、まるでお経のように淡々とその機械が音を放出していく。
『……ジジジジ……ぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすきぼくはひんにゅうがすき…………』

「……」
「……」

 僕はボタンを押したまま、クドは僕の体にしがみついたまま、まるで二人申し合わせたかのように動きを停止していた。
 物音一つ立たない部屋の中心で凍りつく二人の男女。もしこの場所に偶然訪れるものがあれば、その人はきっと僕らの姿を見るや否や、一目散に逃げ出すことだろう。

「クド?」

 できる限り優しく、しかし確実に相手に自分の疑念が伝わるような響きを込めて声をかける。
 その対象となった彼女は、イヤイヤするように首を振って後ずさりし、僕から離れる。
 わかってしまった。
 彼女の思惑。
 今朝から感じていた周囲の違和感、『ぼくはひんにゅうがすき』といい続ける機械、そして何よりクドの尋常ならざる様子が、雄弁に物語っていた。

「……っ!」
「あ、クド!?」

 と、突然弾かれたように彼女が動き出す。
 出口へ向かってだだだっと駆けていく彼女に気づき、慌てて止めようとした僕は、そこである事実に気づいてしまった。
 そしてその事実は僕の足と止めるには十分すぎるほど衝撃的だったのだ。
 正気に返ったときにはもう、僕の視界から彼女はいなくなっていた。

「泣いていた……」

 そう。
 たしかに、見たんだ。
 彼女の頬から伝い落ちる、透明な雫を。
 じっとしてなんか、いられなかった。

 部室から飛び出し、左右を見渡す。

「いない……遅かった!?」

 くそ、何をしてるんだ僕は!
 あとほんの10秒ほど早く動けていれば見失うことなんてなかっただろうに。
 今は悔やんでいても仕方がない。
 とにかく、後を追わなきゃ!

「どこへ行ったんだ!?」

 クドがよく行くところ……そうだ、家庭科部室だ!
 ってそれは今僕がいる場所だろ……しっかりしろ、僕!
 中庭、は人目につくし、可能性は薄いと思われる。
 だとすると、他にクドが行きそうな場所……自室だろうか?
 そこまで考えたところで、いつか交わしたクドとの会話を、唐突に思い出す。

 ――リキリキっ! 今日は小毬さんに連れられて、素敵な場所へ行ってきました!
 ――へぇ、どこだろう?
 ――それがですね……聞いて驚けっ! なんとっ! 屋上なのですっ! いっつ・ざ・るーふとっぷなのですっ!
 ――ああ、なんだ。屋上か。
 ――……なんだか反応が薄いのです。見てください、屋上へのきーあいてむもいただいたんですよ。『the driver』ですっ!
 ――いや、僕半年ぐらい前に連れてってもらったけど。それとねじ回しのドライバーは『the screwdriver』ね。
 ――がーん! 先越されてしまいましたっ!? さらに恥ずかしい間違いまで……わふー……。

「屋上だっ!」

 確信はない。
 けれど、彼女はそこにいる、そんな気がした。
 行かなければ。
 何をしに?
 決まってる。
 僕らが抱える問題を、笑い飛ばしに。



 駆ける。駆ける。駆ける。
 ただひたすらに、昼休み終了間際で賑わう廊下を脇目も振らず駆け抜ける。
 どん、と誰かにぶつかった。
 謝りもせず先を行く僕へ、非難の声が上がるも、立ち止まらずに、僕は駆けていく。
 たとえどんな邪魔が入ろうとも、僕は駆け抜けてみせる。

「理樹! 何があったか知らねーけどよ、俺の筋肉でも見て元気出してくれよ! そぉーれ筋肉筋肉〜」

「どけ筋肉馬鹿!!!!」

「すみません……」



「ちくしょう……理樹にあんなこと言われちまったら、俺ぁどうすりゃいいんだよ……」
「災難だったな真人少年。ほら、プロテインでも飲んで元気を出すといい」
「ありがとよ……へっ、人の優しさが目に染みらぁ……ごくごく……ああうめぇ、生き返るぜ! ところでなんか目赤くねーか、来ヶ谷の姉御?」
「……訊くな」



 駆ける。駆ける。駆ける。
 普段ほとんど運動などしない身体に無理をさせたせいか、足がぎしぎしと痛み始めた。
 心臓が破裂しそうなほどに鼓動は高鳴り、息も絶え絶え。
 満身創痍とはこのことだ。
 けれど構わず、僕は駆け抜ける。
 どんな邪魔が入ろうと、僕は駆け抜けてみせる。

「理樹。たまには男同士で話合いでもしようじゃないか。何か悩みがあるなら俺を信じてなんでも話してみてくれ!」

「どけガチホモ男!!!!」

「すみません……」



「ガチホモ男……」
「どんまい、謙吾」
「きょう……すけぇ……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「今は好きなだけ、俺の胸の中で泣け。お前にはその資格がある……」
「……アリです」
「……頼むから、そんな熱い目でこっちを見ないでくれ……誰とはいわないが……」



 よし、後はこの先を曲がって階段をあがれば屋上だ。
 お願い、クド、そこにいて……!

