子犬が日溜りの中で静かに寝息を立てている。 涼やかな夏風に長い髪を遊ばせ、ゆったりと眠る。 警戒心なんてものは感じられず、まるで子供のように安らかな表情で。 ――ああ、今が止まってしまえばいいのに。 そんな叶わぬ夢を思い浮かべ、とりあえずはこの光景を心のキャンバスに留めることにした。 子犬はもうすぐ目を覚ますだろう。 ずっと眠っているということは時間が許してくれない。 だからせめて、今だけはこの光景を覚えておこう。 それはきっと何よりも大切な宝物になるはずだから。 『眠る子犬との夢語り』 見る人を笑顔にしてくれるような、そんな微笑ましい笑顔。 こうして君と一緒にいると、いつもそんな言葉を思いつく。 辛いことがたくさんあるこの世界を、どうして君はそんな笑顔でいられるのだろう。 君は何を見て、何を信じて生きているの? 答えず眠るばかりの子犬に、そんなことをそっと呟く。 「クドは……」 ふと、何かを続けようとして言葉が途切れる。 寝返りをうつ彼女の小さな手が僕の手に自然と触れたのだ。 柔らかい感触にドキッとしたけど、それで起こしてしまうのは困るので堪える。 その努力の甲斐あってか、子犬は相変わらず穏やかに眠っている。 起こしてしまわなくて本当に良かった。 そんなことを本気で考えている自分に少しだけ苦笑する。 「……もう少しだけ眠ってていいからね」 傍にいられるならそれだけでもいいのだけど。 たまには二人だけで、こんな風に過ごすのも悪くない。 騒がしくも楽しい日々か、それとも静かで穏やかな時間か。 皆といて、皆と遊んで、皆で笑う。 それは強い絆で結ばれた仲間達と過ごす、笑顔に溢れた日々だ。 そして今は彼女と二人きり、話し声も笑顔もないけど、胸には暖かな光が差している。 皆といても、二人だけでも、それはどちらも捨てがたいもので――だけど両方は得られない。 二つは相反するが故に同時には訪れないものだ。 ほら、耳を澄ませば誰かの声が聞こえる。 「おーい、理樹ー!」 同じルームメイトの、頼れるけれど少し騒々しい彼だ。 もうすぐ授業が始まるのに、なかなか教室に戻らない僕を心配して探してくれているのだろう。 そんな彼の心遣いは嬉しいのだけど、今だけはこの静かな世界を壊して欲しくはない。 だから聞こえない振りをして口を閉ざす。 少しの罪悪感と、大きな安心感。 それはきっと、今このままでいることを本当に望んでいられるからこそ感じることなのだろう。 「今が止まってしまえばいいのにね?」 けれども時間は常に流れゆくものだ。 この平和な時も、またいつもの喧騒へと帰っていく。 始まるのは騒がしくも愛しい日々、過ぎ去りしは愛しい人との二人きりの時間。 始まりの鐘を鳴らすのが僕だとするのなら、その鐘を鳴らさないことも出来るだろう。 そうすれば――この世界は失われない。 「ねえ、クド……僕は最低かもしれないね。 他の誰かがいなくてもいい。皆がいれば、僕はそれでいいと思ってるんだ。 ……君と一緒にいたい、絶対に離れたくないって」 無感情に眺める世界に色はなかった。 白と黒のモノクロの世界で、蛍火だけが僕と彼女を照らしている。 風も光もなく、ここにいるのは僕と彼女だけ。 誰にも邪魔されず、誰にも干渉されず、誰にも傷つけられず、誰も傷つけなくていい。 ここに閉じこもってしまえば、辛いことも悲しいこともなくなるだろう。 それが本当に現実になってしまえば、それ以上に素敵なことはない。 「でも……そんなの駄目だよね」 愛しい子犬は何も答えない。 ただ無垢な寝顔で、穏やかに寝息を立てているだけ。 けれど子犬は――高い空の果てに夢を描いている。 どこか星の輝きを思わす、優しく銀に煌く髪を遊ばせながら。 抱きしめてしまえば隠れてしまうほどに小さい華奢な身体と空の蒼よりも透き通って見える瞳で。 「高く飛べ、高く空へか……クド、空は遠いよ?」 それがどんな過酷なのかも知っていて、それでもクドは諦めないのだろう。 僕はそんな彼女を強いと――そう、心の奥底から思っている。 たとえ今はこうして眠っていたとしても。 「寝たままじゃいられないよね、きっと……」 高い空の果てに夢を見る彼女は、きっと誰よりも現実を見据えているのだろう。 彼女が空に旅立てば、僕はそれを見上げることしか出来ない。 クドの夢は、僕が飛ぶ空よりも遥か上にあるのだから。 だから、本当に強く思う。 今が止まってしまえばいいと。 でも、クドはそう思わないはずだ。だから―― 「僕も飛ぶよ、クド。 クドのいる空には行けないけど、せめて近い場所で見続けられるように。 風を切って、真っ直ぐにこの空を駆け抜けるよ」 君の声がすぐ近くで聞こえるように、幾千もの星に向かい、気高き強さを胸に僕も歩き出す。 悲しい別れさえも乗り越えられるように、次に待つ何かへと向かうために。 「幻だけの夢は……覚めるものだから」 時間が止まってしまえばいいとか、そんなことを思うのは悪いことじゃない。 でも、進む未来――その先にある希望から逃げちゃいけない。 目を凝らせば目の前にある世界を眺めているだけじゃ、何もしていないのと同じなんだ。 ただ時間の波に揺られているだけの渡り鳥は、空に憧れるだけで羽ばたいてはいない。 こうしている限り、僕は幻想の世界の住民でしかないんだ。 そこにあるのは幻で、本当の彼女はそこにはいない。 だから――彼女が目を覚ましたら、おはようと言おう。 また始まる、いつかの終わりを過ごすために、愛しい人に挨拶を送ろう。 ――それは別れへの決意なのかもしれない。 そうして優しく肩を揺すれば、子犬の小さな声がする。 色を失っていた世界が鮮やかに染め上げられ、空の蒼さと銀の煌きに瞳が焼かれている。 さあ、今日は何をして過ごそう。 子犬と過ごすそんな一日を思い描きつつ――僕はまた、現実へと帰っていく。 「んー……」 「クド、起きないと授業に遅れるよ」 「わふー……?」 「僕はクドの枕じゃないよ?」 「わふ……」 「いやいやいや、抱きつかれると僕が動けないんだけど……」 「くー……」 「ああ、寝ちゃだめだって!」 「りきー……やー…てぃびゃ……りゅぶりゅー……」 「クド、起きてってば!ほら、クド――」 「それで授業に遅れたのか、少年」 「……うん」 〜あとがき〜 眠る子犬との夢語り、いかがだったでしょうか? 相変わらず寝ていたりする話ですが、ほのぼのとした感じが出せればなと思いまして……。 シリアスな場面が入ったため、少し暗めになったのではないかというのが今回の懸念です。 ちなみに、一部のモチーフになったのはご存知のあれです。 気に入っていただければ幸いです。 専用掲示板にじゃんぷですー |