『ねーねー理樹くん、そのペンダント、どしたの?』
       『あ、これ? クドと一緒に、卒業記念に作ったんだよ』
       『それにしても、なんだ? その石。ちょっとよく見せてくれよ』
       『珍しいですわね。あなたほど宝石が似合わない人も、いませんわ』
       『ありがとよ。俺は筋肉一筋だからな』
       『真人、それ褒めてないから』
       『誕生石とか、そういうものか?』
       『違うよ、謙吾。僕もクドも同じのつけてるし』
       『青いから、アメジストかなぁ? それとも、水晶?』
       『ううん。小毬さんはずれ』
       『じゃあ、なんだろう? うーん……』
       『なんか、サビついた鎖のかけらみたいにも見えるぞ』
       『鈴、正解』
       『えっ………直枝さん、なんでそんなものを、ペンダントに?』
       『ずいぶん高度なボケだな』
       『ボケじゃないよっ』
       『おやおや理樹君、ずいぶん攻撃的じゃないか』
       『来ヶ谷さん。ちゃんとこれを使ったのには、理由があるのです』
       『理由って何よ。クドリャフカ』
       『ひみつですっ』
       『こらーっクド公っ、教えなさーいっ!』
       『わ、わふーっ! 私は犬じゃないですーっ!』
       『ほわぁぁぁぁぁっ、クーちゃんが洗われちゃってるよぉ〜…』


             neweaba n maiu
           〜 理樹とクドのテヴア旅行記 〜


「リキー」
 大学の卒業を1ヵ月後に控えた2月の夜。
 胸にいっぱいのパンフレットを抱えて、隣の部屋にいたクドが僕の部屋にやってきた。
「卒業旅行のこと、考えていただけましたか?」
「うーん……」
 卒業旅行の行き先を、僕達は考えていた。
 でも、僕にはどうしても行きたい場所があった。
 けれども、これをクドに納得させるには、正攻法では絶対に無理だとわかっている。
 だから僕は、机の脇に重ねてあるパンフレットをぱらぱらと眺めながら、決めかねているような素振りをした。
「いろいろあるから、迷っちゃうね」
「せっかくだから、秘湯巡りなんていいかなー、と思うのです。山奥の温泉宿とか、川の水を混ぜて作る温泉とか…」
 クドは海外経験が長いから、いまさら日本の外へ出て行こうとは思わないらしい。
 以前、僕が海外には行かないの? と言ってみたところ、日本人は日本を知らなさ過ぎるです、日本には温泉が三千以上もありましてですね……と温泉の魅力を小一時間聴かされ、それ以上異論を挟めなくなってしまった。
「でも、クド」
「はい?」
「秘湯だと、脱衣所どころか、囲いもないところも多いと思うんだけど、クドはそれでいいの?」
「水着を下に着ていくですから、大丈夫なのです」
「じゃあ、温泉から出て着替えるときは? その時は脱ぐしかないでしょ?」
「車をレンタルして、その中で着替えればいいと思うです」
「ワンボックスカーなら中も結構広いですから、十分着替えられると思うです」
「…じゃ、それを誰が運転するの?」
「……わふうー…」
 クドが短く、弱々しくうめいた。
 僕もクドも、運転免許を持っていない。だから車がないと行けない場所は、非常に行きづらくなる。
「……じゃ、じゃあ、山奥の小さな温泉宿巡りなら…」
「それでもいいけど、クド、長い時間歩けるの?」
「ヘタすると、一日中歩き回って宿で熟睡、ってことにもなりかねないし…」
「…わふー……」
「それに料理は? 山奥の宿って料理が貧弱なイメージがあるんだよ」
「場所によっては素泊まり限定、食事は自炊しないといけない、とか…」
「……わふー…」
 クドの「わふー」に、なんでリキそんな意地悪ばかり言うですか、という類の感情が入り始めた。
 ちょっと言い過ぎてしまったかもしれない。
「もしどうしてもそれで行くなら、よっぽどしっかり厳選して、その上で計画立てないといけないね」
「そうですね」
「でもせっかくの旅行だからさ、一箇所でゆっくり休みたい、っていうのはあるよ…」
「僕のわがままで、申し訳ないけど」
「いえいえ…」
 そこまで喋って、今がいいタイミングだと考え、
「実はクド、僕に行きたいところがあるんだ」
 僕は一気に切り出した。
「………?」
 クドが不安を湛えた目で僕を見る。
「テヴアに、行きたい」
 テヴア、という単語を聞いた瞬間、クドの表情がさっと曇った。
 そして、空気が固まって動かなくなる。

 前々から、クドは言っていた。
 世界中どこでも私は行くですけど、テヴアだけは行きたくないです。
 なぜだか分からないですけど、とっても怖いのです。
 家族のお墓参りに行かなくちゃいけないのは分かるですけど、それでも…。と言って拒んでいた。
 それでも、僕は行きたかった。テヴアに。
「………リキ」
 クドがか細い声で、返事をする。
「ん?」
「……いくら、だいすきなリキのお願いでも、それは、だめです…」
「クド…」
「……いきたく、ないです……」
「何度も聞いてるよ。嫌な思い出が蘇ってくるからでしょ?」
「…たぶん、リキがいっしょでも……」
「僕じゃ力になれない?」
「そんなことっ、そんなこと……ないこともあることもないような気もしますしあるよーな…」
 こういう遊んでいるような口調でも、クドは真剣に悩んでいる。
 高校から合わせてもう6年も一緒にいるから、僕にはクドの考えていることがよくわかる。
「この機会を逃したら、もう二度と行けないと思う」
「僕もクドもこのまま大学院に入って、また来年JAXA(宇宙航空研究開発機構)を受けるから、もう長い休みなんてとれないし」
「だから、行きたいんだ。一回だけでいいから」
「僕の故郷には、おととし一緒に行ったでしょ? 僕だって見たいよ。クドの故郷」

 一昨年の夏。僕達は夏の長期休暇を使って、恒例の旅行に出かけた。
 日本中を見てまわりたいというクドの希望で、毎回あちこちの温泉を巡っていたが、今回は違っていた。
「リキのふるさとを、見てみたいです」
「え…」
 正直、行きたくなかった。
 僕が両親と一緒にいた記憶は、10歳までの、幸せなものしかない。
 お父さんは何かの店を開いていて、いつもお客さんがたくさんいたのを覚えている。
 お母さんもその仕事を手伝っていて、毎日忙しく働いていた。
 でも。ある日ふたりが仕事で外出していた時に、大型トレーラーに追突され、ふたりともいなくなってしまった。
 お父さんの仕事仲間が後見人になり、財産を管理することになった。
 事業で得た貯金が相当あったが、負債のほうが若干、多かった。
 そこで自宅と家財道具一式を処分して負債を清算し、余った額が、僕に残された財産になった。
 そして僕は中学校を卒業して全寮制の学園に入るまで、親戚の家を転々とする日々を送っていた。
「ごめん……ちょっと、そこは止めて欲しい」
 僕は言ったが、その近くの温泉街に行く途中で、ちょっとだけ立ち寄るだけです。リキが嫌って言ったらすぐに出るですから、とクドに押し切られてしまった。

 結局、僕は特急を途中下車して、故郷の町に降り立ってしまった。
 海沿いの寂しい地方都市。クドに案内する観光名所・名刹なんてなにひとつない、この国のどこにでもある、平均的な町。
 僕の家があった場所には、違う民家が立っていた。
 それから、家の近くの遊び場や、僕が通った小学校を案内すると、ほかにはもう、どこへも行くところがなくなってしまった。
 近くの定食屋でごはんを食べてから帰ろうとしたところ、偶然、学校の同級生がそこで働いていた。
 というより、そこは同級生の実家で、調理師の専門学校を卒業後、この定食屋を継いでいたのだ。
 それからふたりで小一時間、小さい頃の思い出話をして、それぞれの住所と電話番号を交換して店を後にした。
 久しぶりに見たです、リキの嬉しそうな顔。とクドは僕に言った。
 なんとなく気持ちも晴れて、故郷に戻るのも悪くないな、と思えた。

「……たしかに、リキも幼なじみと会えたです」
「クドだってテヴアに長く住んでいたんでしょ? きっとクドも忘れてる、大切な場所があるはずだよ」
「そうでしょうか……」
「飛行機代がずいぶんかかると思うけど、お金ならこれだけあるし」
 僕は机の上の貴重品入れから銀行の通帳を取り出して、クドに見せた。
 通帳の残高は、最近になって6桁から7桁に変わっていた。
「これって…」
「僕の両親が残してくれた遺産。まだ少しだけだけど残ってるんだよ」
 20歳になって、僕は後見人から親の遺産を引き継いだ。
 僕は奨学制度を使って大学に通っているので、学費の心配はない。
 生活費やここの家賃は、家庭教師などのアルバイトで賄っている。
 それでも、どうしてもお金が足りない時だけ、このお金を少しづつ使っていた。
「もしかしたら、このお金を使って……ですか?」
「うん」
「ダメですっ」
 クドが僕に詰め寄って、訴える。
「そのお金を使ったら、リキのおとうさんとおかあさんが、いなくなっちゃうですっ」
「大丈夫だよ、クド」
「だいじょうぶじゃないですっ」
「両親には、もうずいぶん助けてもらったよ。このお金があったから、僕も高校・大学と進学できたし、今までこうやって生活できたから」
「それに、このお金を使わなかったら、両親も悲しむと思うんだ」
「……えっ?」
 クドが紅潮させた顔のまま、動きを止める。
「僕がちゃんと生きていけるように残してくれたのに、それを必要な時に使わなかったら、なんのために残したんだ、って父さんも母さんも、悲しむと思うんだ」
「きっと父さんも母さんも、許してくれるよ。このお金を使うのも」
「どうしてですか…?」
「だって、結婚する人のご両親に会いに行くんだもの」
 僕は、思っている事をそのまま口にした。
「……………!」
 クドが顔を赤らめて、首をすくめる。

 それは僕が、前々から言い続けてきた事だった。
 いつか、クドと結婚したい。
 それは宇宙飛行士になってからでもいいし、その手前の、どこかで区切りがついたら、でもいい。
 そして、クドも言っていた。
 いつか全部問題が解決したら、私は日本に帰化します。そうしたらリキ、私をもらってくださいです、と。
 帰化してから名乗る、日本名も決めていた。

   『直枝 聡美』

 この名前には、由来がある。
 修学旅行のバス転落事故の後、ニュースを聞きつけたクドの祖母が、クドが入院している病院を訪れた。
 クドの祖父は東ヨーロッパの小国生まれだったが、そこで日本人の祖母と出会い、結婚した。
 しかしその国が連邦国家に併合され、厳寒地への強制移住が始まると、ふたりは離婚し、祖母を日本に帰した。
 この先西側諸国と東側諸国。どちらが趨勢を握るとしても、自分達の子供──つまり、クドの母親──が生きていけるように、と。
 それからもふたりは手紙のやり取りを頻繁に行っていて、クドが生まれてからは『日本式の教育を受けさせたい』という祖父の要望で、祖母を通じて日本の教材を送ってもらっていたらしい。
 そんなクドの祖母が、宇宙工学の難しい本を読んでいるクドを見て、こう言った。
『ずいぶん難しい本を読んでるのねぇ…。それなら『聡明』の『聡』の字をとって、『聡子』なんて、どうかしら』
 クドリャフカという名前は呼びにくいから、と日本の名前を考えてくれたのだ。
 結局クドは、祖母から貰った『聡』の字に『美』を付け、『聡美』という名前に決めた。
 僕は「聡美だと、名字の『能美』にも『美』って字があるから、かぶっちゃうよ?」と言ったが、クドはとっても晴れ晴れとした笑顔で、僕に向かってはにかんで見せた。
 今思えば、その表情は「リキと結婚すれば、問題ないのです」と言っていたように感じられた。

