朝、天気予報では降水確率五十パーセントと言ってたのを覚えている。起きた時からもう空はどんより曇ってたし、頬を撫でる風も少し湿っていて、お昼は恭介達といつ降るかなんて話をしていた。 放課後までにぱらついてきたら練習は中止、って感じでまとまったけど、空気は多少冷たいものの降りそうで降らないまま時間が経ち、結局いつも通りみんなでグラウンドへ集まることになって――雨が降り始めたのは、僕達が揃って部室から出てすぐの頃だった。 「ずっと心配してたけど、何でこのタイミングで降ってくるかなぁ……」 寮には走れば五分も掛からず辿り着ける距離だし、正直油断してて傘を持ってくるのをすっかり忘れてた。他のみんなもどうやらそうだったらしく(来ヶ谷さんと恭介はわざと持ってこなかった。西園さんは一人だけちゃっかり持参)、少しでも濡れないようにと急いで戻る。今までずっと我慢してたのかと思うほど雨足はかなり強く、あっという間に全身がびしょ濡れになってしまっていた。僕の隣に並んで帽子が飛ばされないよう頭を抱えながら走ってるクドも、マントや服、亜麻色の髪の先端から水が滴っている。 冬も間近のこの時期、気のせいでなければ吐く息は白く煙っていて、手足も感覚がなくなりそうなくらいに冷たい。 戻ったらすぐにお風呂に入って着替えないと、風邪を引いてしまうだろう。 「寮に到着なのですっ!」 「うん、じゃあまた後でね」 「はいっ」 きっと夕食の席でまた顔を合わせるから、そんな言葉と共に軽く手を振って別れようとし、 「……え?」 「わふっ!?」 いきなり身体が宙に浮いた。すっと僕とクドの間に割り込んできた人影が、僕達を片手ずつで抱きかかえたのだ。 抵抗する隙も与えられず、こっちが意図しない方向――女子寮の方に運ばれていく。 僕は首だけを捻り、華奢ながら背の高い人影に向かって声を掛けた。 「ちょっ、ま、待って来ヶ谷さんっ」 「喋ると危ないぞ少年。舌を噛む」 「そういうことじゃなくて……! 何で僕が来ヶ谷さんに抱えられて女子寮まで連れてかれてるのさっ!?」 「キミ達はびしょ濡れだからな、一刻も早く身体を温める必要がある。それでだ」 「全然説明になってないよっ!」 「ということで私の部屋まで行こう。何、心配はいらない。知っての通り個室だ、誰かに見られる心配はないぞ」 「そういう問題でもないんだけど……!」 会話の間にも、来ヶ谷さんはまるで速度を落とさず駆け続ける。新館の外周をなぞるようなコースで抜け、旧館玄関を目指しているらしかった。二人分の体重を平然と支え、雨に足を滑らせることなく走り抜けるその姿はすごく凛々しい。しばし僕は来ヶ谷さんに見惚れ、ふと反対側の腕で抱えられているクドに目をやった。 「……ねえ、来ヶ谷さん」 「どうした?」 「クド、目を回してるみたいだよ……?」 「わーふー……」 「む、これはもしや今なら悪戯し放題ということか」 「絶対やっちゃ駄目だからね!?」 「………………」 「いや、そんな物凄く残念そうな顔をされても……」 「少年がそういうのなら仕方ない。ここは涙を飲んで我慢しよう。と、着いたぞ」 「え?」 顔を上げる。確かに、そこはもう来ヶ谷さんの部屋の前だった。 両手が塞がっている来ヶ谷さんに代わり、手を伸ばして僕がドアを開ける。 中に入るや否や僕達をそっと下ろした来ヶ谷さんは、箪笥からバスタオルを二枚取り出し、一枚を僕に渡してくれた。 「とりあえずはそれで身体を拭くといい」 「あ、うん、わかった」 長い髪いっぱいに水を含んだ二人に比べれば、僕の労力は少ない。 頭から順に拭き取っていき、クドを揺すり起こして立ち上がらせる。 結構バスタオルは湿っちゃってるけど、何もしないよりは遙かにマシだ。まだ頭がはっきりしてないらしいクドの髪を手で掴み、芯の方にある水気を丁寧に取り去っていく。 そんな僕の様子を眺め、来ヶ谷さんは目を細めて呟いた。 「……随分手慣れているな、理樹君」 「そうかなぁ……」 「うむ。女性の髪の扱い方を心得ている、といった感じだ。私も拭いてもらえばよかったか」 「来ヶ谷さんなら僕よりよっぽど上手くできると思うけど……」 「……わふ、ここはどこです?」 ようやく現状を振り返る余裕ができたのか、クドはきょろきょろと辺りを見回し首を傾げる。 