『ぎあー ちぇーんじず』

拝復
 初秋の候、日本はすっかり涼しくなり、肌寒い日も増えてきました。そちらはまだ夏が続いていることでしょうが、おじい様はいかがお過ごしでしょうか。
 先日送って下さったお茶の葉も、とてもおいしく頂きました。友人に振舞ったところ、皆おいしいと言って本当に喜んでくれました。いつもありがとうございます。
 さて、お手紙で仰られていた件についてですが、私は







 末筆になりましたが、おじい様もどうぞご自愛下さいますようお願い申し上げます。
かしこ


 自然とあくびがこぼれました。
 鉛筆を置いて、背筋を伸ばそうと椅子にもたれかかると、思ったよりも大きな音が出てしまいました。
 暗く静かな部屋に、ぎぎぎ、と耳障りな音が響きます。
 振り返ると、先にお休みになっていた西園さんが、もぞもぞと寝返りを打っていました。
「……起こしてしまいましたか?」
 小声で訊ねてみましたが、西園さんは優しい寝息を立てるだけでした。
 私は机の上に散らばった消しゴムのカスを集めて、羽織っていたマントを脱ぎました。手紙に書いたとおり、部屋には冷たい空気が漂っていました。脱いだマントをクローゼットの天井の部分にハンガーで引っ掛けて、デスクライトを落とします。部屋が瞬く間に真っ暗になりました。
 手探りでベッドにたどり着き、掛け布団に潜り込むと、ほのかに肌寒さが和らぎました。
 明日はお休みで、午後から野球の練習があります。野球はとても楽しいです。
 おじい様に報告したら、喜んでいただけるでしょうか。
 携帯電話のアラームを設定して枕元に置き、すっかり慣れた硬い枕に頭を預けます。目を閉じると、すぐに眠気がやってきました。

 おじい様からエアメールが届きました。長い長い日本語の手紙でした。おじい様の字でひと言ひと言丁寧に、いつもの万年筆で綴られていました。
 おじい様の謝罪の手紙でした。
 おじい様はその中で、何度も何度も「すまなかった」と頭を下げていました。
 お母さんは、自分が認めてやろうとしないばっかりに焦ってしまったんだ。おまえにも辛い思いをさせてしまった。どうか許して欲しい。本当にすまなかった。と、そんな風に。

 早いもので、アラームが鳴りました。手探りで携帯を操作して、まずメロディを鳴り止ませます。
 ……が、布団の外は寒くて、私は昨日寝不足で、今日はお休みなのでした。皆さんとの約束の時間まで余裕を持たせてあったので、そのまま眠ってしまおうかと思うのですが……。
「能美さん?」
 薄目を開けて、声のした方に目をやりました。シックな薄手のセーター姿の西園さんが、隣のベッドに腰掛けて私を気遣わしげに見ていました。
「もう起きないと、お昼を食べる時間がなくなってしまいますよ?」
 私としたことが、お昼ご飯をすっかり忘れてしまっていたのでした。
 腹が減っては戦はできぬ。私は布団に包まりながら、ゆっくりゆっくり身体を起こしていったのでした。
 私が掛け布団を剥がしてベッドの上に座り込んだのを見届けると、西園さんは、
「遅くまで起きていたみたいですが……お手紙ですか?」
 そう訊ねてきました。
 以前、時候の挨拶など、日本の手紙の書き方について西園さんに教わったことがありました。それからというもの、私が手紙の返事に困るたび、なにかと気にかけてくれたのです。
「はい。おじい様から手紙が届きまして」
 答えてから、それが失言だったと気づいたのでした。
「……あっ、でも、今度のは一人で書いてみます。いつも西園さんに頼ってばかりじゃいけませんから」
 あはは、と笑って言うと、西園さんはほんの少し息をためてから、「頑張ってください」と言ってくれました。
 ……日本に来たばかりのころは、こういう笑い方が上手くできませんでした。いつもリキにばれてしまって、気を使わせてばかりいたのです。大好きな人に無用な心配させてしまうことが、私には耐えられません。
 だから、おじい様のこの手紙は誰にも見せたくないと思いました。
「私はこれから本屋へ行くつもりなのですが」
 西園さんは開いていた文庫本を閉じて、そう言いました。「能美さんもご一緒にいかがですか?」と続くことが分かりましたので、
「ありがとうございます。でも、ストレルカたちにもご飯をあげなきゃいけないので……」
 私の答えを聞いて西園さんは微笑んで頷くのでした。
「では。練習までには戻りますので」
 読みかけなのでしょうか。文庫本をベッドサイドに置いて西園さんは立ち上がって歩き出しました。
「いってらっしゃいです」
「はい。いってきます」
 後ろ手にドアが閉められました。
 天高き秋の日にふさわしい、明るい静けさが訪れます。
 それでも布団を出ると、じんわりと染みるような寒さが、部屋に広がっていたことに気づくのでした。それでもなんとか身体を動かし、私も私のことをするようにしました。冷たい水を我慢しながら、歯磨き洗顔を済ませて部屋に戻ってきました。マントをベッドの上に放り出して、クローゼットを眺めます。
 動きやすい服か、お気に入りの服か。
 冬服を殆ど持ってきていなかったこともあり、選択肢が限られてしまいます。迷った挙句、薄手の服を重ね着して、その上にお気に入りのカーディガンを着込み、マントを羽織る、といった格好になりました。
 戸棚からわんわん元気をふたつ取って、私も部屋を後にします。まずヴェルカとストレルカのご飯。それから食堂に行くことにしました。