「……ごめんなさいです、リキ」
 それなのにクドは、僕に謝罪の言葉を向けた。
 真意をはかりかねた僕は、クドの次の言葉を、真顔で待つ。
「私は、航空券を買わなくても、いいのです」
「……えっ?」
 僕の頭の中が、一瞬、真空になった。
「私は希望すれば、年に1回だけですけど、テヴア行きの往復航空券を貰えるのです」
「え!………そうなの?」
 初耳だった。
「はい。リキ」
「私がテヴア政府と、オーシャンランチ社から、毎月見舞金を貰ってることは、知っているですよね」
「うん」
 6年前のロケット打ち上げ失敗に端を発した暴動に巻き込まれ、クドは両親と祖父を、いっぺんに亡くしてしまった。
 そのお詫びとして、テヴア政府と、打ち上げを計画したオーシャンランチ・コーポレーションから毎月、見舞金を貰っていた。
「それ以外にも私は、テヴアに行く際に航空券を貰うことができるのです」
「年に1回、だけですけど」
「ただ、私が希望しなかったので、今まで1回も航空券を貰わなかっただけです」
「そうだったんだ……」
 全身の力が抜けていく。だったらこんなに働かなくても、よかったんだ…。
「だからリキ、テヴア、行きましょう」
 クドは僕に向き直り、そう言ってくれた。
「リキの分も、私からオーシャンランチ社にかけあって、航空券がもらえるかどうかやってみるです」
「いやいや、そこまでは……」
 それでも、さすがにそれは図々しすぎると思った。
「ですから」
 クドが顔を近づけて、僕の瞳を覗き込む。
「リキのおとうさんとおかあさんのお金は、私達の結婚資金に、とっておいてくださいです」
「そのお金が結婚資金に使われれば、リキのおとうさんとおかあさんに、私達の仲を認められた気分になれるですから」
 そこまで言うと、クドは顔を真っ赤にして、わふーっ、恥ずかしいことを言ってしまいましたっ、と歓声をあげながら自分の部屋へと戻っていった。


 結局、僕もオーシャンランチ社から航空券を手配してもらい、1週間の予定でテヴアに滞在することになった。
 テヴアとロシアの二重国籍を持つクドは、両方のパスポートを持っていたけれど、僕は初めての海外だったので、まずはパスポートの申請を行った。
 電車を乗り継いでパスポートセンターに行き、旅券発行の手続きを行う。
 そのまま東京まで出向き、旅に必要なものを揃える。
 現地の宿を予約するのに、電子メールを使おうか、と思ったが、多分それだと見てくれない事が多いですから、電話しましょう、とクドが言った。
 国際電話をかけるのもままならない僕を尻目に、何も見ずにクドは番号を打ち込む。
 十数秒の空白の後、クドはいきなり聞いたこともない言語を、流れるように繰り出した。
 テヴア語、テヴア共和国に所属する島々が使う言語らしい。
「数年ぶりに使いましたですから、ちょっとつっかえちゃいました」
 と言って、クドはあはは、と軽く笑った。
「クド、すごいね…」
 僕は久しぶりに、クドの知らない力に驚嘆した。

 そして出発の日。
 日本最大の電気街へ向かう直通電車に乗り、そこから成田空港を目指す。
 搭乗手続きを済ませて、夜、僕達は機上の人となった。
 ここから乗り換え空港まで、8時間のフライト。到着は現地時間の早朝。さらにそこから4時間で、テヴアにたどり着く。
 僕達は機内の照明が消えるまで、本を読んだり、音楽を聴いたりしていたが、消灯後はアイマスクとネックピローを身に付けて、眠りに入った。
 でも僕は、なかなか寝付けなかった。初めての海外旅行に興奮していたというのもあるが、これから向かうテヴアでの日々に、期待がふくらんでいた。
 頭の中で、クドと過ごした6年間の思い出が浮かぶ。

 初めて会って、学校を案内した時のこと。
 リトルバスターズの中では、いつもいじられ役だったこと。
 大晦日の家庭科部室で交わした『ずっと一緒にいる』約束。
 時折見せるクドの能力に、みんなが驚いている姿。そしてそんなクドを誇らしく思えたこと。
 クドと頑張った受験勉強。
 結局、国公立で論述問題が多く、JAXA(宇宙航空研究開発機構)も近くにある、この大学に決めたこと。
 一緒に部屋を決めて、住み始めた時のこと。
 大学で出来た、さまざまな人々とのつながり。
 サークルに入って、琵琶湖まで手作りの人力飛行機を飛ばしにいったこともあった。
 散り散りになっても月に一回は集まり続けた、リトルバスターズという絆。
 大変だった勉強。卓袱台(クドの趣味だ)を囲んで、何度も夜遅くまで課題に取り組んだ。
 アルバイトとの両立も大変だったが、ゼミに入ってからの課題は過酷を極めた。

 今思えば、そのころから僕達の関係は、おかしくなり始めたのかもしれない。

 それまでひとつの部屋で勉強していた僕とクドは、課題に集中するために、互いに個室を作る事にした。
 たしかに、勉強は捗るようになった。
 それと同時に、僕は家庭教師のバイトをもうひとつ増やした。
 結果、家に帰る時間がずっと遅くなり、クドと顔を合わせる機会が、激減した。
 一日中顔を合わせずに、過ごした時もある。

 でも、もうバイトを増やす必要もない。だから今度からはもっとたくさん、クドと一緒にいるようにしよう。
 だからこの旅を、思いっきり楽しもう。
 僕はこれから始まる、クドとの楽しい時間を思い浮かべながら、目を閉じて眠りについた。



     『そういえば、理樹』
     『なに?』
     『能美の件だが、大丈夫なのか? 就職試験に落ちてからずいぶんふさぎこんでるって聞いたが』
     『うん。今は落ち着いてる』
     『そうか…』
     『恭介、というよりも、もう僕達ふたりで乗り越えたから』
     『……?』
     『もう、心配しないでもいいよ』
     『ありがとう、恭介』
     『理樹……おまえ、まさか………』
     『うん』



 下降する感覚。
「リキ」
 声が、聞こえる。
「リキ、そろそろ到着しますよ」
 寝ぼけた手つきでアイマスクを外し、声のするほうを見る。
「……ん?」
 心安らぐ笑顔が、僕に語りかけてくれていた。
「そろそろ準備してください。到着しますよ」
「…あ、うん…クド、おはよう…」
「おはようございます、リキ」
 そこまで言葉を交わした時点で、僕の体に毛布がかけられていることに、気づいた。
「あれ? この毛布…」
「機内サービスをお願いしました。空の上はずいぶん冷えるですから」
 全然、気がつかなかった。
「ああ……ありがとう」
 僕は軽く顔をこすって意識を取り戻すと、アイマスクとネックピローを外して立ち上がる。
 頭上の荷物入れから、僕とクドのリュックを取り出した。
「はい、クド」
 クドの分を渡す。
「恐れ入りますです」
 僕は身の周りのものをリュックにしまうと、クドのそれと一緒に、再び荷物入れに戻した。
 そして着陸態勢に入る飛行機は、乗客にシートベルトをつけるよう、指示を出した。

 滑走路は一本だけ。
 建物は公民館くらいの大きさのものが、ひとつだけ。
 しかも空港のすぐ隣には、道一本隔てて民家が立ち並んでいた。
 乗り継ぎで一度降りた国際空港は、まだ地方の空港ぐらいの大きさだったものの、ここはまさに「飛行場」レベルの設備しかなかった。
 それでもここが、テヴア最大の国際空港、ビナリキ国際空港だった。

 乗り継ぎで降りた空港は、まだ夜明け前だというのもあったが、それほど暑くなかった。
 でも、ここは……これがさほど時間がたってない、同じ地球の上なのか、と思うくらい暑かった。
 クドはTシャツとチノパンの上から、いつもの帽子とマントを身に着けていた。
 僕も念の為、Tシャツとジーンズ以外に、長袖のYシャツを羽織ってはいたが、飛行機を出てから、テヴアの地に足を降ろす十数秒の間に、脱いだ。
「クド……よく着てられるね」
 Tシャツを小脇に抱えて、熱気が跳ね返るアスファルトの上を歩きながら、クドに言った。
 外界は完全に、真夏の空気だった。
「私の場合は日焼け防止のため、でもあるのです」
 確かにクドは太陽の光に長く当たると、焼けずに肌が赤く腫れ上がってしまう。
 僕は目を凝らして、陽炎に揺れる空港の建物あたりを見る。 
「大使館の人が、待っててくれるんだよね」
「はい。多分あそこに……あ、いたです」
 白の開襟シャツにスラックスを履いた、恰幅の良い人が、胸の前で紙を広げて、待っていた。
  [ TI KAREREI AMI IEIN! RIKI v KUTRATKA ]
「僕の名前が書いてあるね……その後は……?」
「私の名前です。テヴア語だと私の名前は『クトラツカ』に……わ、わふーっ!」
 クドがあわてて、とててて、と走りだす。
 そして大使館員の前にたどりつくと、手に持った紙にわたわたと手をかけ、それを無理やり、折り曲げさせた。
 何か見られると困ることでも、書いてあったんだろうか。
「どうしたのクド!?」
「Ti tuai-n iein!」
 両手をぱたぱたさせながら、顔を真赤にしてクドは大使館員に言った。
 それを聞いた大使館員は大笑いしながら「I mango, I mango.」と言いいながら、クドの頭を撫でようとしたが、クドはそれも振り払って、続けた。
「Tai angabee i tei!」
 僕はわけがわからず、ふたりの姿を呆然としながら見るばかりだった。

「ないすとぅーみーちゅー、みすたー・なおえ。まいねーむいずぱうろ。ぷりーずこーるみーあずぽーる」
 車に乗る前、大使館に勤めるパウロさんが、僕にあいさつをしてきた。
 流暢とはいえないけど、日本人にわかりやすい英語だな、と思った。
「Hello, Mr.Paulo. We are excited to be in Tebwa very much.」
 僕もクドと一緒に習っていた英会話を駆使して、パウロさんに語りかける。
 何かあったら気軽に言ってください。できることならいろいろ、手配しますから。と言ってくれた。
 それから僕たちは係員から手荷物を受け取ってから入国手続きを済ませ、大使館が出してくれたワンボックスカーに乗って、ホテルを目指して移動を始めた。
 まず驚いたのが、テヴアの道は舗装されていない、土煙が舞う道路だったこと。
 そしてその移動速度は、おそろしく遅かった。
「人と並んで走る車ですから、あまり早くは運転できないのです。ぶつかったらいけないですから」
 クドがそう、説明してくれた。
 到着してしまえば何てことはない。クドの表情がそう語っていた。
「そうなんだ…」
 そのあとで、僕もクドに聞いてみた。
「なんでパウロさんに会った時、いきなり走り出したの?」
「…しらないですっ」
 クドは顔を真っ赤にして、結局僕の質問には答えてくれなかった。

       * * * * * *

 テヴアで一番大きなホテルに通された私たちは、リキと一緒に部屋へ向かいました。
 実は私も、ここに泊まるのは初めてでした。いつもは外国人が滞在するゲストハウスにいることが多かったのです。
 部屋数は約50。日本の観光ホテルと比べると小さいですが、テヴアの規模では、これだけあれば十分でした。
 リキが部屋の鍵を開けます。
 そして、リキが先に入っていくと、途中で足が止まりました。
 どうしたですか、といいながら私も後を追うと、私もあまりの光景に、体が凍りつきました。
 というのも、その先に……ダブルベッドがあったからなのです。

 リキと一緒に暮らし始めて、もう4年経ちますが、いまでもリキとひとつのベッドにいると、恥ずかしくてたまりません。
 リキの体温、リキの息遣い、リキの男の人独特の匂い……思い出すだけで、ああっ、もうっ! ってなってしまいます。
「……クド、どうする?」
 リキが聞いてきました。
 でもこのベッドは幅が相当あり、これなら互いの体が触れ合わないだけ、まだドキドキしないで済むかも知れません。
「…リキが」
 だから私は、リキに答えました。でも恥ずかしかったので、小さな声で。
「……リキがいいなら、私も、いいです」
「……うん、うん。旅にはこういうトラブルはつきものだし、ねっ! …ね、クド」
 リキが私に、慌てて言いました。
 きっと、リキも私と同じで、恥ずかしいのでしょう。その姿が何となくおかしくて、それで緊張が解けました。
「リキ、汗、流しますか?」
 部屋には、テヴアの一般住宅には珍しい、シャワーが備え付けられていました。
 テヴアで水は貴重品です。おそらく雨水か、もしかしたら自家蒸留した水を使っているか。
 いずれにせよ、あまりシャワーの出は良くないでしょう、と思いました。
「僕は大丈夫だよ。シャワー使うなら、クドから先にどうぞ」
「では、先に使わせてもらいますです」
「僕はホテルの近くを散策してるから、少ししたら戻るよ」
「はいっ」
 そういって、リキは部屋を出て行きました。