来ヶ谷さんの姿を認め、次に自分の髪を拭いている僕に気付き、それでも理解し切れず疑問の表情を浮かべたところで、いつの間にかふっと距離を詰めていた来ヶ谷さんがクドを正面から抱きしめた。 服は水が絞れそうなほど濡れてるのにも構わず。 「ああもう、本当にクドリャフカ君は可愛いなぁ」 「むー、むぐーっ!」 うわぁ……。来ヶ谷さんの胸にクドの顔がすっぽり埋もれてる……じゃなくて。 「来ヶ谷さん、クドが息できてないから離してあげて」 「む……名残惜しいが仕方ない」 「ん、ぷはぁっ! ち、窒息死するかと思いました……」 「大袈裟に言ってるわけじゃないってところがすごいよね……。それでクド、ここがどこかわかった?」 「えっと……もしかして、来ヶ谷さんのお部屋ですか?」 「正解だ。ということで見事当てたクドリャフカ君には、ご褒美としておねーさんのハグをプレゼントしよう」 「いやいや、それってただ来ヶ谷さんが理由付けてもう一回抱きしめたいだけだよね……」 「うむ」 そんな満足そうに頷かれても。 来ヶ谷さんの魔手から少しでも逃れられるよう、僕はクドをさり気なくこっちに引き寄せる。 けれど掴んだ肩に掛かったマントからぐしょっとした水気を感じ、一瞬手が止まった。 この調子だと、身体はかなり冷えてしまってるだろう。現に僕も無意識のうちに全身が震えていて、寒い。 クドが小さく「くしゅっ」とくしゃみしたのを見て、来ヶ谷さんは口を開いた。 「ほら、さっさと風呂に入っていけばいい。今なら熱い湯船も用意してあるぞ」 「いつお湯を入れたのさ……。っていうか、僕達着替え持ってきてないんだけど」 「それについては心配要らない」 と、おもむろに更衣室の方へ向かい、引き戸を開ける来ヶ谷さん。 手招きで呼ばれた僕とクドがその指の示す場所に視線を移すと、脱衣籠の中に畳まれた服が置いてあった。 ――見間違いでなければ、僕の私服だった。 「ちょっと待って、何で僕の服が来ヶ谷さんの部屋にあるの!?」 「機密事項だ。……さて、クドリャフカ君には私の服を着てもらおう。些か大きいと思うが、我慢してくれ」 「はい、でもあのー……いいのですか?」 「何がだ?」 「お風呂をお借りしてしまって、その上服まで使わせていただくことに……、わふっ!?」 「……理樹君、もう今すぐやっちゃっていいか?」 「絶対駄目だからね」 来ヶ谷さんとクドをこの状況で二人っきりにさせたら、なんて考えると恐ろしい。 僕は溜め息をひとつ吐いて、また窒息しかけていたクドを開放してもらった。 「でも、僕達だけじゃなくて来ヶ谷さんもびしょ濡れだよね? 順番から言えば来ヶ谷さんが先じゃないのかな」 「私を数に入れる必要はない」 「え、どうして?」 「他に当てがある……と言っておこうか。まあ、こちらのことは気にせず二人で使って構わんよ」 「……本当に大丈夫なの?」 「理樹君は心配性だな。なら今ここで着替えようか? 濡れた服を脱いで毛布にでも包まっていれば安心だろう?」 「わあっ、ストップストップ! 本当に脱がないでよっ!」 僕が見ているのにもかかわらず上着を床に落とした来ヶ谷さんは、にやりと笑みを浮かべる。 もう上半身は白のシャツだけで、しかも水に濡れているものだから、肌にぴったりと張り付いて透けていた。 扇情的な姿に思わず目を逸らしてしまい、それで殊更来ヶ谷さんが楽しそうに笑ったのがわかった。 「はっはっは。少年には些か刺激が強過ぎるようだな」 「うぅ……」 「まあ、ともかく私のことは忘れて、二人で存分に洗いっこでもしてくるといい」 「……珍しいね、来ヶ谷さんが自分も参加したいって言わないのは」 「私とて野暮な真似をするつもりはないさ」 そう来ヶ谷さんは言い残し、僕とクドを脱衣所に文字通り放り込んだ。 ぴしゃりと引き戸が閉められ、急展開に二人で顔を見合わせる。 今開けたらきっと着替えの現場に遭遇するだろうし……やっぱり、ここは諦めて入るしかないのかなぁ。 「……仕方ないか。じゃあクド、先に入っちゃって」 「いえ、リキが先に入ってください」 「クドの方が身体冷えてるでしょ。ほら、こんなに冷たくなってる」 「リキもべりーこーるどなのです。