 玄関から外に出ると、真っ正面から強い風が吹きつけてきました。ばたばたとマントがはためいてしまって、私はそれを必死で押さえつけます。木枯らし……と呼ぶにはまだ早いですが、私からすると冷たくて仕方がありません。
「あははっ、能美さん大丈夫? 飛ばされないようにね〜」
 午前の練習を終えた運動部の方でしょうか。半そでにスパッツ姿の人がすれ違いざまそう声をかけてきました。
「……はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 風の中、振り返ってお返事をしようとしたときには、もうその人はガラス戸の向こうに歩き去っていました。
 私は顔を上げて、目を閉じてなんとか風をやり過ごしながら、中庭に向けて歩きました。中庭では太陽が高くに照っていて、オレンジ色になりかけたケヤキの葉っぱが風でさざめいていました。
「ヴェルカ〜、ストレルカ〜、ご飯ですよ〜!」
 呼びかけるとすぐにそれぞれ別の方向から姿を現し、こちらへ駆け寄ってきます。
「ふたりとも元気でした、か、わふっ!」
 ストレルカにじゃれつかれて、私は芝に尻餅を着いてしまいました。もうストレルカは大きくなりすぎて、私じゃ支えきれません。
「そんなに急がなくても、ちゃんと二つありますよ〜」
 缶を取り出そうとポケットに手を突っ込んだとき、今度はヴェルカが肩にしがみついてきて、私はとうとう仰向けに倒れてしまいました。
「ふふっ、ヴェルカはほんと甘えんぼさんですね」
 耳に指を入れてあげると、気持ちがいいのかヴェルカは私の顔を舐めてきました。それに負けじと、反対側のほっぺたにストレルカが鼻を押し付けてきました。
 二匹の毛皮は本当に温かくて、そのままでいると風も全然感じませんでした。ずっとこうしていれば、気持ちいいままでいられるのに。
「……クド? なんか大変そうだけど、大丈夫?」
 よく知った声がしました。
 顔を上げると、グローブをはめたリキが、私のことを覗き込んできました。
「おはようございますっ!」
 私は慌てて起き上がり、リキと向き合います。恥ずかしい場面を見られてしまいました。
「うん、おはよう。なにしてたの?」
「今ちょうどヴェルカやストレルカにご飯をあげていたところなのです」
「そうなの? そんな感じには見えなかったけど……邪魔しちゃった?」
 リキは申し訳無さそうにそう言うので、
「いえ、そんなことありません!」
 と、私は答えました。
「なんかすごい睨まれてるんだけど……」
 足元でストレルカが、低い声で一つ鳴きました。
「きっとおなかが空いてるんですよ。そうですよね、ふたりとも?」
 あとでいっぱい遊んであげますから。
 そうウィンクしてわんわん元気を差し出すと、ふたりは渋々といった感じではありましたが、ご飯を食べ始めてくれました。
 私は改めてリキに向き直りました。
「リキはなにしてたんですか? まだ、練習の時間じゃありませんよね?」
 訊ねると、リキはなにやらハッとして、困った顔をしました。
「……ああ、忘れてた。うんとね」
 リキが話し始めようとしたとき、その後ろから、またよく知った声が聞こえてきました。
「遅い! なにやってんじゃ!」
 そして校舎の影から、グローブを脇に抱えた鈴さんが姿を見せたのです。
「と、まぁ、こんな感じなんだけど」
 そう言ってリキは苦笑いしました。
 こちらに歩いてきた鈴さんが私に気が付きました。
「クドか。おはよう。今日もストレルカとヴェルカ、元気そうだな」
 ストレルカたちのまえに座り込んで、優しく笑いながら挨拶をしてくれました。
「はいっ! おはようございます!」
 このごろ鈴さんは、私にも笑って話してくれるようになりました。以前部屋をご一緒させていただいていたときは、目も合わせていただけなかったのに。
「まぁそんなわけで、キャッチボールしてたらこっちに球が飛んできちゃったわけなんだけど」
 リキは話しながら、辺りを見回しました。私もつられて周りを見ると、植え込みの下に白いボールが転がっているのを見つけました。リキも気づいたようで、そちらへ向けて歩いていきます。
「うん、あった。ごめんね邪魔しちゃって」
 いえいえ、と私は首を振りました。リキは私に笑いかけて、そのまま歩き去ろうとするのですが、
「……鈴? どうしたの?」
 鈴さんが立ったまま、私のほうをじっと見つめていました。
「どうかしましたか?」
 鈴さんはもじもじとグローブを弄りながら、なにか意を決するような目をして、言ったのです。
「クド、暇か? あのだな。これから一緒に……」
 一緒にキャッチボールしないか? と鈴さんは聞いてきたのです。
 お昼はまだでした。でも寝起きだったこともあり、あまり食欲がありませんでした。小毬さんが持ってくるお菓子をいただけば、なんとか晩ご飯までは持つ気がします。
 私は、私とリキと鈴さんでキャッチボールをする風景を思い浮かべました。
 鈴さんが投げためちゃくちゃなボールを、リキは必死に受け止めようとするのです。そして私に、優しい山なりのボールを投げてくるのでしょう。そして鈴さんにボールが回り、リキはそれをまた追いかけていくことでしょう。見たこともないような笑顔のまま。
「えっとですね……日本のことわざにこんなものがあるのです」
 ん? と鈴さんとリキが、揃ってクエスチョンマークを浮かべます。
「人の恋路を邪魔するやつぁ、馬に蹴られて死んじまえー! なのです!」
 びしっ! と私が言い切ると、リキは見る間に顔を赤くしました。
「ちょ、ちょっとクド! なに言ってんのさ!」
 リキは慌てて鈴さんを振り返り、鈴さんはポカンと口を開けて私を見ていました。その姿がおかしくて、私は笑いました。
「私はお昼がまだなのです。ですから、また練習のときご一緒しましょうね、鈴さん」
 あはは。私はお辞儀をしてから、ワンワン元気の空き缶を拾って、お二人に背中を向けました。後ろから、「いきなりあんなこと言い出すから、びっくりしたよ」「……なんかくるがやとかに似てきたな」と、二人の話し声が聞こえてきました。
 早足になったりしないよう気をつけながら、私は学食に向かいました。