 リキが部屋を出たのを見計らって、私はパウロさんの携帯電話に電話をかけました。
 "Ko na mauri. Kutratka taetae. Mr.Bauro iai?"(もしもし?クドリャフカです。パウロさんですか?)
 "Mauri, Kutratka. Bauro taetae. I aera?"(こんにちわ。クドリャフカさん。パウロです。どうしました?)
 "Ti a tauraoi wawaea Baraba?"(明日、バラバへ行く件ですけれど、準備はできましたか?)
 "Aia, I tauraoi kaibuke. itingaro onako, ti kona roko ngaina."(大丈夫です。船も用意できました。明日朝早く出発すれば、間に合います。)
 "I mango. Ko raba."(すみません。ありがとうございます)

 私がずっとテヴアに行きたくなかったのは、今でもなぜなのか、よく分かっていません。
 ただただ、怖い、というイメージがこびりついて、離れなくなっていました。
 思い出の場所も、好きだった店も、風景も、もちろんたくさんあります。でも近づきたくなかったのです。
 それでも、リキのふるさとには以前、行きましたから、それを言われると断れなくなってしまいました。
 旅費だって、リキとおとうさんとおかあさんの思い出を削って行くのは、気が引けます。

 でも、もしテヴアに行くなら、おかあさんとおとうさん、おじい様の墓参りにには、絶対に行こうと思っていました。
 できの悪い娘ですが、リキのおかげでどうにか、ここまで来る事が出来ました。
 どうか安心して、眠りについてくださいです。と報告したかったです。

 テヴアに来る前に、パウロさんにお願いをして、モーターボートを手配してもらいました。
 でも、片道丸一日かかる道程ですから、どうしてもバラバ島で一泊する必要があります。
 現地での交渉もパウロさんがやってくれますが、うまくいかない場合もあるかもしれません、と言っていました。
 いくつかインスタントの食料も持ってきましたから、最悪、それを食べて、外国人地域の廃墟の中で、寝ることもできるでしょう。
 申し訳ありませんが明日の早朝に港にいきますので、お願いします、とパウロさんに言って、電話を切りました。

 それから、頭にタオルを巻いて髪を包み込んでから、体の汗をシャワーで落としましたが、日本と変わらないお湯の出かたに驚きました。
 私が子供の頃に住んでいたゲストハウスでは、チョロチョロとしか出なかったのに。さすがテヴア最大のホテルなのです。

       * * * * * *

 クドは初め、言っていた。
「私は普段、海外からのゲストが住む地域にしか住んでいなかったですから、案内できるところなんて、何もないですよ」と。
 それでも、普段と違う風景の中を歩くことで、ああ、この空気の中でクドが生きてきたんだなぁ、と思う。
 白土で塗られた壁、板葺きの屋根、原色のペンキをそのまま塗りたくっただけの壁や、手書きの看板。
 クドと僕は、いくつもの島を貫くメインストリートを、ぶらぶらと歩いていた。
「やっぱり、日差しが強いね」
「テヴアは一年中、こんな感じですから。だから日本の四季にはとっても憧れていました」
「でも雨季とか乾季って、あるんじゃないの?」
「ないですよ。それはインドネシアとかオーストラリアの北のほうです」
「そっか……それはサバナ気候だっけ?」
「はい。中学で習いませんでしたですか? ケッペンの気候区分」
 記憶をたどってみたが、習ったのは高校1年、地理の授業だった。
 それから話題は、クドがどういうふうに勉強をしてきたのか、ということや、僕を受け持った担任達の事に変わっていった。
 青い空、白い雲、白い砂浜。そして生い茂るマングローブの木々。
 そんなふうにクドと話をしていて、ひとつ気づいたことがあった。
 世界中のどんな場所でも、クドと一緒なら楽しくいられる、ということを。

「あ」
 クドが短く声を上げた。
「雑貨屋さん?」
 道端の建物には、何に使うのかもわからない、色とりどりのものが並んでいた。
「はい。私がお出かけするときは、いつもここでしたから」
 今よりももっと小さい、そして幼い容貌のクドが、物珍しそうに何時間でも店のものを眺めている姿が、目に浮かんだ。
「もしかしたら、誰かクドのことを覚えている人が、いるかもしれないね」
「でも、もう何年も前のことですから…」
「そういえば、クドはテヴア語がわかるんだよね?」
「はい」
「こういうところで、覚えたの?」
「あ…そうかもしれないです。同じくらいの子供と遊んだり、近くに住んでいる方にごはんをごちそうになったりして、そこで少しずつ」
「でも、ロシア語や日本語ほどは上手に喋れないです。たぶん英語よりも、うまくないかもしれないです」
 何年も勉強して、少しづつ上手になってきたクドの英語だが、それでもカタカナ英語はまだまだ直らない。
 でも、僕にはテヴアの現地語が全くわからないから、それだけでもクドはすごいと思う。
 "Awaka!"
「んっ?」
 僕は顔を上げる。
 恰幅の良い現地の女性が、子供を片手に抱きかかえ、もう片手で子供の手を引き、その周りに数人の子供を従えていた。
「ろじーな!」
 クドが驚いた、でも嬉しさを湛えた表情で言葉を返す。
 "Kut... Kutratka!? Mauri! Akea ni man!"(クド…クドリャフカちゃん!? まぁ、ずいぶん久しぶり!)
 そういいながら、女性はクドに体をぶつけてきた。
 いや、本当は抱きしめたかったのだろう。でも両手がふさがっていたから、ぶつかる格好になってしまったが。
「わふーっ! い・くくれい・こーぼー・まんが!」
 "I kukurei ko bo manga naba! bo taetae buakaka tebwan."(私もまた会えて嬉しいわよ。相変わらずひどいテヴア語ね…)
 クドはその女性のおなかにすがりつくように、何度も顔をこすりつけていた。

 その日、僕たちは思わぬ歓待を受けた。
 少しとまどったが、クドの「テヴアの人たちは、自分達がたとえ外で寝ることになっても、客をもてなすのです」という話を聞いて、僕もその好意に甘えることにした。
 ただ、とにかく量が多かった。細長い外国米を甘く炊いて、その上にマーガリンをかけた物や、ココナッツミルクのジュース、何かの実を薄く切って焼いたもの(さつまいものような味がした)、インスタントラーメンの麺にスープの粉末をかけたものまで出た。
 僕もクドもすぐ食べられなくなってしまったが、ロジーナさんの家族はしきりに"Amarake"と言って来る。
「クド、なんて言ってるの?」
「『もっと食べろ』って言ってるです…。とりあえずリキ、『あまらけ・らおい』という言葉が『もう十分です』という意味なのですが、たぶん許してもらえないです…。」
「クドが懐かしい人に会えたのはいいんだけど、大変なことになっちゃったね」
「ごめんなさいです…。」
「ううん、ホテルに戻ったらゆっくり休もう。胃薬も持ってきてるから」

 結局、ロジーナさんの家から解放された頃には、外はすっかり茜色に染まっていた。
「急がないと、太陽が沈んじゃうですよ」
「街灯も、なさそうだしね」
「でもおなかいっぱいで、走るのは無理なのです…」
「僕も…」
 結局、僕達はぽっこり膨らんだお腹をさすりながら、ホテルへと帰り着いたのだった。

       * * * * * *

「…リキ」
「ん?」
 すっかり日も沈み、することもなくなってしまった私達は、ホテルのベッドの上で、天井を見上げていました。
「明日からの、ことですけど」
「うん」
「是非行きたいところが、あるんです」
「うん」
「でもそこは、とっても遠いのです」
「どのくらい?」
「片道、モーターボートで丸一日」
「うぉ…」
 リキが息を呑む声が、聞こえました。
 夜明けと同時に出発すれば、日があるうちには到着できるはずですが、それでも長い距離でした。
「リキは船酔いとか、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫……だと思う。僕たちふたりで高速バスに何時間も乗った事もあるじゃない」
 大学受験の時に、私達は深夜バスを使って、大学そばの町まで行った事があります。
 そのときは二人掛けのシートにリキと並んで座って、目が覚めたらリキの膝の上で寝ていました。
「わふっ…」
 それを思い出したら、恥ずかしくなってしまいました。
「長い時間ボートに乗ったことはないけど、たぶん大丈夫じゃないかと思う」
「ありがとうございます…」
「でも、そこに何があるの?」
「おとうさんと、おかあさん…それと、おじい様のお墓です」
「えっ…」
 バラバ島は元来、燐鉱石の鉱山でした。
 今では資源も枯渇してしまいましたが、元々住んでいた人々がわずかに残っています。
「なんで、そんな離れた島に…?」
「テヴア人の慰霊碑は、この諸島の中にあるのです」
「でも、外国人をまとめて慰霊するのに反対する人が少なくなかったので、元々外国人の墓も多い、バラバ島に祀ることになったのです」
「そうだったんだ……」
 私はリキのほうへ体を向けて、リキの横顔をのぞきこみました。
 複雑な表情を、していました。
「事情がいろいろ、あったんだろうけど…」
 搾り出すように、リキは言いました。
 何もそんな、離れた所に祀らなくてもいいじゃないか、と言っているように見えました。
「リキ」
 そんなリキの手を、私は両手で包み込みました。
「いっしょに、きてください」
「もしテヴアに来ることができたら、そこへ行くつもりでした」
 リキは私の問いかけに答える代わりに、私を抱きしめてくれました。
「いいよ」
 いつものリキの、優しい、優しい声。
「僕はクドと、ずっといっしょにいるから」
 そのあと自然に、私達はお互いを重ね合わせました。

 でも、今回も駄目でした。
 毎回、どこか知らない所から湧き上がってくる、恐怖の感情。それが私に、襲い掛かります。
 このテヴアの空気なら。きっと私が慣れ親しんだ場所だったら、リキとひとつに、なれると思ったのに。
 それでも私は、いつものようにリキを迎え入れようと、必死でこらえ続けました。

       * * * * * *

 クドの呼吸が乱れる。
 それは気持ちよさに我を忘れているそれではなく、恐怖から来る、深くて早いものだった。
「クド」
 意識をこちらに向かせるために、声をかける。
「だいじょうぶ、ですっ」
「だいじょうぶ、ですから…」
「せっかくここまで、来れたですから…」
 いつものように、クドは強がって、大丈夫なフリをしていた。
 でも、このあとを無理に進めてしまえば、間違いなくクドが過呼吸を起こして、苦しみだす。
 かといって、このままあっさり身をひいてしまえば、クドが自責の念に駆られ、落ち込む。
 だから僕はいつものように、クドとひとつになる一歩手前で行きつ戻りつを繰り返した後で、やっぱり駄目だよ、と身を退いた。

 初めてクドとベッドの中で体を重ねあわそうとしてから、ずっとこんな状態が続いていた。
 ひとつになろう、とすると、途端にクドの呼吸が乱れ、原因不明の恐怖心を覚え、震えだす。
 クドはその、どこから来るのかわからない感情に必死に抗おうとするのだが、いつも負けてしまう。
 いやです、怖いです、たすけて、たすけてたすけてたすけてたすけて……と、そんなうわ言をつぶやきながら、それでも無理に進めようとすると、最悪、全身を硬直させて抵抗した後で、泡を吹いて失神してしまう。
 初めのうちは、この行為に対する恐怖心から来ているのだと思った。
 でも、クドが言うにはそうではないらしい。
『リキと一緒になれるのはとっても嬉しいですし、そのためなら、ちょっとくらい痛いのだって我慢できます、でも…』
 クド自信にも、わからないらしい。この恐怖感がどこから来ているのか、が。

 ひとつになれない自分の体を、クドは何度も呪った。
 リキがだいすきなのに、リキの全部がほしいのに、どうしてできないですかっ、と嘆いたし、泣き叫びもした。
 それでも僕はずっとクドが好きだったし、これくらいのことで嫌いになったりはしない。
 逆に、そんなクドに何もできない自分が、たまらなく情けなかった。
 ただ、それだけだった。