「待ちなさい、直枝理樹」

 と、今まさに階段に差し掛かったところで、上空からの凛とした声に足を止める。
 見上げると、そこには『風紀委員』の腕章をつけ悠然と一人佇む女子生徒。
 見覚えがある。
 クドのルームメイトをかって出てくれた人で……名前は、そう、たしか二木佳奈多さんだったはずだ。
 大方立ち入り禁止の屋上へ向かっている僕を、風紀委員として止めに来たんだろうけど、そういうわけにはいかない。
 僕は一刻も早くクドの許へ駆けつけなきゃいけないんだから!

「二木さん、だったよね? ワケは言えないけど、急いでるんだ。そこをどいてくれないかな」
「クドリャフカなら確かにこの先にいるわよ。さっき見たもの」
「!! ……じゃあなおさらだ。僕はクドに用があってきたんだから。どかないっていうなら、力ずくでも」
「ねえ」

 どいてもらうよ、と言い切る前に遮られてしまった。
 声にからかうような響きはなく、目はまっすぐ僕を見据えたまま。
 立ち止まっている場合じゃないはずなのに、僕は不思議と彼女の言葉に耳を傾けなければならないと感じていた。

「貴方、この先に進むことがどういうことか、わかっているの?」
「……どういう意味さ」
「後戻りはできないわよって言ってるの」
「覚悟はできてるよ。クドを好きになったときからね」
「嘘おっしゃい。覚悟できてたんならこんなことにはならなかったでしょうに」
「う……そうかも」

 ぴしゃりと言い切られ、思わず黙り込んでしまった。
 確かに、躊躇いがあったのは事実だ。
 反論なんてできやしないし、するつもりもない。
 だからせめて、精一杯僕の覚悟を視線に載せて睨みつけるように彼女を見据える。

「……まあいいわ。ほら、とっとと行きなさい」

 僕の決意が伝わったのか、二木さんはあっさりと道を譲ってくれた。
 彼女の好意に甘え、三段飛ばしで最後の階段を駆け抜けることにする。
 脇を通り抜ける際、ちらと二木さんの顔を盗み見たら、無表情な中に僅かながらの微笑が表れていて、ああそういえばクドが「佳奈多さんはああ見えて良い人ですー」と言っていたなぁなんてことを思い出してしまった。

 階段を登りきり、屋上へと続く窓の枠に手をかける。
 後ろを振り返ると、ちょうど二木さんが曲がり角へと消えていくところだったので一言、

「ありがとう」

 と声をかけてみた。
 彼女はこちらを振り返ることはせずにぼそっと何かを呟き、そのまま消えてしまった。
 その声が、一瞬遅れて僕の耳に届く。

「……別に貴方のためにやったわけじゃないわ」



「クドっ!!!」

 屋上へ飛び込み、彼女の姿を求めてあたりを見回すと、フェンスにしがみついて地上を見下ろしているクドの姿がすぐに目に映った。
 声をかけると、彼女はぼんやりとした視線を彷徨わせる。
 そして視線が僕を捉えた瞬間、瞳の奥に光が灯り、

「来ないでくださいっ!!」

 と牽制されてしまった。

「クドっ! お願いだから僕の話を聞いてくれ!」
「リキの話なんか、聞きたくありませんっ!」

 僕が一歩近づけば、彼女もまた一歩遠ざかる。
 まるでいたちごっこだ。
 ただ一つ違いがあるとすれば、屋上はそれほど広い場所ではなく、少し移動すればすぐに行き止まりになってしまうという点だ。
 やがてガシャンと派手にフェンスを鳴らし、クドは後ずさりできない屋上の隅へと追い込まれてしまった。
 というか、僕が追い込んだのだけれど。

「来ないでくださいっ!! それ以上近づくなら、ここから飛び降りちゃいますっ!!」
「馬鹿なこと言ってないでこっちへ来て話を聞いてくれ!」
「聞きたくないって言ってますっ! ……ここから飛び降りたら、きっと私はぺちゃんこになるんでしょうね。ひゅーん、ぺちゃ、です。ヒキガエルさんみたいに潰れちゃうんです。……ああ、それもいいかもしれませんね。ぺちゃんこ。私にぴったりな最期です」
「クドっ! 僕はっ!」
「やめてくださいっ!! お願いですから、何も言わないでください……リキのこと、嫌いになりたくないんです……ずっと、ずっと好きでいたいんです! 別れたいなんて言われたら……リキが他の女の子と付き合うようなってしまったら……私、きっと……」
「……もう。馬鹿だな、クドは」
「馬鹿とは何ですかっ、わふっ!?」
「……ほら、捕まえた」

 叫ぶのに夢中だったんだろう、僕が少しずつ距離を詰めていることに全く気づいてなかったらしい。
 そのおかげで、うまいこと間合いを合わせて飛び込んで、一気に抱きしめることに成功したのだから、やっぱりクドはお馬鹿さんだ。