 練習が始まりました。最初に恭介さんがバッターをやって、鈴さんとリキがバッテリーを組んでいます。私はセンターのポジションでボールが飛んでくるのを待っていました。
 カキン、と軽い音がして、ボールが打ちあがりました。ショートストップの来ヶ谷さんが、手をかざして空を仰ぎます。
 青空に薄くかかる、高い雲。吸い込まれていくように、ボールはどこまでもどこまでも飛んでいきました。
 それを見上げながら、子供のころを思い出しました。
 あの空の先にお母さんがいる。そう思って、いつでもこうして空を見ていたのです。大きくなれば、いつかはそこに手が届く。そう信じていたのでした。
 ぼて、という情けない音を立てて、ボールが土の地面に跳ねて転がりました。レフトの小毬さんがそれをわたわたと拾い、内野に投げ返します。
 私と同じで、なにをしようとボールは空に届かないのでした。
「鈴! 次はもうちょっと厳しくいこうか!」
 リキの声がグラウンドに響きました。鈴さんがそれに大きく頷くのが見えます。
 リキはマスクを被っていて、外野からではどんな顔をしているのかも分かりませんでした。内野のみんなと小毬さんの大きな声に後押しされて、鈴さんはまた振りかぶり、リキに力強いボールを投げつけるのでした。

