きっと、これが私の“初恋”になるんだろうな、と思った。 まだ小学生の頃、クラスメイトの男の子を好きになったことはあったけど、その時は「あ、いいな」ってくらいの淡い気持ちだった。だからそれは、今、私が抱いてるものとは全然違う。言いきれる。 きっかけはもう覚えてない。ただ、一目惚れじゃなかったはずだ。何となく気になって、目で追うようになって、そしたらいつの間にか意識から外せなくなってた。教室で見かける度、ふっとその姿を探してしまう。大抵は仲の良い友達と話してて、私はそれを少し離れたところから眺めるだけで、いつも満足する。 ……本当は、近づきたいけれど。近づいて、親しくなりたいけれど。 昔から引っ込み思案な私には、とっても難しい。自分のことだ、何もかも全部、とまでは言えなくとも、ある程度は理解してる。授業中に当てられるだけでもあがっちゃうのに、好きな人と仲良くなる――ましてや告白なんて、できっこない。できる、はずなんかない。 でも。 気づけば私は、彼に。 直枝くんに思いを告げて、そして、当然のように、失恋した。 きっかけは、お節介な二人の友人だ。私に内緒でラブレターを出して、図らずも、彼と向き合うことになってしまった。 あの段階でなら、隠し通せたのも確か。友達のいたずらだったとごまかせば、何の波風も立てずやり過ごすことができたんだろう。にもかかわらず私が口を滑らせたのは、どこかに、焦る気持ちがあったから、かもしれない。 クラスメイトでもある棗さんは、お世辞抜きで可愛らしい女の子だ。人見知りで協調性に欠ける、ってみんなは言うけれど、そういう短所が些細に見えるくらい。初めて見た時から、敵わないと思ってる。 そんな棗さんは直枝くんの幼馴染で、私の知らない彼をいっぱい知ってて、毎日行き帰りも一緒で、すごく近しいんだってことが傍目にもよくわかった。ずっと目で追ってたからこそ、おそらくは誰よりも強く、そう感じた。 ……私が入る隙間なんて、どこにもないんじゃないか。 リトルバスターズ。何年も前から続いてるという、強固な絆。 それを間近で見せつけられるほどに、胸が苦しくて、仕方なかった。 こんなに辛いなら、好きにならなければよかった、だなんて。 一人でうそぶいてみても、自分自身は騙しきれない。忘れたくても忘れられなくて、付き合い始めたと聞いてもこの気持ちは消えなくて、なのに彼と再び向き合った時、口をついて出たのは祝福の言葉だった。 不思議なほどに、悔しいとか恨めしいとか、そういうネガティブな感情が湧いてこない。二人が幸せそうだったからか。それとも、本当にお似合いで、私が隣に立つよりもはるかにぴったりだと、わかってしまったからか――答えがどっちかは判別つかなかったけれど。 おめでとう。そう伝えた日の夜、寮室のベッドの中で膝を抱えて、静かに泣いた。ルームメイトの子に迷惑が掛からないよう、固く唇を結び、彼の顔を、仕草を、声を、何度も何度も思い浮かべた。でも、棗さんがちらつく。想像の中でさえ、私は居場所を奪われる。 涙が枯れた頃に、たぶん、意識を手放したんだと思う。疲れた心のまま、短い夢を見た。想いが通じて、受け入れられて、彼のそばに私がいる。何気ない話をして、ちょっと笑って、ほんわかした気持ちになって。夕暮れ時、別れ間際にキスをする。そんな、幸せ過ぎて残酷なまぼろし。 ……目覚めて、違和感を覚えた。 枕元に置いてた携帯を開くと、表示されたデジタル文字が示すのは、六時十分前。少しばかり早いけど、おおよそいつも通りだ、と“私”が囁く。何とはなしに拭った頬は、乾いていた。私はそっと布団を抜け、洗面所の鏡の前に立つ。眠たげな顔。そこに濡れた跡が、ない。 