このままでは風邪を引いてしまいますっ」 お互いに譲ろうとするものだから、堂々巡りになって結論が出ない。 どっちかが譲歩すればいいんだけど、少なくとも僕は濡れたままのクドを置いて自分だけ温まる気にはなれなかった。 それはクドも同じなようで、二人揃って口篭もる。けれど時間は待ってくれなくて、体力を着々と奪っていく。 ――だからきっと、選択肢はひとつしかなかったんだ。 「あの、リキ。一緒に入りましょう」 「でもクド……何というか、いいの?」 「リキとなら平気です。のーぷろぶれむです」 「問題は山積みだと思うけど……わかった。ここで僕が悩んでる間にクドが風邪引いちゃったら困るしね」 「わふー」 湿り気の残る頭を軽く撫でると、クドは目を細めて為すがままにされてくれた。 「じゃあ、僕が先に脱ぐよ」 「わかりましたっ」 「……ねえクド、目瞑ってくれないといつまで経っても脱げないんだけど」 僕が服に手を掛けても直立したままのクドにそう告げると、慌てて両手で顔を隠した。 そんな仕草に苦笑し、一枚一枚を身体から取り去って隅にまとめて置く。一応来ヶ谷さんが持ってきた(いつ僕の部屋に侵入したんだろう)着替えをチェックしてみると、上下だけじゃなくちゃんと下着まで準備されていて、正直もうここまで来ると何て言えばいいのかもわからない。 ……後で帰ったら、他に物が無くなってないか調べておこう。 「あ、結構広いんだ……」 左手で股間を押さえ、後ろ手で扉を閉めながら風呂場を見渡す。勿論女子寮のお風呂を見るのは初めてだけど、二人なら窮屈に感じなさそうなくらいには大きい。湯船を覗いてみれば、確かに来ヶ谷さんが言ってた通り、七分目まで溜められた透明なお湯が薄く湯気を立てている。 とりあえず赤い蛇口をゆっくりと捻る。シャワーから冷水が流れ出し、程なくしてそれが熱を持った。 触れて温度を確認してから浴びると、思ったよりも熱くて小さく声が漏れた。全身が冷えているせいか、シャワーのお湯が当たっている箇所は異様に火照っているような感じで、特に手足の先はそれが顕著だ。だからしばらくは何もせず、熱さに身体が慣れるのを待っていた。 「……ふぅ」 温まってくると、余裕も出てくる。 髪を濡らすために伏せていた頭を上げ、そこでノックの音が聞こえてきた。 扉の向こう、ガラス越しにうっすらと映る小さなシルエットは、クド以外に有り得ない。 僕は備えてあったハンドタオルを手で隠していた部分に掛け、入ってもいいよと返事をした。 きっと大きめのタオルを胴体に巻いてるだろうけど、一応横を向いて。 「リキ、こっちを見てもいいですよ」 「え、本当に大丈夫なの?」 「はい」 風呂場の外の、冷たい空気と共に姿を現したクドは――何故か、紺色のスクール水着を着ていた。 しかも、胸に『くどりゃふか』とひらがなで書いてある。 「……それ、どうしたの?」 「来ヶ谷さんが用意してくださった着替えの下に……」 どう考えても来ヶ谷さんの趣味だった! クドの服は自分のだって言ってたし、完全に確信犯だよなぁ……。 いや、だけど、結果的にはよかったのかもしれない。 今の状況でクドも裸だったら、正直ここまで落ち着いてはいられなかったはずだ。 「とりあえずシャワー浴びて。だいぶ身体冷えちゃってるでしょ」 「わふっ、リキの手、すごくあったかいのですっ」 「そっちが冷たいだけだよ」 苦笑してシャワーヘッドを向けると、クドは目を細めて大人しくしてくれた。 頭からお腹の辺りまで万遍無くお湯を掛け、個室のはずなのにしっかり二つ置かれていた風呂椅子に二人揃って座る。 何となく直視するのはいけないような気がして、シャワーを壁の方に立て掛けてからはクドに背中を見せる形でいた。 「……リキ、どうしてこっちを見ないですか?」 「だって……いくら水着を着てるからって、あんまりじろじろ見るわけにもいかないでしょ?」 「別に、リキなら構いません。……その、ちょっと恥ずかしいですけど、嫌じゃないですから」 「………………そ、そっか」 「は、はいっ」 妙な空気になってしまった。全然この状態じゃ表情は窺えないのに、今クドがどんな顔でいるのか手に取るようにわかる。 それを誤魔化す意味も含め、僕は声を意図的に張り上げて言った。 