 携帯電話のアラームを設定してから部屋の照明を落とし、僕はふたたびベッドに入った。
 僕のほうを向いて、小さくなって眠るクド。
 その背中に流れる長い髪を撫で続けながら、僕は祈った。

 せめて夢の中では、僕達がひとつになれますように、と。

       * * * * * *

 私は私で、分からないなりに、何が原因でこんなに怖いのかを、突き止めようとしていました。
 手がかりになるのは、私の中に残る、夜毎私に襲い掛かる、見たこともない風景──────

   ────大勢の人が私に向けて放つ、怨瑳の声
   ────破られるドア
   ────真っ暗な中、足元には海水
   ────吊り上げられた左腕
   ────砕け散る、錆びた鎖

 夢日記をつける、と言ってそんなイメージを書き記したことがありました。
 それがテヴアだとしたらどこになるのか、と考えると、やはりバラバ島しかありません。
 というのも、テヴアは数多くの環礁群でできている為、一番高い所でも標高が4〜5mしかありません。
 ただひとつの例外、バラバ島を除いては。

   ────テヴア式の内装に、豪華な調度品
   ────私は受話器を握り締めて、泣きながら叫んでいる
   ────マントひとつで洞窟に残された私
   ────もう、帰ることはできないと、思っていた
   ────絶望の中で聞こえた、声、そして思い
   ────その思いが距離を越えて、私を解放してくれた

 いつもと違う夢を、私は見ていました。
 前よりももっと鮮明な、確実な夢を。
 でもそれは断片的なものでしかなく、どういう状況でそうなっているのか、があと少しで分かりそうな気がしました。



       『おまえら、呼び方変えたのか?』
       『なに? 真人』
       『おまえクー公のことをさっき、クーニャンって言ってたじゃんか』
       『ほう、理樹君にそんな趣味があったとはおねーさん驚きだな』
       『? 来ヶ谷さん?』
       『北京語でクーニャンと言えば「姑娘」と書いて生娘のことだろう』
       『チャイナドレス姿のクドリャフカ君……うむ、十分アリだ……ハァハァ』
       『だから来ヶ谷さんクーニャンじゃなくてクーニャ、クーニャだから。ロシアでの愛称だからっ』
       『直枝理樹ほっときなさい。平常運転の来ヶ谷さんよ。何を言っても無駄』
       『姉御は一度妄想しだしたら止まりませんからネ』
       『二木さん、来ヶ谷さんの隣が誰だか知ってて言ってるの!?』
       『あっ……』
       『クドリャフカ君、理樹君にだけずるいぞ、おねーさんにもチャイナドレス姿を披露しなさい』
       『あの…リーニャにも見せたことないですし、それに着た事もないですし…』
       『といいますか、そんなにおっぱいを私の顔に押し付けないでくださいです…くるしいです…』
       『来ヶ谷さん! クドリャフカから離れなさい』
       『ほう、私がせっかくクドリャフカ君で遊んでるのに、邪魔をするというのか、いいだろう…』
       『クドリャフカは私のものよ。来ヶ谷さん』
       『私はモノじゃないです…』

       『おい謙吾、くるがやとふたきが、すごいバトルをくりひろげてるぞ。あたしはどっちの肩を持ったらいいんだ?』
       『うん? 何だあいつら、また能美の取り合いか。理樹も大変だな…』
       『宮沢さん、鈴さん、ほっときましょう。終わるまで誰も手を出せませんから』
       『クーニャに危害が加わらなければ、それでいいよ、もう……はぁ…』



 5時にセットした携帯電話のアラームが鳴り響く。
 僕は腕をわたわたさせて携帯電話を取り上げると、アラームを止め、クドを揺り起こす。
 僕は顔を洗って、寝る前に用意していた服に着替え、部屋の外からロビーに出る。
 さすがにこの時間に起きてくる人は、誰もいないらしい。
 部屋に戻ると、クドも身支度を終えていた。
 お気に入りの白いワンピースに大きな麦藁帽子。現地のおみやげを詰めたキャリーケースも昨日のうちに準備している。
「行きましょう、リキ」
「うん」

 一旦ホテルのチェックアウトを済ませ、荷物を預かってもらう。
 外に出ると、パウロさんが車をつけて、待ってくれていた。
「Mauri, Pauro.」
 クドがテヴア語であいさつする。僕もそれに倣う。
 車で港まで、案内してもらえるらしい。さっそく乗り込んだ。
「ところで、誰が船を運転するの?」
「運転してくださる方を、別に用意していただけるそうです」
「なんか、こんなに用意してもらって、悪いよ……」
 僕が聞いた話だと、数ヶ月に一回しか定期便が航行しないらしいが、それもいつ出るか全く分からないらしい。
 確かに船をチャーターすれば早く着けるけど、いったいどうやってこれだけのものを用意したんだろう…。
「うぃーわんとぅーどぅさむしんぐあぽろじゃいずふぉーはー(彼女に、お詫びがしたいんです)
 そーうぃーぷりぺあーさむしんぐしーわんとぅー(ですから、我々でできる範囲のことはやります)」
 パウロさんが口を挟む。
 いや、でも、と言いたかった。けどパウロさんは続けた。
「いっつあうぁねいしょんずでぃしじょん(これは、テヴア共和国の決定なのです)」
 えっ、と僕は固まる。
「そーぜあーずのーりーずんとぅーえにーへじてーと(ですから、遠慮する必要は全くありません)」
「初めは私も、遠慮はしたのですが…」
 クドが後ろから話し始める。
「そのために特別に予算を組んでまで、私を待っていたらしいんです」
「確かに、テヴアの人々は『自分が外で寝ることになっても、客をもてなす』性質だと聞いていましたですが」
 昨日、ロジーナさんの家で聞いた事を、クドはもう一度言った。
「まさか国までそのとおりだとは、思わなかったです…」
「テヴアは独立間もない国だからね。そういうものなのかもしれないよ」
 パウロさんがこっちを見ていたので、僕は話していた事をそのまま伝えた。
「We talked each other that peoples lived in Tebwa is almost very kind. even if it's a level of the Nation.
 (テヴアの人々は、とっても優しくて、それは国家単位でもそうなんですね、って話をしていたんですよ)」
 というと、パウロさんはちょっと複雑な表情を浮かべたあとで、親指を立てて、言った。
「いえす。いっつぁうぇいおぶ・てぶあん(そうです。それが、テヴア流のやりかたなのです)」

 パウロさんの案内で、港に停泊していたモーターボートに乗り込む。
 船の持ち主、マイカレさんにふたりであいさつをする。
 パウロさんとマイカレさん、クドの3人がなにやら話をしている。
 "Awaka, tika rerei uora taba!"(あれま、いぎなりめんこい女の子達でねえか)
 "Maikare, Ti a taba ao ataei."(マイカレさん、女の子と男の子ですよ)
 パウロさんとマイカレさんがそう言葉を交わすと、3人とも大笑いした。
 唯一テヴア語がわからない僕は、三人の会話を、首をひねりながら見るばかりだった。
 
 太陽に背を向けて、海の上を飛び跳ねていくモーターボートと、4人。
 想像以上のスピードを出す舟に、僕は早くも気分が悪くなりはじめた。
 遠くを見れば、あまり酔わないですよ。とクドに教えてもらい、僕は船室にこもることにした。
 それからはクドと他愛のない話をしたり、少し余裕が出たら外を見たりしたが、じきに話すことも、することも無くなってしまった。
 バッグの中に入れていた本を読もうとしたが、すぐに挫折した。揺れてまともに読めやしない。
 手持ちぶさたな僕を見かねたのか、パウロさんが僕に話しかけてきた。
「きゃないとーくあばうとてぶあ、ふぉーゆー?」
 それからパウロさんは、僕にテヴアの事をいろいろ教えてくれた。

 テヴアの歴史は、外国人による蹂躙の歴史そのものだった。
 太平洋を征服した海洋国家の事。その後入れ替わってやってきた社会主義国家の事。独立を果たしたと思いきや訪れた誤算。
「うぇんうぃーあちーぶどふぉーいんでぃぺんでんすふろむゆにおん(私達が連邦国家から独立を果たしたときに)
 まてりあるずいんばらばあいらんどわずこんぷりーとりーいぐぞーすてっど(バラバ島の資源は完全に枯渇してしまったのです)」
 それゆえ、今は残された宇宙施設を国営にして、それを民間企業や大国に貸すことで、国家運営の資金源にしていた。
 でも、ひとつ問題があった。
 テヴアは独立間もない国家。それゆえ、多数のオブザーバー的立場の人間が、国家運営に口出しをしていた。
 そのため、テヴアの歳入の一部がコンサルタント料と称して、オブザーバーに吸い上げられてしまっている。
 だからいつまでも宇宙施設の貸与収入は、国民に十分な還元がされず、島に点在する『長老会』は、政府に対する不満を募らせていた。

   あのような物があるから、我々の生活は一向に良くならないのだ。
   あのロケットを壊して、我々の生活を取り戻そうじゃないか。
   立ち上がろう。テヴアの住民として。

 そんな声が、島民のあちこちからあがってきていた(中には極左団体の煽動活動も混じっているらしいが)。
 しかし長老会も分かっていた。

   ロケットは私達の生活を邪魔もするが、無ければ無いで困ることもたくさんある。
   島の外から入り込んでくる便利なもの。それはロケットがここにあるから手に入る。
   ロケットがなくなってしまえば、その便利なものも入ってこなくなる。
   魚と、パンの木だけの生活に、逆戻りだ。
   それでもいいのか。

 と長老は島民を諭すのだが、それで簡単に引き下がるわけもない。
 結局、暴動が起きてからは、テヴア政府も国民の税金を軽減したり、さまざまな援助を行うようになったのだが、それがどこまでわれわれの生活を改善できるのか……と言ってパウロさんは肩をすくめてみせた。

 その間、クドは僕達のほうをにこやかに見ていたかと思うと、突然真剣な表情で、考え込んだり、を繰り返していた。
 そんなクドに、たまに「どうしたの?」と話しかけたが、その時だけは「あ、すみません」といってこっちを見てくれた。
 でも少しするとまた考え込み始めてしまう。
 陽が傾いてからは、すっかり話しかけても答えない状態になっていた。

 退屈な時間をやりすごし、船室の窓からも太陽が見えるようになった頃、モーターボートは目指すバラバ島に到着した。
 それまでずっと独りの世界に入り込んでいたクドが、弾けたように立ち上がる。
 わたわたと荷物をまとめると、いつでも桟橋を渡って、島に降り立てるように準備をした。

 モーターボートが木製の桟橋に付けられる。
 マイカレさんがもやい綱を桟橋にくくりつけ、先にボートを出る。
 その次に、クドが桟橋へと向かった。 

       * * * * * *

 その瞬間。
 まさにバラバ島に、足を踏み入れた瞬間、
 私は、今、やらなければいけないことを、理解しました。
 いや、私はいるべきところに、いなかったのです。だから、戻らなければいけなかったのです。

 私は、走り出しました。
 長時間揺れる船の上にいたせいか、足元がおぼつきません。
 でも、リキやパウロさん、マイカレさんを振り切って、私は走りました。
 どこに戻るべきなのか、頭ではわかりませんでしたが、体が、何かが私を導いていました。その場所へ、私はただ向かうだけでした。
 こんなときに、走りにくいワンピースを着てきたことを悔やみました。
 足元にスカートがまとわりついて、とっても動きにくいです。
「……ごめんなさい、ごめんなさい…」

 死んだように転がっている建物のそばを通り抜けて、木立の中の、道の跡を通り抜けます。
 ここは鉱山があった頃までは、きれいに剪定されていたところだったと聞きました。
 その先に、おとうさんとおかあさん、そしておじい様が眠る、お墓があります。
「…みなさん、ごめんなさい、ごめんなさい………」
 でも、私が目指すところは、その先にありました。

 何度もつまずいて、白かったワンピースは泥にまみれてしまいました。
 リキが見たら、とっても悲しむことでしょう。
 それでも私は、走り続けました。裾を踏んで転んでも、地面に生える鋭い草に、脚を切ってしまっても。服を切り裂いてしまっても。
「おかあさん、おとうさん、おじいさま、みなさん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」

