どこまでも広い、言い古された表現でも構わないならば、水平線の遙か先まで永遠に続いていそうな空の下。
 晴れ渡った青と白の世界を背にして、クドは僕の前を小さく駆けていた。
 時折くるりと振り返っては、僕との距離があまり離れていないことを確認し、微笑を浮かべる。
 肌を焼く強い陽射しに晒され、額に滲んだ汗を拭って、僕達は微かに陽炎が揺らめく道の向こうを目指していた。

「クド、ちょっと早いよ」
「わふっ、すみません。嬉しくてついはしゃいじゃってました」

 そう言いながらもクドは速度を緩めない。
 亜麻色の髪と黒いスカートを翻し、踊るような足取りで、アスファルトを踏みしめていく。
 澄んだ蒼い瞳が、後ろのこちらを捉えるたびにすっと細められ、また視界が届かない方へと流れる。
 一歩詰めれば届くことを知っているから、もう一度クドが振り返った瞬間を見計らい、僕はとん、と跳ねて手を伸ばした。
 それを待っていたのかもしれない。すぐに手は取られ、僅かな力で引き寄せられる。

「っと……そんな急がなくてもいいんじゃない?」
「急いでなんていませんよ。ただ、何だかじっとしているのが勿体ないだけなのです」
「そっか。じゃあ、競争でもしてみる? あの階段の辺りまでさ」
「望むところですっ。それじゃあリキ、行きますよー……」

 手を繋いだままじゃ競争にならないけれど、クドが絡めた指を解こうとする様子はなかった。
 ならきっと、僕もこうしてていいんだろう。無理に離れる必要なんてない。
 汗ばんだ手のひらも、不思議と不快には感じなかった。

「れでぃー……ごー!」

 走り出す。
 今は二人並んで、同じ場所を目指して。










  それは奇跡のように










 色々な、本当に色々なことがあった夏が終わり、秋が過ぎ、冬を越して、春。
 僕はクドに、旅行に誘われた。それも、みんなと一緒じゃない、二人きりでだ。
 勿論申し出はすごく嬉しかったし心躍ったけど、問題は肝心の行き先だった。

 テヴア共和国。クドの故郷――つまり、外国。

 当然と言うべきか、僕はパスポートを持っていなかった。そもそも僕達の中で日本から出たことのある人はほとんどいないわけで(クドを除けば来ヶ谷さんだけだと思う)、具体的にどうやって申請するのかとか、何が必要なのかとか、そういうことを全然知らなかったものだから、そこでまず一苦労。
 特に僕の場合、両親共に亡くなっていて、親権は後見人さんが持っている。普段必要最低限の連絡しかしない相手に、いきなり外国まで旅行に出たいからパスポートの申請とお金をお願いします、だなんて言われたら、それは驚くだろう。
 クドに「そんな期待はしないでね」と答えておいたのも、色良い返事はもらえないとばかり思ってたからだ。
 ……なのに随分あっさりと後見人さんは頷いてくれて、正直拍子抜けした。
 もっとも、その後で僕は恭介が口添えしてくれたことを知る。いったいどこから聞いてきたのか、いやまあ教室で堂々と話してたし鈴や真人も近くにいたから、そっちを経由して耳に入ったんだろうけど、とにかく恐ろしい手際の良さだった。

「俺達に遠慮するなよ。二人で楽しんでこい」

 パスポートの件について訊ねに行った時、恭介は僕にそう言った。
 お前は能美を選んだんだ、何も気兼ねすることはない、と。卒業まで残り少ない日数なのに、十人全員でいられる時間はもう僅かだっていうのに、満面の笑顔で言ってくれた。

「……やっぱり、恭介はすごいね」
「ははっ、何だ、今更気付いたのか?」
「ずっと前からわかってたよ。でも、改めてそう思った」

 変わらない態度が、有り難かった。
 そうして僕達は恭介を送り出し(仕事は四月からだけど、既に一人暮らしのための部屋は借りているらしい)、諸々の準備も済ませて間もなく、クドと日本を飛び立った。新幹線に揺られ、空港で揃って出国手続きをして、およそ半日の空の旅。向こうに着いてからもいくらか移動したけれど、最終的に案内されたのはクドのおじいさんの家で、テヴアに滞在する間、僕も泊めてもらえることになっていた。ただ、