「あ、ほら、ずっとこのままでいるのも変だし、とりあえず身体洗っちゃおう」 「そっ、そうですねっ! 野球の練習で汚れちゃいましたし、先に綺麗になっておくのが作法ですよねっ」 「シャンプーはこれでいいのかな」 「だと思います。はー、来ヶ谷さんはこういうものを使ってるんですねー……」 ラックの一番上にあった容器を眺めてみる。 シンプルなデザインながら、男性用のシャンプーとは明らかに趣が違う。同じブランドの物らしきリンスも横に並んでいるのを知り、来ヶ谷さんの艶やかな黒髪を思い出して、なるほどあの長い髪も丁寧な手入れによって保たれてるんだろうなぁ、と感心した。 手を差し出し、頭頂部を軽く押すと、クリームみたいにとろりとした液体が出てくる。それを両の手のひらで広げ、充分に濡れた頭に塗りたくった。少し荒っぽく指を立てて動かせば、すぐに泡が立ち始める。僕の髪の毛はさほど量が多くないから、洗うのはそれなりに楽だ。二分ほどわしゃわしゃとやって、シャンプーの残りがないようじっくり流す。 最後に滴る水が落ちるまで待って頭を上げると、クドが興味深そうにこっちを見ていた。 「男の人って、そんな風に頭を洗うものなんでしょーか……」 「うーん、どうだろう。真人なんかはもっと適当だよ。力任せに洗ってざっと水にくぐらせる感じ」 「そうなのですか。井ノ原さんらしいです」 「まあね。……そういえば、クドはどうやって洗うの? それだけ長いと大変そうだけど」 「あはは、大変ですよ。一回一回シャンプーもいっぱい使いますし、一人だと手が届きにくいところもあるので」 だろうなぁ……。 水を吸ってクドの肌に張り付いた亜麻色の髪は、座った状態だと床に落ちるくらい長い。 頭の上ならともかく、髪先の方は身体の前まで持ってこなきゃ触ることさえできないと思う。 そう考えて、ふと僕の口からこんな言葉が漏れていた。 「髪洗うの、手伝おうか?」 瞬間、あからさまにクドは動揺した。 何か言葉を返そうとするけれど、どうにも上手く言えなくて俯く。 「えっと、あの、その……わふ〜……」 「迷惑だったかな」 「い、いえっ、ぜんぜんまったくそんなことはないというか、でもその、リキは……私の髪なんか洗って、嬉しいですか?」 「……クドの髪は好きだし、綺麗だと思うから。手伝えるのなら喜んでやりたいかな、って」 「じゃあ……はい、お願いします」 僕は頷き、クドの背後に回る。 こうして近くで目にするとやっぱりボリュームがあって、確かに洗うのにも時間が掛かりそうだった。 クドが出した後で僕もシャンプーを手に取り、自分の時と同じように延ばす。 首元のところから、片手で房をまとめるようにしつつ指で梳き、全体に行き渡らせてから洗い始める。 「どうかな、痛かったりしない?」 「大丈夫ですー」 「ならよかった。今みたいな感じでいいの?」 「リキはとっても上手ですよ。気持ちいいですー……」 はふぅ、と吐息が聞こえてきそうなほど緩んだ声で呟き、クドは僕の手の動きを受け入れる。 シャワーのお湯が壁や床、僕達の肌を打つ音だけを聞きながら、洗い終わるまでの間、その髪を触り続けた。 仄かに漂う鼻に抜ける香りは、たぶん来ヶ谷さんのシャンプーから来るものだろう。 僕の頭からも同じ匂いが感じられるのかと思うと、何だか少し笑えた。 (そういえば、いつの間にかクドと一緒にお風呂入ってることにも慣れてきてたなぁ……) 来ヶ谷さんの思惑通り進んでるって考えれば、複雑な気分にもなるけれど。 こうしているのが嫌じゃないのは――むしろ嬉しくすらあるのは、ある意味当然のことだった。 「はい、おしまい」 「さんきゅーです。助かりました、リキ」 「毎日こうやって洗ってるの?」 「そうなのですよ。れでぃは普段から身だしなみに気を付けているものなのです」 「そっか、だからいつも綺麗な髪をしてるんだね」 「あ、改めて言われると恥ずかしいです……」 両手を膝に置き照れるクド。僕はそんなクドの仕草が微笑ましくて、さらに髪を梳いた。 「……わふー。そろそろ身体も洗わないと、お水がもったいないです」 「だね。タオルは……当たり前だけど一個しかないや。交代で使おっか」 ボディウォッシュ用の、泡が立ちやすい形のタオルを二つ折りにして、提案する。 けれどクドは何故か首を横に振った。