       * * * * * *

 船から荷を降ろして、それを持って現地の長老会に挨拶へ行こうとした瞬間、クドが何かに弾かれたように、走り出していってしまった。
 僕もあわてて追いかけようと走り出したが、すぐに見失ってしまった。
 「みんなを呼んでくださいっ、クドが、クドがいなくなってしまったんです」と僕はパウロさんに助けを求めたが、今は難しいかもしれない、と言われた。
 今日の仕事はもう終わり、今はおそらく夕食をとるのに忙しい頃。それにあと2時間足らずで日没になってしまえば、何も出来ない。
 だから私達だけで、できるかぎりのことをしましょう、と言った。
 僕は一も二も無く、うなずいた。

 まずは僕とパウロさんで、島を歩いて探してみましょう、ということになった。
 マイカレさんは英語が話せないので、現地の人々と交渉を持つ、といってくれた。
 僕は島を反時計回りに、パウロさんは時計回りにまわる事を決め、持ってきた物の中から使えそうなものを探すことにした。
 ミネラルウォーター数本と、クドと僕の着替えをリュックに詰めた。懐中電灯が欲しかったが、それは持ってきていなかった。
 少し思い直して、クドが持ってきたおかあさんの遺品も、大切にリュックのポケットに入れた。
 それから僕はパウロさんと別れ、クドが歩きそうなところを探すことにした。
 日没までにここに戻るように、と約束をして。

 腕時計を見る。大体、16時30分。
 日没を18時とすると、探せる時間は、約1時間半。
 この島は周囲約10km程。人間の歩く速度は大体5km/h位だから、全てをまわるにはざっと2時間かかる。
 どこか途中で目処をつけて戻らないと、日が出ているうちに間に合わない。
 僕は死に絶えてしまった町並みを、ひとりだけで歩いていった。

 クドが歩きそうな場所を考えながら、行き先を探す。
 崩れ落ちた家々の壁、屋根、倒れた柱や手作りのバスケットのゴール。かつて人がそこにいて暮らしていた、その痕跡の中を僕は通り抜けていった。
 そんな町の死骸、ともいえる廃墟の外れに、木々のアーチで覆われた道を見つけた。
 自然とそちらに、足が向かう。
 今まで南国の植物といえば、マングローブやヤシ、ソテツなどの、変わった形の葉っぱの植物しか浮かばなかったが、日本と変わらない形の葉っぱも、たくさんあった。
 空を見上げると、木々が枝を空に張り巡らし、僕が知っている見慣れた形をした「葉っぱ」や、そうでない緑色の薄いものを、所狭しと広げていた。
 足元を見ると、じっとり湿った茶色の土と、好き放題に伸びたツタや雑草があった。
 障害物に足をとられないように、足元を見つめながら先を進む。

 急に視界が開ける。
 明るい光が、空から降ってくる。
 でも、進む方向の左側が海で、太陽は右側にあったから、何もかもがキラキラするほど明るいわけではなかった。
 それでも、木々の緑がよりよく目に映るから、何となく気分が晴れてきた。
 足元の植物が少なくなり、歩き易くなった。
 見ると石が、道に埋め込まれている。
 ここに人がいた頃は、きっともっと整備されていたのだろう。
 石の上を選んで歩きながら、さらに先を目指した。

 時計に目を落とすと、もうすぐ17時。
 出発したのは16時半だから、日没を18時だとすると、17時15分をめどに折り返さないと、帰ってこれなくなる。
 そしてまた行く先に目をやると、違和感を覚えた。
 なんだろう? その直感にひかれるように、違和感に向かって歩いていった。
 視野の先に、何か白い、明らかに自然のものでない物体が、落ちていた。
 それを拾い上げる。布の切れ端だった。
 懐かしい感情が、僕の中でわきあがってきた。それがどこから来るものなのか、わからないままで。
 とりあえず僕はその布を手の中で大切に握り締めながら、さらに道を進んだ。

 しばらく歩くと、唐突に道は終わりを迎えた。
 そこでまた、さっきと似た布が落ちていた。
 今度は細長い。僕の身長の半分よりも長かった。
 その先に、つい最近なぎ倒されたばかりの草むらを見つけた。
 ここをクドも、通ったんだろうか。
 その細長い布を手に巻きつけ、一も二も無く崖を滑り降りた。

 そこは、断崖と海に囲まれた、小さな小さな砂浜だった。
 白い砂の上に、もっと白いサンダルが転がっていた。
 それを見た瞬間、僕が手に持っているものの正体がわかった。
「………クド!」
 クドの服だ。
 布の切れ端は、おそらくワンピースの裾がちぎれたもの、細長いのは、おそらくクドの腰に巻かれていた…帯。
 そして僕は、ここまで来て初めて『どうして』クドがここに来たんだろう、ということを初めて考えた。
 足跡がまだ、砂浜に残っていた。それは砂浜の端に向かって伸び、そこで途切れていた。
 僕もその足跡を追う。そこは、洞窟の入り口だった。
 どういうことなんだ? はやる気持ちを抑えながら、僕は思考を巡らせる。

 バラバの地を踏んだ瞬間、クドが走り出した。これは何を意味するのか。
 パウロさんも、この島との通信手段を持っていなかったと言うから、誰かに呼ばれて走り出した、という可能性は消える。
 となると、何かクド自身が抱えていた問題で、ここへ来たということになる。
 そしてそれは、他の人とバラバ島で落ち合う約束をしていたのか。それとも、クドしか知らない場所へ行こうと決めていたのか。
 前者だとしたら、その人がどこかから来ているはずだ。
 そのためには、船をどこかにつける所が必要なはずだ。沖合いからボートを出して行くとしても、そのボートを停めた跡が残っているはず。
 でも、ここにはそんな跡はない。洞窟へ向かって、クドの足跡が残っていただけだったから、その線はない。
 前もって他の人が来ていたかどうかについては、この島の人たちに聞けばわかるはずだ。
「よしっ」
 僕はワンピースの切れ端、ベルト、そしてサンダルに『必ず行くから』と誓ってから、元来た道を引き返した。
 外はもう夕闇に包まれている。急がないと、日のあるうちに間に合わない。

 東の空に一番星が見え始めた頃、僕はゴーストタウンにたどり着いた。
 そこから船着き場へ向かう。
 パウロさんとマイカレさんが、待ってくれていた。
「ミツカリ、マシタカ?」
 マイカレさんが、僕に語りかけてくれた。………って
「ええっ!?」
 日本語、喋れるんですか!?
 焦る気持ちも、それで吹っ飛んでしまい、僕は思わずそう叫んでしまった。

 後でパウロさんに聞いた所によると、テヴア共和国にも大切な資源があるという。
 それは世界でも十指に入る、広い領海。そしてそこに広がる、豊富な魚資源。
 だから外国の船はテヴア政府に入漁料を払って、魚を獲っている。
 だからテヴアの漁師は外国の漁船と交流を持つことも多く、その中で、少しづついろんな言葉を覚えていったそうだ。
 だから日本語の文章も、いくつか知っていた。
「メシ、マダカ」
「タイリョー、キガン」
「イカリヲ、アゲロ」
「アミガヤブレル」
 中には明らかに変なのも、混じっていたが。
「オナジアホナリャ、オドラニャソンソン」
「オサケハヌルメノ、カンガイイ」
「カイセンドン、オーモリ、イクラダブルデ」
「イヤッホォォォォォ、クニサキ、サイコー」
 マイカレさんの日本語を聞きながら、僕達は今日お世話になる集落へと向かった。

 集落の長らしき年長の人が、僕達を迎えてくれた。
 すでにマイカレさんが話を通してくれていたので、その人達に連れられて家に向かう。
 通されたのは、壁の無い家──言い方を変えると「あずまや」みたいな感じ──だった。
 そこで僕は、パウロさんを通じて島の人々に、聞いてみた。
「Please ask them that whether other foreigners came here or not within a week?
 (ここ1週間で、外から人が来たかどうか、聞いていただけますか?)」
 でも、誰も来ていなかったそうだ。前に来たのは、2ヶ月前の定期船だけだ、という。
 もし違う入り江からやってきたとしても、この島のことなら何でも知っているし、大体、燐鉱石を掘りつくして、草も生えない山に誰がいられるか、と長老は笑い飛ばしてくれた。
 となると、やはり自分の意思でクドは『どこか』に向かった、ということになる。
 おそらく『あの』洞窟だろう、僕はそう確信した。
 島の人々は、女の子がひとりいなくなってしまった、と聞いて、それこそ僕以上に大慌てだったそうだ。
 本当は今すぐにでも探したいのだが、この暗さでは探せません。と若者の代表らしき、身なりのきちんとした人が答えた。
 だから、島のみんなで明日の朝から探しましょう、と約束をした。
 僕はその人たちに、改めて感謝の意を表した。
 はじめのうちは、探してもらえないかもしれない、と聞いていたから、それが覆って嬉しかったのもある。
 
 でも僕は、すでに決めていた。
 クドは必ず、あの洞窟にいる。
 そして、みんなが寝静まったら、僕ひとりでクドのもとへ行こう。
 皆さんに手伝っていただけるのはすごい有難いですけど、皆さんに迷惑をかけるわけにはいきません。
 そこまで考えて、こういう考え方も日本人独特の物なんだろうな、と考えて、それでも自分の力でなんとかしたい、と思い直した。

 集落の人々から歓待を受けて、それから皆はすぐ、横になった。
 日が沈めば疲れて寝る。目だった灯りも無い島だからこそ、そんな人々にとって自然な振る舞いが当たり前になっていた。
 僕は全く、寝付けなかった。
 眠る時間が早かったというのもあるが、みんなが寝静まってから、もう一度洞窟へ行こう、と考えていた。
 横になる前に出かける準備も済ませてある。幸い今夜は月が明るい。なんとか目さえ慣れれば、洞窟にたどり着くまでは大丈夫だろう。
 その後、頼りになるのは、腕時計の発光ダイオードだけだ。
 前に試してみた事があったが、光はせいぜい数十センチしか先を照らしてくれない。
 それでも、この光が、暗闇に射す唯一の光になる。
 僕はその腕時計に、よろしくね、と思いを込めて軽く触れ、そしてゆっくりと立ち上がった。
 波の音だけが、僕を送り出してくれた。

 月明かりを右側から受けながら、僕は海沿いに走る並木道を歩いていた。
 足元はなんとか見えるものの、なかなか先が見通せない。
 はやる気持ちを抑えながら、僕は一歩一歩、クドのいるほうへと歩いていった。
 歩きながら、僕はずっと後悔していた。
 クドのことを、ずっとずっと、おざなりにしていたことを。

 頭上に広がる、生い茂った木々。それを見て僕は、クドが部屋にいくつか観葉植物を置いていた事を思い出した。
 今まで移動につぐ移動の日々だったので、いつか自分だけの部屋を手に入れたら、こういうのを置きたかったんです、とクドは言っていた。
 これはポトス、これはオリヅルラン、これはゴムノキ……とクドは教えてくれたが、僕はあまり覚えていなかった。
 クドは少し寂しげな表情をしたが、すぐに「人にはそれぞれ、好みというものがあるですから、仕方がないことなのです」と笑いかけてくれた。

 かすかに左に向けて湾曲していた道が、真っすぐになる。確か、このあたりでクドのワンピースの切れ端を拾ったはずだ。
 僕はクドが着ていたワンピースの切れ端と帯をバッグから取り出し、手に握り締める。
 ふわり、と優しい匂いが漂った。
 そうだ。これはクドの匂いだったんだ。僕はいまさらながら気づいた。
 そういえば────クドはいつも、スカートばかりはいていたっけ。
 私にズボンはあまり、似合わないです。それに、よっぽど細いパンツかジーンズでないと、だぼっとしてしまうですから。と言っていた。
 実際、卒業後の就職活動でスーツを作ったが、クドのはどうしても大きすぎる印象を受けてしまったのを思い出す。

 そして道は行き止まりになり、かすかに照らし出された、薙ぎ倒された草の後を滑るように下りる。
 秘密の海岸。そんな言葉が浮かんだ。そしてその先に見える風景は、まるでどこかで見た、海沿いの温泉の風景みたいに思えた。
 こうやって何度も、クドとは全国を旅行してまわっていたっけ。
 日本中を見てまわりたい、というクドの希望を受けて、長期休暇ができると、僕とクドでいろんな所を見て回った。
 日光東照宮、偕楽園、会津若松城、猪苗代湖、青葉城。
 温泉だと、鬼怒川、伊香保、草津、作並、肘折、小谷(おたり)。あと、足を伸ばして箱根にも。
 なかでも箱根では、水着で入れる温泉のテーマパークという所に入ったが、その時のクドが印象的だった。
 はじめは、こんなの温泉なんかじゃないです、温泉に対する冒涜なのですっ、とぷんぷんしていたクドだったが、いろんな温泉をまわっているうちにすっかり気に入ってしまい、最後はわふわふ言いながら、また来ましょう、リキ。って言ってたっけ。