「うぅ……」
「大丈夫ですよリキ、おじい様は優しい人ですから」

 交換条件というか……クドが僕を誘った理由が、僕に会ってみたいとおじいさんが言ってたから、みたいで。それだけじゃないとは思うけど、向こうにしてみればこっちは『孫に手を出した男』なわけだし、緊張するなっていうのも無理な話だ。
 一般的な家屋と比べても充分広い部類に入るだろう家の中で、使用人さんらしき女性に案内されたリビングにその人はいた。年齢を強く感じさせる銀色混じりの白髪と、クドと同じ、海のような深さを湛えるアイスブルーの瞳。落ち着きのある態度は紳士然としていて、なのにどこか眼光鋭く、威厳と気迫めいたものが伝わってくる。

「君が、直枝理樹君かね」
「あ、は、はいっ」

 開口一番、ロシア的な容姿に反しほとんど癖のない流暢な日本語で、クドのおじいさんはそう言った。
 僕は自分の声が上擦ったのを理解しつつ、破裂しそうなくらいドキドキと弾む心臓の鼓動を必死に宥めて頷く。
 隣でクドがくすりと笑みを漏らしたのが聞こえた。うん、初対面でいきなり怒鳴られるようなことはないってわかってるんだけど……わかってはいるんだけど、この状況、どう考えても『娘さんを僕に下さい』って感じだよなぁ……。

「そう固くなることはない。気を楽にして座ってくれ」
「ですよ、リキ」
「は……はい」

 それしか言えないのか僕は、とちょっと自己嫌悪を覚えつつも、勧められるまま目の前のソファに腰を下ろす。
 ふと並んで座ったクドと肩が触れて、ほんの少し預けられた体重に、言葉よりも確かな想いを受け取った。
 ……僕は今、信頼されているんだ。

「クーニャが随分と世話になっているようだね」
「いえ。こちらこそ、クドには色々と良くしてもらってます」
「そうか。君のことも含め、エアメールを通じて話は聞いていたのだが……どうやら嘘ではなかったようだな」
「……おじい様、私が嘘を書くって思ってたんですか?」
「ああ、いや、すまんすまん。やはり自分の目で確かめるまでは心配でな。しかし……」

 そこで僕を見やり、クドのおじいさんは僅かに頬を緩める。

「その心配は、完全に杞憂だったらしい。君となら……君達となら、クーニャは幸せでいられるだろう」
「………………」
「直枝君。孫を、よろしく頼む」
「――はい」

 三度目の返事は、緊張も声の震えもなく言えた。

「ところでクーニャ。直枝君とはどこまで行ったのかね?」
「わふ? どこまで、ですか?」
「うむ。まだ早いとは思うが、わしは曾孫の顔を見るのが楽しみなのだよ」
「曾孫……?」

 表情に困惑の色を浮かべたクドは、しばらく首を傾げてから、唐突に顔を赤くした。それこそ、ぼん、と音がしそうなくらいの勢いで。勿論僕も、クドのおじいさんが遠回しにどういう質問をしたのかは理解している。だからこそ恥ずかしくて、俯いた頭を上げるのが怖かった。一度目が合えば最後、本当に僕とクドがどこまで関係を持ったのか追及されそうで……。

「折角ここまでご足労願ったのだ。宿賃代わりに、色々と話してもらうとしようか」

 結局僕達が解放されるまで、一時間近く掛かった。










「危うく喋っちゃうところだった……」
「あんなに嬉しそうな顔をしたおじい様、初めて見ました……」

 リビングから揃って出た時、僕達はお互いに疲れの滲んだ声を上げた。
 何を、とは言わない。表立って口にしたら恥ずかしいことというのは、付き合っていれば出てくるものだと思うし。
 ともかくどうにか秘密を守り通し、夕食を頂いてから有り難くお風呂と部屋を借りて(さすがにクドと相部屋ってわけにはいかなかった)一泊し、翌朝。三人で朝食の席を囲んだ後、僕はクドの案内で海に来ていた。宿泊先、つまりクドのおじいさん宅から歩いて少しの場所にあって、長い長い堤防の上から、見渡す限りきらきらと光を反射する青色が窺える。
 眼下、視界一面に敷き詰められたような海は、すごく綺麗だった。語彙の貧弱な自分が恨めしく感じるほどに。

「……この辺りの海は、泳げるところじゃないですけど」

 気が済むまで二人並んで走ってから、息を整え終えたクドが、風に靡く亜麻色の髪を手で押さえて呟いた。
 釣られて僕も同じ方角を見る。堤防の向こう、広大で鮮やかな空と海がそこにある。