畳んだタオルがクドの手に渡り、それにボディソープが垂らされて、 「折角リキと一緒に入れたので、洗いっこをしてみたいです」 「洗いっこって、つまり、えっと、お互い背中を擦ったりとか、そういうこと?」 「はいっ、お背中お流ししますぜ旦那ー、というやつです」 「それはちょっと違うと思うけど……」 揉むようにするとすぐ泡まみれになる。 もうほとんど泡の塊みたいになったタオルを掲げ、クドは僕に後ろを見せるよう促した。 示されるまま振り向けば、ざらついた感触が背中に当たる。 「いざ、参るのですっ」 気の抜ける掛け声と共に、クドの小さな手が背中の上で動き出した。 初めは様子見といった感じで力も弱く、正直撫でてるようにしか思えなくて、もどかしい。 「もう少し強くしてもいいよ」 「わかりました。んー……しょ、っと」 「うん、そうそう。気持ちいい」 「ほんとですか? ならこのまま頑張ってみますね」 「ありがとう」 「それにしても、リキの背中はおっきいです」 「え、そうかなぁ。僕は全然小さい方だと思うよ? まあ、クドよりは大きいだろうけどね」 「否定できないところが悲しいです……。でも、なんて言うんでしょう……リキの背中はすごく広く感じます」 「広く?」 「見た目よりもずっと頼りになるような、そんな背中です」 ぴたりとタオルが止まる。 代わりにクドは直に触れてきた。女の子らしい、ぷにぷにとした手のひらが背を撫でていく。 泡で滑りが良くなっているからか、くすぐったさはあまり感じなかった。 ――ああ、クドの手、本当に柔らかい。いつも繋いだり握ったりしているのに、慣れているはずの感触に僕はこんなにもドキドキしてしまっている。 「……リキの心臓の音が伝わってきます」 「どんな感じ?」 「どくん、どくんって……何だかすごく速いです」 「クドもおんなじなのかな」 「……はい。私も、リキと同じくらいどきどきしてます」 僕達は今、容易く抱き合えるほどそばにいた。 一度意識してしまうと、もう胸の高鳴りは抑え切れない。例え目を閉じても、クドの白い肌は鮮明に思い浮かべられた。 無意識のうちに喉がごくりと唾を嚥下する。タオルで隠した下半身の一部が微かに疼いた。 それがとても悪いことのように感じて、僕は平静を装いながら、言う。 「洗いっこ、するんだよね。じゃあ次は僕がクドの背中をやるよ」 「あっ、そ、そうでしたっ」 クドも緊張してたんだろうか、慌てた仕草で頷き、僕が振り返るのと同時、こっちに背を見せて、いきなり肩紐に指を掛けた。横に開くような形で引っ張り、そのまま一気に下ろす。当然そうなると水着を脱ぐことになるわけで、はっと視界に入った、おそらくは温かさで仄かに赤く染まった剥き出しの背中を前にし、僕は硬直した。 ちょっと、刺激が強過ぎる。 「クド、あの、えっと……何で水着脱いだの?」 「だって、着たままじゃ、背中は流せないです」 それはそうだ。なに当たり前のことを訊いてるんだろう、僕は。 我ながら混乱した頭で手渡されたタオルを右手に掴み、そっとクドの腰上辺りに当てた。 伏せられた頭の方から、小さく「ん……」と声が漏れ聞こえる。長い亜麻色の髪は邪魔になるからというように、後ろ手でクドが身体の前へと取り払ったようだった。そのため、染みのひとつも見当たらない綺麗な肌がさらけ出されている。 裸に近い姿だから、余計よくわかる。クドは、細くて小さい。小さくて、か弱い。 この肌も、少し強めに擦ったら傷が付いてしまいそうだ。 「もうちょっと、力を入れても大丈夫です」 「……平気?」 「見た目ほど貧弱ではないのです。リキと一緒ですよ」 「僕ってそんな風に思われてたんだ……」 こっちの躊躇いを見抜いたらしいクドに釘を刺され、僕は僅かに擦る力を強める。 「わふー、気持ちいいですー。さっきのリキの気持ちがわかったような気がします」 「ならこのまま続けるね」 全く汚れてるように見えないものだから、念入りに洗う必要はないんじゃないかって考えたりもするんだけど……男にはわからないことが女の子にもあるんだろうし、クドだって多分に漏れず綺麗好きなのかもしれない。 何より、あの長髪を維持していくのは並大抵のことじゃないはずだ。それくらいは僕でもわかる。 