 僕はスニーカーをリュックの中にしまい、ズボンの裾をまくりあげ、真っ暗な洞窟の先を見据えた。
 クド。ごめん。最近ずっと、クドのことを見てなかった。
 一緒にい続けて、クドがいることを、たまに忘れかけていた時があった。
 でもクド。今度からはずっと一緒にいるよ。だから。今から迎えにいくね。
 待っててね。クド。
 そうつぶやいて、僕は水音を響かせながら、洞窟の奥へ進んでいった。

 暗闇にはある程度目が慣れていたはずだったのに、洞窟の奥は全く明かりが届かない。
 真の闇が、そこにはあった。
 僕は数秒おきに消える腕時計の発光ダイオードを手がかりに、暗い中を進んでいった。
 それ以外に明かりはまったくない世界。僕の五感が、びりびりと研ぎ澄まされていくのが分かる。
 水が当たる脛の感覚。洞窟内に響く水音。そして風鳴りの音。洞窟を通り抜ける空気の動きを肌に感じる。
 きっとこの先には、別の出口か、穴があって、そこから風が流れてくるのだろう。
 僕はいつしか、発光ダイオードを光らせないでも、周りの状況がある程度わかるようになっていた。

 足元に突如、何か濡れたものが触れた。
 反射的に、背後に飛びのく。足の裏に岩の感触が強く、響いた。
 そして腕時計の発光ダイオードを水面に近づけ、光を放った。
「……布?」
 その物は、腕時計から放射される緑色の光を、ほぼそのまま反射していた。
 おそらく、白か、それに近い明るめの色だろう。
 足を蹴り上げて水を動かす。その布は波紋に揺られるがままだった。
 ゆっくりと近づけて、そっと拾い上げる。
 広げてみると、片側が筒状になっていて、もう反対側にも穴が開いていた。
 僕はいやな予感を覚えつつも、それを苔むす壁に貼り付け、もう一度照らし出した。
「………!」
 息を呑む。それはワンピースだった。しかも裾が破けてしまって、ところどころ汚れもついている。
 汚れ方からして、血ではなく、土汚れだろう。それがわかって、少しだけほっとした。
「クド!」
 僕は押しつぶされそうな気持ちを胸に抱きながら、愛する人の名前を呼んだ。
「クド! どこ!?」
 返事はかえらない。
 闇の先に、五感の全てを向ける。
 何の気配も感じられない。
 さらに先へ進む。
 壁際から、光と、風の流れがあった。
 この先に、出口があるのだろうか。
 僕は外界の新鮮な空気を求めて、さらに歩き出した。

 跳ね返る水音が、変わった。
 どこかから光が、射していた。
 あたりを見回すと、ビル3〜4階分の高さから、月明かりが漏れていた。
 水音が響くのは、これだけ天井が高いからなのだろうか。
 僕は何の気なしに、光の下に立った。
「……っ」
 何か息を呑む音と、水音がした。

       * * * * * *

 私が『いなければいけなかった』場所、それは、この洞窟でした。
 何でこんな大切なことを、忘れてしまっていたのでしょう。
 私はテヴアに帰ったあと、おかあさんと再会することが出来ました。
 でもそれから、テヴアのみなさんがおかあさんのせいで島がめちゃくちゃになってしまった、と騒ぎ始めました。
 大使館のみなさんは、私をかくまってくれました。
 それでも、大使館にまで乱入してきたみなさんに連れ出され、私はいけにえにされることになりました。
 長老会議もこの流れを止めることは無理だと察したのか、否定しませんでした。
 結果、私はバラバ島へと運ばれ、鉱山があった頃から使われていた水牢に、生まれたままの姿でつながれました。
 最後に若い男の人が戻ってきて、マントだけを私に羽織らせてくれました。
 せめて少しでも寒くないように、という私への慈悲だったのでしょうか。
 いまとなっては、よくわかりません。

 ここに戻ってきたとき、私はほっとしました。
 ここに戻ってきたのは、私がほんとうに望んでいたことだったのですから。
 でも。
 でも、不十分です。
 左手を吊るす鎖がありません。
 どこを探しても、ありませんでした。
 私がいるべき場所は、ここのはずです。
 でも、そこにあるべきだった鎖が、ありませんでした。
 何度、空中に手を伸ばしても、どこにもありません。
 壁にも、足元にも、どこにも。

 私は混乱してきました。
 私は修学旅行に行きたかったので、暴動が起きたときにテヴアには帰らなかったはずです。
 それなのに、どうしてこの水牢のことを知っていたのでしょうか。
 テヴアには通算で何年もの間いましたが、バラバ島に上陸したことはありませんでした。
 外国人向けのゲストハウスからあまり外出もせず、いつも勉強ばかりしていたはずです。
 そもそも、どうして私はここにいなければいけなかったのでしょうか。
 リキたちを置いていきなりこんな所に来てしまって、きっとみなさん心配しているはずです。
 早く戻らないといけません。それよりも、どうして私は裸で、こんなにも眠いのでしょうか。
 頭が混乱してきました。きっと眠いせいで、何も考えられなくなってしまっているのでしょう。

 水音が、しました。
 ここに誰かが、来たのでしょうか。
 いや、ここにはもう誰も来ないはずです。
 私は、いけにえなのですから。

 私の記憶は、いったいどこで混乱してしまったのでしょうか。
 それすらもう、わからなくなってきました。

 いや……もしかしたら、かみさまが私の命を、もらい受けに来たのでしょうか。
 目の前の光の中に、人が立っているのが見えます。
 私よりも背が高くて、中性的な顔立ちをしていて、こちらを見つめています。
 ああ……あなたが、みなさんを助けてくれるのですか?

 私は、混乱していました。

       * * * * * *

「…クド?」
 水音のしたほうへ向けて、声を投げかける。
 やがて、暗闇の中から、声がした。
「…あなたが」
 間違いない。
 いつも聞き慣れた、愛しい人の声。
「あなたが、みなさんを助けてくれるのですか?」
「…クド!」
 クドの声だった。
 僕は声のするほうへと駆け出す。
 ぱちゃぱちゃと、高い天井に水音がこだまする。
 僕はたくし上げた短パンの裾が濡れるのもかまわず、走っていった。
 でも、声がしなくなると途端にどこにクドがいるのか、わからなくなる。
「クド?」
 立ち止まって、前方に声を投げかける。
 声が遅れて、響いてくる。
 まだまだ、奥があるのだろうか。
 さらに先へと、進んでいく。
 じゃぶじゃぶ、と水音を立てて。
「クド? そこにいるんでしょ?」
 返事がかえってこない。
「ちょっと照らすよ?」
 僕はそういって、腕時計の発光ダイオードを点灯させた。
「……!」
 息を呑む音が聞こえた。さっきよりももっと、近い場所で。
 これだけ近くにいて、返事をしないのは、きっと僕に近づいてほしくない理由があるからなのだろうか。
「クド、もうだいじょうぶだよ」
 別に、いきなり走り出したことについては、もう怒らないから、と僕は言った。
「迎えに、来たよ」
 さっき声がしたほうに、歩いて行く。
 やがて水音は反響がなくなり、その音が吸い込まれていく感じを受けた。
 壁が、近いのだろうか。
 衝突しないように、手をクドの肩の高さにして、前に出しながら歩く。
 
 そして、何かが左手の指に触れた。
 柔らかくて、冷たくて、そしてなつかしくて。
「…クド?」
 そのまま指を左にずらしていく。
 やがて右手の指も柔らかくて、冷たいものに当たった。
 間違いない。この肩幅の広さがクド以外の人であるはずがない。
「…クド!」
 すっかり冷たくなってしまっているクドの体を、僕はどうにかしたくて、抱き寄せた。
 クドは木の葉のように、僕の腕の中にすっぽりと納まった。
「こんなに冷えちゃって……」
 僕はクドの背中に流れる髪越しに、クドの体を撫で続けた。
「クド…クド…」
 愛する人の名前を、呼び続けながら。

 僕はそれから、無言のままたたずむクドを、そのまま抱きしめ続けていた。
 常夏の島とはいえ、夜はある程度冷えてくる。
 僕の体も、クドの冷えた体を包み続けて、ずいぶん冷たくなってしまった。
 空気も冷え切っている。
 それを始めに切り裂いたのは、クドだった。
「……この場所は」
 抑揚のない声で、僕に話しかけてくる。
「まだ鉱山が動いていた頃、騒ぎを起こした人を隔離、ないしは懲罰するために使われた、水牢だったのです」
 なるほど……
 …でもそれと今のクドに、何の関係が?
「私は、だめな人間です」
「おとうさんもおかあさんも、おじい様も見殺しにしてしまった、だめな人間です」
「だから私は、罰せられなければいけないのです」
 そんなことないよっ、と反射的に叫ぼうとした僕の言葉を、クドが遮った。
「ここで、『私がかつて、されたように』」
 クドの言う『私がかつてされた』具体例が、僕にはわからなかった。
 あの頃の記憶を、もう一度たどり直す。
 クドの家族が、テヴアで殺されてしまったのは6月上旬。
 修学旅行で事故があったのは、6月20日。
 そのあいだ、クドは故郷に帰らず、ずっと日本にいたはずだ。
 リトルバスターズのメンバーから、クドが自室から出ず、落ち込んでしまっていることを聞いていたから。
 それ以外に、クドがテヴアに、ましてやバラバ島に来ていたことなんて、ありえるはずがない。
「クド、何言って…」
「私は」
 言いかけた僕の言葉を、クドが大声で制する。
「JAXAにだって受かる事が出来なかった、だめな人間なんです」
「私はおかあさんの後を継いで、宇宙へいかなければいけないのに」
「それすら、かなわないんです。今の私では」

 去年の春、僕達は一緒にJAXA(宇宙航空研究開発機構)の入社試験を受けた。
 ふたりとも筆記試験は突破したが、一次面接でクドが落ち、僕だけが受かった。
 その結果が出たときのクドの落胆振りは、すさまじかった。
 もう私は宇宙飛行士になれないです。おかあさんの夢が継げないです。もう生きている価値なんてないです。と号泣するばかりだった。
 そんなクドを、僕は一日かけて、あやし続けた。
 また来年、受ければいいじゃない。それに今回落ちたのは一般社員登用で、宇宙飛行士の募集は別にあるんだから、まだわからないよ。
 それにまだ僕が残ってる。クドの代わりに、僕が行くよ。僕がクドの夢になるよ。と言って、クドはやっと落ち着いてくれた。
 でも、結局僕も最終面接で落ちてしまった。
 クドは慰めてくれたが、僕はクドの夢になれなかったことが悔しくて、自室でひとり、涙をこぼした。クドには見せたくなかった。
 そして僕達は、決めた。
 ふたりで、受かるまで何度でもJAXAを目指すんだ、と。