 お母さんはお前といつか、宇宙の話をしたいと言っていた。お前と同じ空を見ながら、そこがどれほどに素晴らしい場所か教えてあげたい、と。
 おじい様の手紙にそう書かれていました。それが叶わなくなったのは自分のせいだ。おじい様は言っていました。
 私はもう、そこにたどり着きたいとは思っていません。背がちっちゃくて英語もできない、そんな私には、土台無理な話だったのですから。
 おじい様の手紙にはこうも記されていました。
 お前にもう辛い思いをさせたくない。一緒に暮らそう。お父さんと話をした。英語や物理学の勉強をしたいなら、その準備だってする。お前の元気な姿が見たい。

「能美! ボール行ったぞ!」

 不意に、恭介さんの声がしました。
「わふぅっ!?」
 頭に衝撃。足元に転がるボール。遅れて、頭の奥に響いてくるような痛み。
 私は、ボールが当たった場所を押さえて、思わずその場にうずくまってしまいました。
 まわりにみんなが集まってきました。
「クド、大丈夫!?」
 リキが駆け寄ってきました。
「……だいじょぶ、か?」
 その後ろには鈴さんも。
「どこに当たった、痛むか?」
 恭介さんの手が私の顔を上向かせました。おでこを押さえていた手を恐る恐る離すと、西園さんがそこに濡らしたハンカチをあててくれました。冷たくて気持ちがいい、と思う反面、私を見下ろす西園さんの心配そうな顔が、申し訳なくなりました。
「も、もう大丈夫です。……ちょっとビックリしてしまっただけですから」
 そう言っても皆さんは不安そうに私を見るばかりでした。私は大げさに痛がってしまったことを後悔しました。
「最近寒くなってきて、ついボーっとしちゃうんですよね」
 あはは、と笑って、ようやく少し皆さんの表情が和らぎました。
「こぶになってます。一応、それなら安心とは言われてますが」
「それでも、休んでた方がいいんじゃない? 頭のケガだし……保健室、も今日学校休みだし」
 リキが深刻そうに言うものですから、私は慌てて、
「ですから、なんともありませんって! それに、皆さんにご迷惑もかかりますし」
 そう言ったのですが、リキは譲ってくれません。
「迷惑なんてこと、絶対ないから。クド、調子が悪くなるようならすぐ言うんだよ。……西園さん、クドのことお願いできる?」
「はい、わかりました。……能美さん、立てますか?」
 結局私は西園さんに支えられて、木陰まで歩いていきました。小毬さんのランチマットの上に寝かせてもらいました。西園さんは隣で、ずっと私のおでこにハンカチをあてていてくれました。
 皆さんがあんまり私を気にするものでしたから、私は、
「皆さんの元気な声を聞いていると、私も安心できます。どうか続けてください」
 そうお願いしてしばらく経って、また野球の練習が始まりました。
 コキン、というかん高いが響くようになりました。そのうち皆さんの明るい声が聞こえてきました。身体を少しだけ起こすと、グラウンドに私の大好きな風景が広がっていました。みんなが一生懸命になって、たった一つのボールを追いかけている。もしかしたらこの風景は、あの事故で失われていたかもしれない。そう思うと、私は怖くなるよりも、ただありがたい、なにかに感謝したいと、そう感じられたのでした。
 理樹は迷惑なことなんてない、と言いました。
 私があの輪の中に居ようが居まいが、皆さんは全力でボールを追うだけなのでした。
 センターにボールが飛びました。
「よっしゃああ! 任せろ!」
 うおおおおおっ! と雄叫びを上げながら、ライトの井ノ原さんが猛然とボールに突っ込んでいきます。盛大に湧き上がった土ぼこりの中で、井ノ原さんは誇らしげにグローブを掲げるのでした。