鼓動が速まる。まだ漠然とした嫌な予感を胸の奥に押し込めながら、再び携帯を開き、カレンダーを表示させた。 ぽとり。 私の手からこぼれ落ちた機器が、枕で跳ねて床に落ちる。鈍い音。 日付は、昨日の一ヶ月以上前を指していた。 突然の状況に戸惑いもしたけれど、どうしようもないとわかってからは、開き直ることにした。こういうのをタイムスリップっていうんだろうか、なんて考える余裕が生まれると、割と冷静に今の状況を見つめられるようにもなる。何気ないふりを装って、周りをなるべく注意深くしてみたところ、いくつか気づいたことがあった。 まず、基本的にこれは“やりなおし”だ。もうだいぶ不確かだけど、それでも現実は私の記憶をきっちりなぞっていった。毎日の授業の内容。ルームメイトとの会話。部分部分で見受けられた差異については、私が前と同じ反応を返せなかったからだと思う。ただ、それで未来が変わるわけでもない。ここでの私の影響なんてのは些細なものなんだと、そう神様が言ってるみたいだった。 勿論直枝くんと棗さんは特に意識を傾けて観察した。幼馴染だという井ノ原くんや宮沢くん、棗先輩といつも楽しそうにしてる二人。賑やかで、そしてどこか眩しくもある彼らの周囲では、とにかく騒ぎが絶えない。風紀委員にも目をつけられてるくらいだ、狭い学校の中でどんなことをしてるかは、黙ってても耳に飛び込んでくる。一緒のクラスにいれば、尚更。 野球を始めたこと。チームメンバーを、しかも何故か女の子ばっかりを加えたこと。その顔触れに至るまで、全部、おんなじだ。それを知った時、私は不意に怖くなった。だって、これが本当に“やりなおし”だというのなら――また、恋が叶わなくなってしまう。そんなのは、いや。 だから、決意する。幸せな未来を、自分の手で掴もうと。今度はちゃんと、口を滑らせたり、勢いに任せたりするんじゃなくて、勇気を振り絞って告白するんだと。 淡い希望。 それもまた、まぼろしに過ぎなかったことを、私はすぐに知る。 異変に気付いたのは、六月も近い頃だ。それまで私の記憶をほぼ正確に再現していた直枝くん達の行動が、少しずつズレを見せ始めた。例えば、棗さんといる時間が前より短い。例えば、野球の練習を切り上げるのが早い。その代わりに、違うクラスの三枝さんを直枝くんのそばでよく見かけるようになった。 ……これは、どういうことなんだろう。 私が体験してるのはただの“やりなおし”じゃないのか。 困惑しながらも、なるべく平静を装って様子を窺い続けていたところに、決定的な出来事が訪れる。ある日、何の前触れもなく、教室という教室の黒板に、三枝さんに対する中傷の言葉が書き殴られ、ほぼ同じ、けれどさらに仔細な内容のビラが至る場所にばら撒かれていた。私も見て、読んだけど、あまりにも酷い話に吐き気を覚えたくらい。ただ三枝さんを傷つけて、学園にいられなくするためだけに行われた――明確な悪意を感じるものだった。 あとのことは、はっきりとは記憶にない。三枝さんがこっちのクラスに顔を出さなくなり、それに連動して、直枝くんが休み時間に姿を消すようになった。風紀委員長の二木さんと口論してるのも見たけれど、そういった中で、いったい直枝くんと三枝さんの間に何があったのか、私に知る術はなかった。結局蚊帳の外のまま、問題が片づいたのか、終わったのかもわからずに、通り過ぎたはずの朝を迎えたから。 二度目の繰り返しにもなると、溜め息すら出てこなかった。ああ、またなんだ、って。 それでも私は、この状況に付き合うしかない。折り合いをつけて生きてくしかない。現実の酷過ぎる理不尽さに、泣きたくなる日もたくさんあった。