 それなのに。またクドはあの時のクドに戻ってしまった。
「英語だって、いくら勉強してもねいてぃぶみたいに喋れないです」
「いつまでもリキにわがままばっかり言って、困らせてしまっています」
「おとうさんやおかあさん、おじい様だって、きっと私がいたから困ってたんです」
「だから私は、罰を受けなければいけないのです」
「それくらいしか、私にできることはないのです」
「クド!」
 一方的な独白を続けるクドを、僕は一喝した。
 もう聞いていたくなかった。
 自分が愛している人が、責められるのは。
「もうやめて!」
「もう、やめてよ……」
「クドの、そんな姿、僕は見たくないよ……」
 僕はクドを抱きしめている腕を解き、肩を掴んで、言った。
 わずか十数センチ前にいるクドの姿さえ見えなかったが、それでかまわなかった。
 僕はクドに、自分のすべてを伝えたかった。
「クド、前に言ったでしょ」
「もう自分の事を卑下するのはやめよう、って」
「僕だって嫌だよ。自分が大好きなひとが、そうやってけなされるのを見るのは」
「僕は、クドとずっといっしょにいるって、決めたんだから」
 そこまで言って、僕は初めて自分を省みた。
「……いられて、なかったよね」
 忙しさにかこつけて、僕がクドをおざなりにしていたのに、そんな僕がクドに強く言えるはずがない。
 全身の力が、抜けていった。
 クドの肩を掴んでいた手がずり落ち、腕をなぞって、力なく垂れ下がる。
 その途中で、奇妙な感覚があった。
 腰の辺りに、肌の感触。
 もしかしたら、本当にクドは何も着ていなかったんだろうか。
 そう思うと、顔が熱くなってきた。
「わっ、わわわっ、ごめん!」
 情けない声を出して、僕は数歩後ずさった。
「服…ほんとに、着てなかったの?」
「…はい」
 か細い声が、聞こえてきた。
 この手前で見つけたワンピースは、本当にクドのものだったんだ。
 そんな僕は、自然となんとかしたい、と思っていた。
「クド、マント持ってきたから」
 僕はリュックの中から、いつもクドが羽織っていたマントを取り出した。
 手さぐりで紐を持ち、クドの背中越しにマントをかけ、胸の前で紐を結ぶ。
 それからクドの髪をマントから引き出し、おろした。
 あたりにいい匂いが、立ち込める。

       * * * * * *

 リキにマントをかけてもらった時、とっても懐かしい感じがしました。
 あの時、牢につながれた時と、同じかっこうになりました。
 一瞬、リキが来てくれた時に、かみさまが私の命をもらい受けに来たように思ってしまいましたが、私はきっと混乱していたのでしょう。
 今、私の前にいてくれるのは、私の大切な人。
 私と同じ道を歩いてくれる、かけがえのない人。

 でも、
 でも今までの私達は、そばにいても、どこか遠く離れてしまっているように思えました。
 それぞれの卒業論文作成や、ゼミの課題、授業の実験など、ここ2年間はとっても忙しい日々を送っていました。
 私は見舞金と奨学制度を使っているので、アルバイトをする必要もありません。
 東京まで出てアルバイトをしていたときもありましたが、リキに反対されて、やめました。
 同じ家で暮らしているのに、一日中顔さえ合わせない日もありました。
 リキはアルバイトが忙しいですから、仕方がないです、と自分に言い聞かせていましたが、どうしても寂しいときは、わがままを言ってしまった時もありました。
 そんな時も、リキは怒りもせず、私の相手をしてくれました。
 リキは立派なひとです。
 私なんかと、ちっとも釣り合わないです。
 だから私は、ひとつ考えていたことがありました。

 卒業したら、私はこの家を出て、ひとりで生きてみよう、と。

 といっても、リキと別れるわけではありません。
 もっとひとりの環境に慣れて、もっと自分を強くしないと、リキのおよめさんになれないと思ったのです。
 この卒業旅行が終わって、その気持ちが変わらなかったら。
 そのときは、リキに言おうと思っていました。この家を出ます、と。

 私は自由に動く左手を申し訳なく思いつつも、リキの手をひいて、水の中を歩き出しました。
「クド?」
「座れるところがあるですから、案内します」
 私はかまわないのですが、リキが冷たいといけないと思い、少し高い、平たい場所を案内しました。
 あのあたりなら、あまり風も吹いてこないはずです。
 ここは私がずっと、夢の中で繋がれていた場所。目を閉じていたって、どこに何があるか全部わかるのです。

 登り終えて、その場に立っていると、リュックの中から何かを探している音が聞こえました。
 そして、私の手に何かを握らせました。
「寒かったでしょ。足、拭いて」
「…でも」
 私は躊躇しました。
 ここで私は、おとうさんとおかあさん、おじい様の罪を償わなければいけないのに、こんなことをしてはいけません。
「クドが寒がっているのを、みんなほっとけないよ」
「でも……」
「もちろん、僕もほっとけない」
「……………」
 私が黙っていると、リキは手の中のものを広げて、それで私の脚を包みました。
 柔らかくて、やさしい肌触り。おそらくタオルか、バスタオルか。
 やがてその手が止まり、リキが言いました。
「……ほかのところは、自分で拭いてね」
「僕じゃ、さわれないからっ……」
 リキが口ごもって言いました。
 こういうときに、リキが自分よりも年下に感じてしまう時があります。
 私はそんなリキがいとおしくなって、大事な部分を自分で拭いて、リキにタオルを返しました。

 ここは夢の中で見た光景に、間違いがないはずなのですが、ふたつだけ違った点がありました。
 ひとつは、私の手を縛り上げる、鎖がなかったこと。
 もうひとつは、光が射していたこと。
 この光景を、リキも見ていたのでしょうか。
 それともこの光景は、私だけが見ていた、幻だったのでしょうか。
「クド、着替え持ってきてるから」
 リキはそういって、またリュックのジッパーを開きました。
「だいじょうぶです……」
 私は、リキの申し出を拒みました。
 せめて、夢の中と同じかっこうでいたかったから。

       * * * * * *

 クドがこのままでいい、と言ったとき、僕の中で何かがドクン、と動いたような気がした、
 それは僕とクドが一緒にいる中で、絶対に忘れてはいけない物だと思った。
 一糸纏わぬ姿で洞窟に佇んでいたクド。
 その姿に恥ずかしさを覚える反面、どうしてそんな恰好をしていたのか、そして、ここにいる理由を知るためには、僕も同じかっこうにならなければいけないと、思った。
 リュックを降ろし、アロハシャツを脱ぐ。
 濡れた足につく雫を簡単に拭い、下にはいている物も全部脱ぎ、リュックに簡単にたたんで入れる。
 リュックからミネラルウォーターを2本取り出して、クドの後ろに座る。
 そして、全身でクドを後ろから抱きすくめた。
「ほら、おいで、クド」
 僕もそれほど体が大きいほうではないが、クドは僕の両腕にすっぽりと収まった。
 最初は体を強張らせていたクドだったが、やがて、僕に体をあずけてくれるようになった。

 かたわらに置いたミネラルウォーターの封を切り、クドに言う。
「クド。のど渇いたでしょ。飲む?」
「…はい」
 僕の手からボトルを受け取ると、両手で抱えて、くぴくぴと少しづつ飲み始めた。
 クドが動くたびに、体が揺れるたびに、クドのやさしい匂いが伝わってくる。
「…おちついた?」
 背中越しにクドに語りかける。
「もう問い詰めないから。どうしてここに来たのかだけ、教えてほしい」
 クドは見つかった。帰り道もちゃんと確保されている。
 あとは『どうして、クドがここに来たのか』が判明すれば、全ての問題は解決する。
「…そういえば」
 そんなことを考えながらも、僕は違うことを感じていた。
「こうやってふたりでいるのも、久しぶりだよね」
「かなり無理やり、になっちゃったけど」
「久しぶりに、クドをこんなに近くに感じた気がするよ」
 いつか遠い昔、僕達が付き合う前。
 そう。修学旅行の途中でバスが転落事故を起こして、リトルバスターズ全員が事故に遭ってしまった、あの頃。
 僕とクドは、こんなかっこうで暗闇の中にいたような気がした。
「ごめんね、クド」
「ずっとひとりぼっちに、させちゃったね」
「僕がここに、クドを連れてきたんだ」
「僕の故郷には、去年一緒に行ったよね」
「あの時、思ったんだ」
「僕の思い出を、クドと共有できたんだ、って考えたら、もっとクドと深くつながることができた気がしたんだ」
「だから僕も、クドとの思い出を共有したかった」
「だから卒業旅行で、テヴアに来たかったんだ」
「実はね、去年からアルバイトを増やしたのは、その旅費を稼ぐためだったんだよ」
 ぴくりと体を震わすクド。
「インターネットで調べたら、飛行機で往復するだけで三十万円ぐらいかかるっていうから、たくさん稼がなきゃ、って思ったんだ」
「もちろん、クドの分も含めて」
「両親の遺産も、使うつもりではいたけどね。僕だけの力じゃ、どうしても足りなかったから」
「…でも、結局航空券は全部クドが手配してくれたから、稼いだ意味、まるっきりなかったけどね」
 僕は、あはは、と薄く笑った。
「その代わり、何か記念になるものを、ふたりで買おうよ」
「これからも、僕とクドが一緒にいられるように」
「いや……それよりも」
「これからはレポートとかも減って、少し時間に余裕ができるから、部屋もまた、前のレイアウトに戻そうよ」
「勉強部屋と、寝室に分けて」
「そうしたら、クドと一緒にいる時間も増えるし」
「僕なんかはさ、一回クドのことを信じたら、もう永遠にそれは続くんだ、って思えるんだけど」
「前に言われたんだ。『女の子は鉢植えのお花と一緒で、たまにお水をあげないと嫌われちゃうんだよ〜』って」
 このあいだのリトルバスターズの集まりで、小毬さんに言われたことを、僕は言った。
「あしたからまた、テヴアの本島に戻って、遊ぼうよ」
「いろんなものを、クドと一緒に見てみたいんだ」
「クドとふたりで、いろいろな世界を歩いていきたい」
「だから……また」
「一緒に、歩いていこうよ」

 感情のほとばしるままに、僕はクドに語り続けた。
 返事は返らないままで。
 それでもよかった。クドが聞いてさえくれれば、それでよかった。

       * * * * * *

 私は、知りませんでした。
 私のために、リキが夜遅くまでアルバイトをしていたことを。
 申し訳なくて、恥ずかしくて、自分が情けなくて。またそんな事を考えてしまいました。

 そんななか、私は高校生の時の事を思い出しました。
 高校3年生の秋の日。中庭でリキとお昼ご飯を食べていると、リキが私に言いました。
「そういえば、クド」
「はい?」
「クドって小さい頃『クーニャ』って呼ばれてたの?」
 その言葉を聞いた瞬間、私の体は凍りつきました。
「本を読んでたら、ロシア人の愛称って名前の後ろに『〜ニャ』って付けるって書いてあったから」
 その呼び方で呼んでいいのは、おとうさんとおかあさん、おじい様だけです。
 家族でもない人に、そんなふうに呼んでほしくないです。
「…ん? どうしたの?」
 だいすきなリキでも、怒ります。
 リキは、私の心の中の大切なものを、土足で踏みにじりました。
 絶対に、許さないです。
「…『クーニャ』」
 リキが私に、いつもの心からの笑顔でそう言ったのを見て、私の脳裏で何かが弾けました。
 私はリキを突き飛ばして、その場から走り出しました。
 それから数日間、私はリキと口をききませんでした。

 完全に私の、わがままが原因でした。
 リキからしてみれば、私は理由もなく、いきなり逆上してきただけです。
 死んでしまったおとうさんとおかあさん、おじい様を思い出すから『クーニャ』と呼んで欲しくない。
 初めからそうリキに説明すれば、何の問題もなかった話です。
 でもリキは、私がそのことを説明した後で、そうだったんだ、気づかなくて、ごめんね、と謝ってくれました。
 リキ、私が悪いのに、どうしてあやまるですか? リキは何も悪くないのに。
 そうやって自分が悪くなくても謝るのは、日本人の美徳だと知っていましたが、実はそうではないと思いました。
 悪くも無いのに謝られると、こっちがとっても申し訳なくなります。
 これはきっと、遠まわしに相手から譲歩を引き出す高等戦術なのですね、とその時に実感しました。

 だからリキは、ずるい人です。
 いっつもそうです。
 リキが私にした何気ないことで、私が理不尽に怒ってしまっても、最後にはリキが折れてくれます。
 だから私はリキに申し訳なくなってしまって、次からはリキのいうことをきいてしまいます。
 今回だって、そうです。
 もう私達は二十歳を過ぎた、大人です。リキと一緒にいられなかったからといって、ふてくされる歳じゃないです。
 それなのに、リキは、いつも夜遅くに家に帰ってきては、課題をやって、そのまま寝てしまうだけです。
 私の場合は、テヴア政府とオーシャンランチ社から支払われている月々の見舞金で、生活費と学費が全部賄えてしまうので、あまりアルバイトに精を出さないでもいい、という事情もありました。
 けれども、そんな事情の違いも理解しないで、私はわがままばっかり言っています。
 6年前の『あの時』から、全然変わってないです。
 なさけなくて、みっともなくて、はずかしくて。私なんかリキと全然つりあわないです。
 それなのにリキは、今も私を温めようとして、背中から私を抱きしめてくれています。
 自分だって寒いはずなのに。服も私と同じように、全部脱いでしまって。