 『世界の良き歯車になれ』とお母さんは私に言いました。私は私の名前の由来になった、一匹の可哀想な犬みたいな、誰かの夢とか、そういうものを動かす歯車にはなれそうにありません。でも、私の好きな人たちのための歯車になら、なりたいと思うのです。みんなを笑わせて、みんなが楽しく過ごせるならそれでいいのです。それなのに私はいつも、みんなを心配させてばかりです。みんなの時間をただ無闇に止めてしまうのです。
 私はリキが好きです。リキは鈴さんと結ばれて、お二人は幸せになって、それでよかったはずなのに、私はリキが好きな気持ちが捨てられないでいるのでした。
 私は歯車に紛れ込む砂粒だったのでした。
 いっそ自分から消えてしまえばいいはずなのに。いっそ、全部失うつもりでリキに気持ちをぶつけてしまえばいいのに。
 でも私は、リキも、鈴さんも、リトルバスターズのみんなも、捨てられないのでした。
 私は歯車になりたい、みんなのためになにかしたい。そう願う一方で、私は私の身勝手な気持ちがいとおしいのです。
 どうすれば良き歯車になれるのですか?
 訊いてみたいと思っても、それはもう叶わないことなのでした。
 私はつい泣いていました。ハンカチが、そっと目じりを拭いました。西園さんが私の目を覗き込んでいました。
「なにかあったのですね?」
 私は答えませんでした。
 そして、こんなことを口にしていました。
「私は、どうすればいいのでしょうか」
 西園さんは私の言葉に驚いたようでした。どうして私はこうやって、周りの人を困らせてしまうのだろう。情けなくなって、私はまた泣いてしまいそうになりました。
 西園さんのハンカチが、また私の目じりを押さえました。
「なぜ、小説に必ず人間が登場するかわかりますか?」
 今度は私が驚く番でした。
 西園さんが私の言葉に答えてくれたことよりも、西園さんの表情がいままでになく真剣だったことに驚いたのです。
「私も多分、能美さんと同じことを考えていたことがあります。私はなんのために居るんだろう、と。以前、能美さんは歯車のことを仰られていましたよね」
 そう言って西園さんは青空を見上げました。私もそれに倣いました。高い高い空に真っ白な千切れ雲が一つだけ浮かんで、風に流されていくのが見えました。
「よく小説などで、人は歯車に喩えられたりします。長い歴史の中で全く別の人間が同じ道を辿っていたり、大きな世界の中で部品のように扱われていたり。そういう姿を指して、歯車だ、と。人は皆歯車である、と。……能美さんは、どうすれば歯車になれるか、と言いましたが、こういう意味で人間は歯車以外のものにはなれないのではないでしょうか」
 西園さんは空を見たまま話していました。
「小説を読む人たちは、小説に書かれている歯車の人々に想いを重ねて、その存在を救いにするのです。ですから、人はそこに居るだけでいい」
 もしかしたらこの西園さんの言葉は、なにも私だけに向けられたものではないのかもしれない。そういう風に思いました。
「でも、すべての人間が交換が利く歯車なのだとしたら、今存在する小説だけで既に書き尽くされてしまっている。そう思いませんか?」
 西園さんは、今度は私に視線を下ろしました。はっきりと私の目を見て、私にそう訊ねてきたのでした。
 よくわからないながら、私は頷きました。
「なのに、小説には今でも人間が書かれ続けている。それは、未だに人が書かれ尽くしていない。そのことの表れなのだと思います」
 私が分からないような顔をしていると、西園さんは微笑んで、こう続けました。
「つまり、人が生きようと思えば、必ずまだ誰にも書かれていない部分がある。そういうものだということでしょう。人には自分で自分を書く余地が残されている。私にも、能美さんにも」
 能美さんがお話を聞いてくれてよかった。
 西園さんは最後にそう付け足して、恥ずかしそうに水筒を開け、ハンカチをぬらしました。
 私には、西園さんが言ったお話の本当の意味は受け取れませんでした。ただ一つ、西園さんが最後に言ってくれた言葉が、嬉しくてなりませんでした。
 休憩でしょうか。皆さんが練習を中断して、木陰に集まってきました。
「調子はどう?」
 リキが言いました。私が「ぐっどです」と答えると、リキは笑ってくれました。
「あ、恭介さんと、鈴さん。お話があるのですが」
 お二人が私を見ました。
 西園さんがどんな思いで先ほどの話をしたのか、私にはわかりません。西園さんは西園さんで、誰かに話さないではいられないことだったのかもしれません。私が思っているのとは違った、もっと深い意味が込められていたのかもしれません。
 ですが、私にはこんな言葉に聞こえたのです。
「あのですね、一度、ピッチャーにちゃれんじしてみたいのですが」
 私はこれから、私が本当にそうなりたい、と願う人間になれるかもしれない、と。
 恭介さんと鈴さんが、お互いに顔を見合わせました。
「あー! クド公ずるい! 私もやるーっ!」
 三枝さんが横から割って入ってきました。
「なら、私もやってみたいな〜」
 続いて小毬さんまで。
 恭介さんと鈴さんと、そしてリキは三人で顔を見合わせました。鈴さんが黙って頷くと、一つ鈴の音がしました。
「……なら、みんなしてやってみようか?」
「そうだな。そろそろ変化があってもいいころだ。……だがいきなりは投げられないだろう。一人が投げてるあいだに、別の一人が準備できるようならいいんだが」
 恭介さんが腕組みして言うと、
「キャッチボールくらいなら、お手伝いできると思います」
 控えめに、西園さんが手を挙げました。
 恭介さんは驚くものと思っていたのですが、なぜか不敵に笑って見せて、
「よし。なら早速、練習再開だ!」