クドの頑張りを僕も一応ながら手伝えていると思えば、微笑ましくもなるのだった。 「終わったよ」 「お疲れ様ですっ。次は前を――」 「それは自分でやるから。クドは絶対後ろ向いてること」 「あっさり断られましたっ!?」 「クドだって、僕に前を洗われるのは嫌でしょ?」 「そ、それは……嫌かどうかと言われるとそれほどでもないといいますか、でもやっぱり恥ずかしいですしリキのお気に召さない可能性もあって、いつかは見せたいと思ってますけどまだ早いようなそうでないような、でもでも来ヶ谷さんみたいな感じに成長するという希望を捨て切れないうちは勇気が……わふ〜……」 あれ、そこまで追い詰めるつもりはなかったんだけど……。 とりあえず水着を着直してもらい、僕は自分の身体を洗い始める。そういえばこのタオルってクドの背中も洗ってたんだよね、と思い、次いで今更ながらにわざわざ時間を掛けて頭や身体を洗う必要はなかったことに気付いて、二重の意味で落ち込んだ。 ……もういいや、どうせ後でもう一回入るんなら適当にやっておけば。 微妙なところは避け、使い終わったら一度全身の泡を流すのと一緒に洗って、再度ボディーソープを付けてからクドに渡す。勿論僕はクドの方を見ないようにして、顔を手で覆った。予想通りというか何というか、また水着を下ろす音が聞こえたので亀のように縮こまり、顔の代わりに耳を塞ぐ。 真剣に洗わなくてもいいんだよ、とはどうにも言えず、結局肩を叩かれるまで体勢は戻せなかった。 「さて、いよいよお風呂タイムですっ!」 「ずっと入りたかったんだ、クド……」 熱を逃がさないための蓋を取り去り、丸めて湯船の外に除ける。 溜め終えてからどれくらいの時間が経ったのかはわからないけれど、未だに大量の湯気が上がっているのを見る限り、そんな長い間放置してたわけじゃないみたいだ。もしかしたら来ヶ谷さん、最初から僕達を自分の部屋に連れてくるつもりだったんじゃないだろうか。あの人のことだから、例え雨が降らなくても何だかんだと上手い具合にクドを誘導して、あわよくば一緒に……なんて考えてたっていう可能性も否定できないと思う。 「……実はすごく危なかったのかもなぁ」 「どうしました?」 「ううん、何でもない」 ここまで来たら、覚悟も決まっていた。きっと先にクドだけ入らせようとしても断られるに違いないし、当然逆は有り得ない。 そうなると選択肢はたったひとつ、僕とクドが同時に浸かるしかない。幸いと言うべきか、元々二人部屋として設計されているので、湯船も何とか膝を抱えずに済みそうな広さだった。 足を伸ばせるとまではいかないけど、これなら肩身を狭く感じることもないはずだ。 先に入るのは僕。爪先から身体を沈め、体育座りの姿勢で腰を下ろす。軽く肩が出る程度の深さ。 ギリギリ熱過ぎない、かなり丁度良い温度で、思わず大きく息を吐いた。 「リキ、とても気持ち良さそうな顔をしてるです……」 「自分で考えてたよりも疲れてたからなのかな。一時間くらいずっとこうしててもいいかも」 「それはよかったですっ。では、私も失礼しますー」 「うん、どうぞ」 大仰なクドの台詞に苦笑して、僕はスペースを空ける。 正面、三角に小さく畳んだ膝を向かい合わせるようにして、クドも湯船に浸かった。 二人分の体積を増して上がった水位は、背の低いクドの首元まである。薄く緑がかったような水面に、鎖骨辺りの肌色と胴体を包む紺色がゆらゆらと揺れていた。その後ろでは、結われることなく垂らされた髪が、扇状に広がって浮かんでいる。 「わふー。気持ちいいですけど、ちょっと息苦しいです」 「お湯の量が多いからね。来ヶ谷さんも後で入るつもりだったりして」 「今更ながら、私達が先に頂いてしまってよろしかったのでしょーか……」 いやまあ、来ヶ谷さんならむしろ喜ぶと思う。 「クドリャフカ君が入った後ならおねーさん大歓迎だよ」とか何とか。……うわ、すごい想像できるなぁ。 そんなことを考えていると、顔にぴちゃりと水飛沫が飛んできた。 目元を拭って見れば、そこには悪戯っ子のような表情を浮かべるクドの姿。 両の手が包む形で軽く握られていて、下半分は湯船に沈んでいる。懐かしい、手の水鉄砲だ。 懸命に水を飛ばそうとするクドの様子が可笑しくて、僕は頬を緩めながらお返しした。 