 そんなリキに、私はどうやって応えればいいですか。
 前に私は、リキに泣きながらそう聞いた事があります。
 リキは少し考えてから、特別な事をする必要はないよ。今のままの生活が、ずっと続いていけばいいよ。といいました。
 それからすぐに、続けました。
『もちろん、僕達ふたりの目標は、宇宙飛行士(こすもなーふと)になることだけど、ね』

 私の中で、くだらないわだかまりが溶けていくのを実感していました。
 やっぱりリキは、すごい人です。
 私はそんなリキに、もっともっと近づきたいです。
 代わりにリキにできないことがあったら、私が手助けしたいです。

 リキに引っ張られたり、リキをひっぱったり。
 そんなふうにして、ずっとずっと、いっしょにいたいです。
 私は改めて、そう強く願いました。

       * * * * * *

「……リキ」
 僕の腕の中で、クドが沈黙の中に言葉を置いた。
「リキは、この風景、覚えてますか?」
 一瞬、うなずきかけた自分がいた。
 僕はこの風景を、覚えていた。
 来た事がないはずだったのに。僕は大学の勉強で身に染み付いてしまった、論理的思考を手放した。
「……ちょっと違う」
 頭の中から浮かぶ言葉を、ひとつひとつ、並べていく。
「もっと位置が低かった。この水牢全体を、見上げているような感じだった」
「……リキ?」
 クドがこちらを覗き込む。
「…もしかしたら」
「降りてみよっか」
 僕は立ち上がろうと、腰をひいた。
 クドも腰を浮かせ、立ち上がる。
 もう夜明けが近いのだろうか、水牢に射す光が強くなってきた。
 クドがどこにいるのか、だんだん見えるようになって来た。
「足元、気をつけてください」
「うん」
 クドが先導する形で、さっき登った岩だらけの下り坂を降りていく。
 さっきと比べて、足元がかすかに見える。やはり夜明けが近いのだろうか。
 そして再び、足が水に浸る。冷たさに体が震えたが、それよりも僕は確かめたかった。
 この風景が、ほんとうに僕達が見ていた風景だったのかを。
「あっ」
 先を歩いていたクドがバランスを崩しかける。
「クド?」
 僕は水音を響かせ、クドのもとに駆け寄る。
「だいじょうぶ?」
「何か踏んだみたいです…」
 足元を見る。
「なんだろ…」
 細かい欠片が、足元の砂に埋もれていた。
 長いのもあれば、短いのもある。
 その中に、ひときわ大きいものがあった。
 僕は屈んで、それを拾い上げる。
 ずしり、と手に重みがのしかかる。
「鎖……でしょうか」
 それは四角い輪がふたつ、連なっている金属の破片だった。
 クドがそれに手を伸ばす。

       * * * * * *

 その瞬間、僕(私)の中に、何かが目覚めていく感覚を覚えた。
 今までずっと、記憶の奥底に封印されていた出来事。
 誰かが作り上げた世界の中で、僕(私)とクド(リキ)は、確かに距離を越えて、ひとつの光景を見ていた。
 僕(リキ)は学園の寮の、真っ暗な自分の部屋で。クド(私)はテヴアの、この場所で。
 互いが好きだ、という気持ちひとつで、僕(私)とクド(リキ)は、五千数百キロという物理的な距離を越えて、つながった。
 その場所で僕(私)はクド(リキ)で、リキ(クド)は私(僕)でした。
 暗闇の中、(クドの)おかあさんの遺品──いくつもの部品と一緒に、溶けて固まってしまった個人認識票──を、私(クド)が水面に叩きつける。
 それは私(クド)が、ずっと囚われ続けた贖罪の意識から、開放されたことを意味していました。

 私(僕)は、きっとこの事を思い出すために、このテヴアに来たのかもしれません。

 それが今、はっきりとわかりました。

 僕(私)とクド(リキ)が、こうして身も心もひとつになった瞬間があった。

 その事実ひとつで、その事を体と心が知っている限りは。

 私(僕)とリキ(クド)は、ずっとずっと、お互いを信じていられる、とわかりました。

       * * * * * *

 理樹とクドは、段々強くなる光の中で、お互いのつながりを確認した。
「クーニャ…」
「…リーニャ」
 ふたりはお互いを、無意識に特別な呼び方で呼び合っていた。
 いつか結婚したら、家族になったら、こう呼び合おう、と決めていた呼び方で。
 かつてはクドが『死んでしまった家族を思い出してしまうですから、やめて欲しいです』と言っていた呼び方で。
 そしてどちらからともなく、ふたりは抱き合い、唇を重ねた。
 もうふたりとも、何の迷いも無かった。
 些細な言葉の食い違いや行き違いで、心を遠ざけてしまうことも、もうない。
 ふたりとも身も心も、ひとつになったことを知っているから。

 どちらからともなく、ふたりはその鎖をリュックにしまった。
 それから足元に散らばる、砕けた鎖の欠片をいくつか広い、それもしまった。
 それからふたりは、いつもの他愛も無い会話を交わしながら、水牢を抜けて、洞窟をもと来た道へと戻っていった。
 塩水でボロボロになった体を残ったミネラルウォーターで洗い流し、それからふたりとも服を着て、朝の光のなかへ身を晒した。

       * * * * * *

 閉ざされた砂浜で僕達は、真正面に朝焼けを見た。
 僕達は手を繋ぎながら、それをただ、見つづけた。
「…クーニャ」
「はい」
「この朝焼け、ずっとずっと、覚えておくよ」
「はい。私もわすれないです」
 それからまた、どちらからともなく僕達はゆっくりと、唇を重ね合わせた。
 この太陽に、僕達の絆が永遠になった、証人になってもらおう。
 そう思っていた。
 
 それから僕達は、早足で集落へ戻った。
 みんなが仕事そっちのけで、待ってくれていた。
 僕は突然いなくなった無礼を詫びようとしたが、誰も聞いてくれなかった。それくらい僕達の帰還を喜んでくれていた。
 一日中、僕達の帰還を祝う祝宴が催され、僕達がテヴア本島に帰り着いたのは翌日の夕方だった。

 テヴア本島に帰る日の早朝、僕達は洞窟へ続く並木道のかたわらに、クーニャの家族が眠る慰霊碑を訪れた。
 木の棒が一本、無造作に突き刺さっているだけだったが、そこに打ち付けられた金属の板に、確かに名前が刻印されていた。
 ほんとうに、いなくなってしまったのですね…とクーニャはつぶやいた。
 僕も慰霊碑に向かって、僕とクーニャはずっといっしょにいます。ですから、安心してお休みください。と祈った。
 持って来たクーニャのおかあさんの忘れ形見──溶けてしまった個人認識票──は、返してきた。
 もうクーニャは、それに縛られる事もなかった。
 だからこれは、おかあさんに返すべきだと、思った。

 余談だが、その日の夜、僕達ははじめて、ひとつになれた。
 クーニャは今まで体験したことのない痛みに顔を歪めながらも、それをはるかに上回る喜びに、涙を流していた。
 うれしいです、やっとリーニャとひとつになれたです……と、ずっと言いながら。

 それから毎日島を巡り、日本人が経営しているホテルにお世話になったり、ぶらぶらと街をながめたりして、ゆったりと特別な時間を過ごした。
 滅多な事では来れない場所だから、悔いの残らないように過ごしたい。
 でも、バラバ島であった事だけで、僕達は十二分に満足していた。
 ふたりがずっといっしょにいられる根拠が、見つかった。これに勝る喜びも、結果もない。



       『恭介。僕らふたりで、テヴアに行ってきたんだ。
        そこで、恭介が僕達に何を、何のためにしたのか、全部わかった。
        それを踏まえたうえで、僕は恭介に言うよ。僕達を強くしてくれて、ありがとうって』
       『……理樹。俺はお前に感謝される筋合いはないんだ』
       『…どうして』
       『俺はお前と鈴を助けるために、何でもやった。
        ルールだって、倫理だって何でも踏みにじった。
        でもそれは、もう俺達が助からないということを前提として、やったんだ。
        女子全員、トラウマを解消するように持っていけたんだが……能美だけは失敗した。
        トラウマを解消させるために、新たなトラウマを作ってしまったんだ』
       『でも、もう大丈夫だよ。僕達は、乗り越えたから。ほら』
       『……ペンダント?』
       『その先についている金属を見て。これ、牢で使われていたらしい、鎖の欠片なんだよ。
        僕とクーニャがこれを見つけたら、恭介が僕達にやったことを思い出したんだ。
        だからそのことを忘れないように、浮いた旅費でペアのペンダントを作ったんだよ』
       『……………理樹』
       『恭介。だからもう、大丈夫』
       『理樹! 俺はこのことを、墓場まで持っていこうと思ったんだ。
        それなのに、それなのに……!』
       『きょ、恭介……みんなが来ちゃうよ…』
       『俺はお前や、能美に一生恨まれても仕方のないことをしてしまったんだ…!
        殴り倒されても、仕方のないことをしてしまったんだ…! だから…だから……っ』
       『……だから恭介。もうそれは全部解決したから。僕とクーニャで乗り越えたから。
        いつもの強いリーダーでいてよ。ね…恭介。泣かないで』



 日本へと帰る飛行機の中。僕はクーニャに話しかけた。
「ねえ、クーニャ」
「はい?」
「パウロさんに聞いたんだけど」
「はい」
「テヴアの空港に着いた時に、パウロさんが紙を掲げて待っていてくれてたじゃない」
「…そうですね」
「あそこに書かれてた意味、教えてもらったよ」
「……!!」
 クドが顔を真赤にして、うつむいた。
「『結婚おめでとう リキ・クドリャフカ』…だよね」
 僕もそこまで言って、恥ずかしくなってしまい、クーニャから顔を背けてしまった。
「…そのとおりですっ」
 か細い声で、クーニャは答えた。

 それから僕は、眠りにつく前に、耳元でクーニャの囁きを聞いていた。
 『あのとき』と似た体勢だな、とおぼろげに思った。
 でも、ひとつだけ違うことがあった。
 あのときの言葉は、ロシア語だったけど、今回は、日本語だった。

     「……あいしてます、リーニャ」




  * postscript *
 初めまして。いつもは某掲示板で妄想を垂れ流しております者です。
 今回こちらに投稿するにあたって、ちょっとだけハンドルを変えて「丸腰の人」としております。

 普段投稿している量の、実に10倍ぐらいにふくれあがってしまいましたが、
 私の頭の中では理樹とクドが付き合い始めてから一緒の大学に通ってJAXAに就職して、最後は宇宙に行くまでのシナリオが頭でできているんですが、なかなかに書き出す時間がないのが悩みの種でございます。
 ちなみに理樹とクドが通っているのは筑波大学。電車一本で秋葉原に行けるのでクドがメイド喫茶にバイトに行く話とか、自作PCのパーツを選ぶ話とか、大学で航空研究会に所属して、なぜか鳥人間コンテストに参加する話とか、宇宙飛行士になる夢をかなえた後でJAXAを辞め、種子島でふたりしてサトウキビを作る話とか、妄想が止まりませんだれか助けてください。

 それはさておき

 今回の話を書くにあたって、以下のサイトから着想を得ました。謝意を示します。
  ・説明不要の百科事典サイト。英語版でテヴアの元ネタが1999年に水没した「テブア・タラワ島」だとわかりました。
   http://ja.wikipedia.org/
  ・日本からキリバスへ行くには、この航空会社を使います。片道、15万円。飛行機は週に1本だけ。いかがでしょうか。
   http://www.airpacific.com/
  ・キリバス語ー英語のオンライン辞書。ここを元にして作中のテヴア語=キリバス語を作りました。
   http://www.trussel.com/f_kir.htm
  ・バラバ、じゃなかったバナバ島の写真を集めたサイト。これでイメージを固めました。内容はともかく。
   http://web.mac.com/banaban/BANABANJP/HOME.html

 それでは、また妄想渦巻く世界でお会いしましょう。



ばっくとぅいんでっくす、なのですっ


専用掲示板にじゃんぷですー