ほとんど結末が決まってるお芝居に、無理矢理出演させられてるような。そんな錯覚さえ感じて、一時期は寮の部屋から出たくないと思ったくらいだ。……だからかもしれない。変化の乏しい日常の中で、直枝くんの姿を追うのが、本当に何よりの楽しみになっていた。 私の気持ちは伝わるだろうか。伝わったら、どんなことができるんだろうか。 こっそり空想にふけりながら、毎日のように横顔を見つめる。そうしていると自然、彼が誰を意識してるのか、おぼろげにわかってしまうのが辛かった。 今度は西園さん。よく本を読んでる、というイメージしか私は持ってなかったけど、直枝くん達の輪に加わった彼女は意外に表情豊かで、見た目ほど単純な人じゃないらしい。もっとも、あんなに濃いひとばっかりに囲まれてると、変なところも普通に思えるものだ。仮に私が“リトルバスターズ”の一員になったらすぐ埋もれちゃうんだろうな、と想像して、その時は苦笑いをこぼした。 しばらくは、中庭で静かに語らう二人を教室の窓から眺める日が続いた。そうして最後まで私は違和感を覚えることなく、ベッドの上であっさりと“四周目”に突入したけれど――目覚めた瞬間、ぞっとした。 おかしくはなかった、はずなのに。思い返せば、例えようのない異常が、意識と記憶の齟齬が見つかる。そう、確かに、西園さんはずっといた。でも、ある日を境に、私の知る西園さんはどこかへ消えてしまっていた。あるいは――入れ替わった、と言った方が正しいのかもしれない。ぼやけた記憶を探る。 大人しく影の薄い彼女が、クラスの中心で、楽しそうに、明るく笑ってる光景。 ……今更になって気づいたことが信じられない。だってこんなの、どうしたって、騙されるわけがないのに。 私は、少しもおかしいだなんて思わなかった。それが当たり前だと、思っていた。 身体が震える。怖い。ただ繰り返すだけじゃなくて、この世界は、もっと得体の知れない“ナニカ”を抱え込んでいる。それを理解してしまった以上、今の状況を、私は好意的に捉えることができなくなっていた。 以降、直枝くんの動向に関して、私はより注意を払うようになる。こんなことになっても恋慕の情は消えないままで、不安定になりがちな心を支える、大きな拠り所だった。彼のことを考えれば、ちょっと安心できる。ほっとして、あたたかい気持ちになれる。触れ合えない遠さを思うと胸が痛むけれど、我慢できないものじゃなかった。 何度やりなおしたって、私自身がすぐ強くなれるわけじゃない。今日こそは、今日こそはと勇気を出す度に足踏みして、こころゆくまで見つめられるこの微妙な距離に満足する。少し時間を置いて振り返ると、はっと弱い自分の存在に気付き、落ち込む。あんまりにも進歩がなさ過ぎて、いっそやけになってしまおうか、なんて考えたこともあった。勿論、それを実行に移せるのなら苦労はしない。きっかけのないままに、私は“この回”も告白するタイミングを失った。 五周目。六周目。七周目、八周目、九、十――回を重ねていくと、いちいち指折り数えることもしなくなる。だってそんなの無意味だ。自分が何度繰り返したかを把握していても、抜け出すためのヒントにすらならない。ならなかった。考えたり、悩んだりするのが辛くて、心が疲れて、それでも――ここにいるしかない、ということを、私は知った。 たくさん繰り返して。 たくさんの“やりなおし”を見て。 この世界での主役が誰なのか、誰のために全てが動いてるのかを、どうしようもなく、理解して、しまった。 わかりやすい法則は、おそらくない。 直枝くんが選ぶのは棗さんだったり三枝さんだったり西園さんだったり、あるいは神北さん、能美さん、来ヶ谷さんだったりもする。