「私の、大好きな景色です。いつか必ず、リキに見せたいと思ってました」
「そっか。……うん、来てよかったよ」
「なら嬉しいです。勇気を出して誘った甲斐がありました」
「え、そうだったの?」
「もう、リキは私を何だと思ってるんですか。おじい様には連れてくるなら絶対紹介しろって言われてましたし、手紙にもリキのこと、いっぱい書いたので……その、実は私も来るまでは緊張してたんですよ」
「いやだって、僕がクドのおじいさんと顔合わせた時、全然緊張してなかったよね?」
「あれは、リキがあんまりにもガチガチだったから逆に安心したんです」

 確かに……我ながら実に情けなかったなぁ。
 軽く落ち込むと、肩を優しくクドに叩かれた。

「大丈夫です。おじい様もリキを認めてくれたみたいですし」
「そうなのかな……だといいけど」
「だから元気出してくださいっ。暗い顔をしていては楽しいことも逃げてしまいますっ」
「……クドの言う通りだね。ごめん、弱気になっちゃってて」

 苦笑し、僕はありがとう、と付け加える。
 クドは「どういたしましてです」と返してから、慌てて「ゆーあーうぇるかむですっ」に言い直した。
 相変わらずの舌足らずで棒読みな発音。けれど、そういうところがクドらしい。今度は可笑しくて喉から声を漏らし、

「あ、クド、見て」
「どうしました?」

 僕が指差した方、高い空を、飛行機雲が流れていった。
 白い軌跡は視界の左側から太陽へ向かうように続き、水平線の辺りで途切れてしまう。
 淡く、儚く空の青に溶けていくそれを消えるまで眺めて、クドは堤防に両手を置き、僅かに上半身を海の方へと傾けた。
 右手に掛かったふたつのシルバーバングルが、からんと乾いた音を立てる。

「リキは、前に私が見せた絵葉書を覚えてますか?」
「絵葉書って、あの、空の写真?」
「はい。50ノーティカルマイルの空。おかあさんが送ってくれたものです」

 おかあさん……その単語を耳にして、僕は思わず口篭もった。
 でも、気にすることなんてないというように、クドは話を続ける。

「一緒に見に行くって約束は、もう果たせませんけど……きっと、今でも繋がってると、思いますから」

 大きく空いた、黒いドレスの背中。
 そこに一瞬、うっすらと紋様らしきものが浮かび上がった、気がした。

 ――世界と……、樹、ですか?

 いつの記憶だったのだろう。ただ、どこかで僕はクドのそんな声を聞いていたように思う。
 どれほどの距離を隔てても。決して手の届かない場所にあっても。信じれば、繋がったままだという言葉を。
 だからそれは、クドにとって間違いなく真実で。僕にとっても、真実だ。

「ここからでも、見えるかな」
「……どうでしょう。もしかしたら、見られるかもしれませんね」

 なら今、僕達は繋がっている。同じ空の下に立って、同じ景色を共有している。
 絆を、目には映らない、けれど確かにそこにある何かを、信じている限り。

「クド。戻ろっか」

 僕は彼女の名前を呼ぶ。
 その二文字は、片道切符のクドリャフカではない、愛しい少女のもの。
 眩い朝の陽射しを亜麻色の髪に纏いながら、首だけで振り向いたクドは、











「はいっ!」

 喜びに満ちた笑顔で、頷いた。










 あとがき

 結構いっぱいいっぱいになりながら書き上げた二本目。
 発端は表にも展示してある、ごすさんに頂いた一枚のイラスト。チャットの方でどういう場面のものなのかを聞いた時、ふっと脳裏にワンシーンが浮かんだので、よしじゃあこれでちょっと書いてみようかと思ったわけです。
 しかしまあ、挿絵扱いで書いて挿入するの本当に楽しいなぁ! もうそのシーンに辿り着きたくて仕方なかった。
 だからとは言いませんが、前半若干おざなりになってしまったのは反省すべきところかもしれません。いや、クドのおじいさんとかなるべく情報絞ろう絞ろうと思って仔細な描写避けたらああなりました。というか本当は10KBも超えないつもりだったんですけど、いつの間にか普通に掌編レベルの分量に。
 あと、毎回タイトル一番最後に決めるのはどうにかしたい。こういうイメージ先行系は得てして行き当たりばったりだから困ります。いやホント何とかならないかなぁ……と悩んで、結局またも水月さんの曲から拝借しました。
 muzieの方でダウンロードできる、個人的にこれも死ぬほど好きなBGM。作業曲に最適。



ばっくとぅいんでっくす、なのですっ


専用掲示板にじゃんぷですー



何かあったらどーぞ。


めーるふぉーむ


感想などあればよろしくお願いしますー。


←返信しないで、って場合はこれにチェックどぞー