「えいっ」 「わふっ!? リキの水鉄砲はぱわーが桁違いなのですっ!」 「昔に散々恭介達と遊んだからね」 「こちらも負けずにお返しするのです、わぷっ、あう、だめです、目を開けていられませんっ!」 「ふふ、はい、僕の勝ち」 「あいあむあるーざー、ですー……」 くたりと湯船の縁に背を付け、クドは吐息を漏らす。それから不意に腰を上げて、僕の方に移動してきた。 そして突然のことに僕が声を発するよりも早く、後ろ向きになったクドがこっちに身体を投げ出した。 僕に座るというか、体重を全部預けるというか、そんな感じの体勢。 「向かい合うのもいいですが、やっぱり私はこうするのが一番好きです」 「だからっていきなり乗らなくても……」 「……重いですか?」 「あ、いや、重くはないよ。ほんとに、全然。少しも」 「では、もうしばらくこのままでいてもいいでしょうか」 正直この状況は色々な意味でまずいんだけど、穏やかなクドの顔を曇らせたくなくて僕は頷いた。 気を紛らわせるため、湯に浮かんだ亜麻色の髪を一房手に取る。 先端が僅かばかりカールした、綺麗な女の子の髪。ずっと触ってても飽きないな、と思う。 しばらくそうしていると、クドは自分の髪裏の根元に手を入れ、まとめて身体の前に持っていった。 遮るものがなくなり、白く細いうなじが露わになる。間近で見たそこは何故か妙に艶めかしくて、意識せず指で撫でていた。 「ひゃうっ! リキ、くすぐったいですっ」 「ご、ごめん」 慌てて手を離し、けれど下げてしまうのは惜しい気がして、代わりと言うと変だけど、両腕をクドの肩上に通す。 覆い被さるような形で軽く抱きしめると、クドが正面、お腹の辺りに落ち着いた僕の手をそっと掴んだ。 満足そうに、目を閉じたのがわかった。 「……リキに、包まれてるみたいです」 「僕も。クドを包んでるみたいだ」 「どうしてでしょう、誰よりも、リキに抱きしめられると、安心できます」 まるでおひさまですね、とクドは呟いた。 「心がぽかぽかして……こうしてるだけで、幸せになれます」 「……じゃあ、もうずっとこのままでいようか。とりあえずは、のぼせそうになるまで、だけど」 「はいっ」 飽きるよりは、湯当たりする方が早いだろう。 僕らはここが来ヶ谷さんの部屋だってこともしばし忘れて、のんびり浸かり続けたのだった。 引き戸を開けたら来ヶ谷さんが目の前にいた。 「……って、何やってるのさ」 「見ての通り、壁に寄り掛かっていたのだが」 「そう言いながら耳を当ててるのはどうして?」 「それは勿論、中の音が聞こえないかと思ってな」 「……もういいです」 当然の如く先に僕が着替えて出てきたわけだけど、何というか、ここまで堂々としてるといっそ清々しい。 特に残念そうな素振りも見せず、立ち上がってベッドに座った来ヶ谷さんは制服姿だ。 部屋に戻ってきた時着ていたのはびしょ濡れだったから、きっと予備のだろう。 とりあえず、言うべきことを言っておく。 「お風呂ありがとう。長々と入っちゃっててごめんね」 「いや、構わんよ。私もただぼんやりと待っていたわけではなかったからな……っと、クドリャフカ君はまだかね?」 「僕がいる間は水着脱げなかったし。今着替えてると思うよ」 「ただいま着替え終わったのですっ」 来ヶ谷さんに告げるや否や、タイミング良くクドが脱衣所から出てきた。 まだ熱が残っているのか、うっすらと上気した頬。来ヶ谷さんの私服らしきものを身に着けているけれど、明らかにサイズが合ってなくて、袖の中に手が隠れてしまっている。何か、お父さんのを冗談で着たちっちゃい子供みたいだなぁ……。 なんて考えてるうちに、来ヶ谷さんがクドを抱きしめて頬擦りしていた。 「わふーっ!?」 「我ながらこれは可愛過ぎるぞ……。理樹君、やっちゃっていいだろうか」 「絶対にダメ」 「では一日だけでもクドリャフカ君と同衾を……」 「それも絶対にダメ。だって来ヶ谷さん、一緒に寝るだけで済ませるつもりないでしょ」 「うむ」 いや、だからそんな当然と言わんばかりに認めないでよ……。 僕が嘆息すると、こっちの心境を見抜いたかのように来ヶ谷さんは小さく苦笑の声を漏らした。 「まあ、冗談はともかくとして、二人とも戻るといい。