 キャッチボールの後、私は初めてマウンドに立ちました。自分の周りにはなにもなく、目に入る味方はキャッチャーのリキだけで、それも随分遠くに感じられました。
 バッターボックスには、鋭い眼を光らせている鈴さんが立ちました。素振りをするたび、鈴の鳴る音と風を切る音が聞こえてきます。
 ただ私は、それでも構わないから、真っ直ぐリキに向けてボールを投げること。――最初は届かないかもしれません。届いたとしても、鈴さんに打ち返されてしまうことでしょう。それでも今は、リキに向かってボールを投げ続けようと。そう決めたのでした。



拝復
初秋の候、日本はすっかり涼しくなり、肌寒い日も増えてきました。そちらはまだ夏が続くところでしょうが、おじい様はいかがお過ごしでしょうか。
 先日送って下さったお茶の葉も、とてもおいしく頂きました。友人に振舞ったところ、皆おいしいと言って本当に喜んでくれました。いつもありがとうございます。
 さて、お手紙で仰られていた件についてです。
 日本での生活は楽しいです。今日はベースボールで初めてピッチャーをやらせていただきました。でも、以前おじい様からお聞きしたスタルヒン投手をイメージしてみたのですが、まったく上手く行きませんでした。それでも、楽しかったです。
 ただ、故郷を離れて以来、辛いと思うことも多いです。友達や、ストレルカたちがいるから寂しくはありません。でも時々、おじい様のお顔が懐かしく思えます。
 先日の英語のテストは散々でした。おじい様は日本のテスト形式の問題だと仰られていましたが、どうも、そういうことではないようです。スパゲティーを上手く食べられないでいたら笑われてしまいました。フォークの代わりに出していただいたお箸で食べると、もっと笑われてしまいました。おじい様に教えていただいたことを笑われているようで、それが辛いです。自分がどれほど至らぬ人間か、思い知らされているような気になります。
 そんな私にすべきこととはなんだろう。そればかりを考えるようになりました。お母さんの遺志を叶えるにはどうするのがいいだろう、と。
 書きました通り、日本では素晴らしい仲間もできました。今、寝食をともにしている方には大変お世話になっています。その方を紹介して下さった男性も、私に大変良くして下さっています。その方とおつきあいのある女性もです。皆さんは野球のチームメイトで、私にもとても良くしてくれました。
 私は思うのです。
 手の届かぬものばかり追っても、みなに迷惑をかけるだけになってしまいます。ですが、手が届かないから諦めてしまうというのは、狐のすることです。
 私はずっとお母さんの空を見上げて生きてきました。これからもそこから目を逸らしたくはないのです。お母さんが私に託した想いを成し遂げたいと思います。
 人間いたるところに青山あり。もうすこしだけ、日本にいさせてください。

 末筆になりましたが、おじい様もどうぞご自愛下さいますようお願い申し上げます。
かしこ
ばっくとぅいんでっくす、なのですっ


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