「は、離してくださいっ!」
「嫌だ」

 絶対に、離してなんかやるもんか。
 こんなに身体を震わせたこの子を、離してなんてやれるわけない。

「僕の大好きな恋人の命を、勝手に奪ったりしないでよ」
「っ!? ……そんな……好きって……どうして……ひっく……あんなにひどいこと……ぐすっ……私……おっぱいだって全然なくて……それにリキの周りには……ひっく……ぼいんぼいんな来ヶ谷さんや、じゃすとふぃっと・さいずな葉留佳さんが……」

 混乱しきった様子の小さい身体を、一際強く抱きしめる。
 その拍子に、彼女の頬から雫が一つこぼれ落ち、コンクリートに丸い染みができてしまった。
 泣かせたのが僕なら、責任を取るのもまた、僕だ。
 大丈夫。
 覚悟ならもう、できている。

「クド……」

 背徳感が、あったんだ。
 躊躇いが、あったんだ。
 幼い容姿を裏切らない、幼い身体。
 この子に手を出すっていうことは、つまりはそういうことなんだ。
 けれど、そんなの関係ない。
 後ろ指を指される?
 それがどうした。
 それが僕にとって一体なんだっていうんだろう?
 僕は馬鹿だ。
 大馬鹿だ。
 救いようもないほど、大馬鹿だ。

「リキ……?」

 好きになった人がいて、
 その好きな人が僕のことを好きでいてくれる。
 それが全てじゃないか。
 それ以外に、何が必要だというのか?

「伝えたいことが、あるんだ」

 泣かせてしまった。
 ごめんね、クド。
 でも、今僕が口にすべきことは、そんな謝罪の言葉じゃないよね?

「……ひっく……ぐすっ……」

 この素晴らしい女の子には、どうか笑顔でいてほしい。
 何よりも僕に力をくれる、あの笑顔。
 あれを守るためなら、何だってできるはずだ。
 今なら言える。
 何の躊躇いもなく、真摯に告げることができると思う。
 言わされるんじゃない。
 僕が、この僕が、自らの意思で、言うんだ。
 あの言葉を。



ぼくはひんにゅうがすきすもーる・いず・じゃすてぃす


<了>



--------------------------------------------------------------------------------

 あとがき

『すべての貧乳好きへ告ぐ』

 諸君らは、覚えているだろうか?
 あの「貧乳はステータス」と言い切った勇者のことを。
 そう、あいつだよ。
 ああいや、みなまで言わなくていい。
 その名前を口にしてしまったら最後、退路は断たれ、君は前に進むほかなくなってしまうからな。
 だから今はただ、その名を胸に刻み、墓の下までもっていくことだけを考えていれば良いんだ。
 それが、俺と君がどれだけ離れていようとも繋がっているっていう、何よりの証となるのだから。
 そう、俺が一人じゃないように、君もまた、一人じゃないんだってこと。
 これだけを忘れなければ、それでいいと思うんだ。

 そして

 もしこの先俺たちに好きなひとができたとして、そのひとの二つの膨らみが俺たちにとって看過できないほどの大きさであったのなら、共にこの言葉を捧げるんだ。
 遠慮はいらん。
 深呼吸して、声高らかに宣言するんだ。

「ぼくはひんにゅうがすき」と。

 おそらくその瞬間、俺たちは右ないし左頬に強い衝撃を受けることになるだろう。
 心に傷を負うことになるかもしれない。
 だがそれでいい。
 その桜もみじもまた、俺たちが共にあるという何よりの証となるんだ。

 さあ今こそ、ジンジン痛み熱を帯びていくほっぺたに、その冷え切った手を添えて
 インターネッツという虚構で彩られたこのビューティフル・ワールドをスキップして廻ろうじゃないか。
 見果てぬ夢すもーる・いず・じゃすてぃすをその胸に――



 *上記表現はすべてネタです。実行した際に起こり得る全ての事象について、当方では一切の責任を負いかねますのであらかじめご了承ください。



 というわけでこっから先が本当のあとがきとなるわけなんですが、何を言ったらいいのやらよくわかりません。
 一つだけ僕に言える事があるとすれば、それは、この作品にはまずタイトルと↑のネタあとがきがあったということなんです。
 これが書きたかったがために、この56kb近い物語を、一心不乱に書き散らしたんです。
 馬鹿だと思いますか?
 はい、僕は馬鹿です。
 そして、それでいいとさえ思っています。
 僕は今、自信をもってこのあとがきを書いていますが、多分1週間後くらいにこの作品が公開されることになって、読み直したときに、きっと悶絶するぐらい後悔することでしょう。
 そして、それがいいとさえ思っています。
 この物語の前後には、おそらく各作者様方の渾身一投の力作が掲示されることでしょう。
 この物語は、それらのメインディッシュを継続的に楽しむための、箸休め程度のものでしかないのでしょう。
 そして、それこそが、まさしく僕が望むことであり、また同時に、僕がこのクドリャフカ・フェスティバルにおいて、唯一主催様並びに参加者各位に捧げられる微力ながらのお力添えだと思うのであります。

 それではこれから先何日間続くのかわかりませんが、最後の最後まで楽しめたらいいなあと思いつつこの辺で締めくくらせていただきます。ご閲覧ありがとうございました。


ばっくとぅいんでっくす、なのですっ


専用掲示板にじゃんぷですー