貸した服は明日にでも返してくれれば大丈夫だ」 「わかりました、洗濯してお返ししますね」 「洗わなくても私は一向に構わないぞ?」 「……クド、何が何でも自分で洗濯しておくようにね」 「はい、それが賢明のような気がします……」 僕達はひそひそと言葉を交わし、最後にまた明日(クドはしーゆーあげいん)、と言い残して来ヶ谷さんの部屋を後にした。 そこで思い出す。 「忘れてた、ここ女子寮だ……」 頭を抱えるも、隣のクドは純粋な疑問の表情を浮かべる。どうやら全然わかってないらしい。 ……さっきまですっかり考えから抜けてた僕が言うのも何だけど、ちょっとそれはないんじゃなかろうか。 「あのね、一応僕、男だよ?」 「それはわかってますけど、リキ、何かおかしなところがあったのですか?」 「女子寮って、基本的に男子禁制だよね」 「そうです。――ああっ!?」 ようやく気付いたのか、はっとしたような顔になるクド。 「大変ですっ、このままではリキが変態さんとして捕まってしまいますっ!」 「いやそれはどうだろう……。でもまあ、あんまり長居はしたくないかな」 気のせいでなければ、僕が女子寮に足を踏み入れるのは黙認されている節がある。 ただ、ある程度認められてるからって自由にしていいわけじゃないし、僕自身居心地がすごく悪い。 そろそろ夕食の時間が近いこともあり、さっさと抜け出したいところだけど……。 「雨、まだ降ってるんだよね」 玄関から出て男子寮に戻るとすると、また濡れる覚悟をしなきゃいけない。 お風呂に入ったばっかりなのにそれは馬鹿馬鹿しいと思う。 かといって渡り廊下を経由して行くのは遠回りな上、女生徒の行き交う廊下を歩くことになる。 どうしようか、と眉をひそめていると、クドがふと手を挙げた。 「あの、リキ、もしよかったら、私の部屋まで傘を取りに行くので……玄関の方で待っててくれませんか?」 「……うん、わかった。先に行って待ってるね」 「ではすぐ行ってくるのですーっ!」 僕が答えるのと同時、ぴゅーっと音がしそうなくらいの勢いで飛んでいったクドの背中を見送る。 笑みを堪えながら走っちゃだめだよー、と声を掛けた途端すぐに速度が落ちたけど、それでも早足で歩いていく。 そんなクドが、僕は好きだった。 玄関に向かうまでの間、少しだけ考える。 戻ってきたクドに、こんな提案をしてみるのはどうだろう、なんて。 ――丁度いい時間だし、どうせならこのまま二人で食堂に行っちゃおうか。 あとがき 主催の一本目は、まあいつも通りと言えばいつも通りな内容なのでした。 要約すればびしょ濡れになった二人が来ヶ谷さんに引っ張り込まれてお風呂に入る話。 恐ろしいことにネタ被りという大惨事になってしまいましたが、書き手が違うんだからちょっとくらい雰囲気おんなじでも大丈夫だよね! とある意味割り切って書き切ったものだったりします。元テンチョーさんマジすみませんorz しかし私はどうやらお風呂描写が相当好きらしく、一次二次、長編短編問わず数えてみると、実に五本以上は執拗にシャワー浴びてたり身体洗ってたりするシーンを書いてたようです。我ながらどこまでそっち方面が好きなんだ。 あとはタイトル関連でひとつ余談。おそらく誰も知らないと思われますが、元ネタはユニゾンシフトのえろげ『忘レナ草 Forget-me-Not』で使われたBGM、私が死ぬほど愛してる水月陵さんの曲です。切ないながらも心がほわりと温まるピアノの音色が素敵な曲なのですが、もうサントラ手に入れるのは難しいだろうなぁ……。興味ある方はちょこっと検索してみるといいかも。ちなみに『忘レナ草』は、かの今では有名ないとうのいぢさんが現在の絵柄を確立した、ある意味デビュー作(名前が出てきたのはもっと以前ですが割愛)としてなら、多少は名が知られているかもしれません。いやどうだろう……。 とまあ、そんな感じで。他の皆さんのも負けず劣らずどころか主催を余裕で置いてけぼりにする勢いのナイスなSSですので、どうぞお時間ある方は目を通して感想送ってみてください。きっと書き手さんは超喜びます。 専用掲示板にじゃんぷですー 何かあったらどーぞ。 めーるふぉーむ 感想などあればよろしくお願いしますー。 |