注視しなければそれは些細な変化でしかないけれど、きっとそこに至るまでに色々なものが積み重なって、そして唐突に“ナニカ”が始まる。 三枝さんなら、教室の黒板に書かれる中傷の言葉と、同じ内容のビラ撒き。 西園さんなら、とある時期からの、入れ替わりとしか思えない当人の人格の変貌。 能美さんの時は、ひとつのニュースがきっかけだった。普段よく柔らかな笑みを見せる神北さんは、急に空寒い笑顔を浮かべるようになる。私はそういった出来事を自覚できることもあるし、できないこともある。後者の場合、気づくのは大抵全てが終わった後。同じ状況を体験しても、その時だけは綺麗さっぱり抜け落ちてしまう。 もうひとつ。私が知り得る限りで初めて、直枝くんが来ヶ谷さんを明確に意識した周。 それがわかった瞬間、激しい焦燥感を覚えた。何度も見たからこそ、私は他の人よりも理解してる。来ヶ谷さんは強い。強くて、格好良くて、できないことなんてない、と誰もに思わせる、そういうひとだ。 眩し過ぎる光からは、目を背けたくなる。自分の小ささや弱さを浮き彫りにされる。私が彼女を相手にするというのは、絶対に勝ち目のない勝負を挑むのと同じだった。 だから。 魔が差した――と、そんな風に思ったけれど。 二度ならず、三度も四度もそうなるのは、明らかにおかしい。 直枝くんと来ヶ谷さんが親密になりそうな様子を見せると、必ず胸の奥で嫌な気持ちが膨らんだ。それを見計らったかのように、二人の友人が私をそそのかす。決まり事。予定調和。そこに自分が組み込まれているのかもしれないと疑いを抱けば、答えに辿り着くのはさして難しくもなかった。 ……いわばこれは、一種の舞台だ。 私達にはいくつかの役割が割り当てられていて、台本を作った誰かがそれを定める。役者にとって監督の指示は絶対だから、逆らうことはできない。逆らおう、という意思すら出てこない。アドリブの許されないお芝居。 もし私が自由なら、そういうものに縛られていないのなら、振られるとわかってて告白なんかしない。大好きな人に嫌われるとわかってて来ヶ谷さんに嫉妬したりなんかしない。なのに、私じゃない“私”は律儀に従う。筋書き通り、直枝くんと棗さんを付き合わせるための、直枝くんに来ヶ谷さんをより意識させるための、当て馬としての役割を果たすために。 私自身は、歯牙にも掛けてもらえない。 幾百の朝を瞳に焼きつけたところで、結ばれなければ、何の意味もないのに。 最初は、私に酷過ぎる役割を押し付けて、おそらくは何の痛痒も感じていないだろうその“誰か”を呪った。ありったけの恨み言をぶつけたくて仕方なかった。勿論、顔も名前も知らないのに届くはずもない。すぐに疲れて諦めて、わからなくなる。 直枝くんを好きな、この気持ちさえ、偽物かもしれなくて――だとしたら、私の想いはどこに行けばいいのか。 告白した事実は忘れられ、いつも、自分以外の女の子と一緒になる彼を、遠くで見つめることしかできない。 ……永遠に叶わない、私の初恋。 いっそ、すべてをなくしてしまいたかった。 はじまりの瞬間に戻って、ただ彼を好きでいる私になりたかった。 世界が繰り返してることも、ここでの“私”が私ですらないことも、気づかないままでいたかった。 けれど、知ってしまったから。だから私は、祈るしかない。 とてもちいさな希望。広大な砂漠の中に埋もれた宝石を見つけるような、途方もない可能性。 それは、縋るにはあまりにも細く、頼りなく、弱々しいものだ。 わかってる。どうしたって私が主役になれないことは、わかってる。 それでも、もしかしたら、いつか、届いてくれるのかもしれない、って。 信じる。信じたかった。私を動かす、たったひとつの残酷な想い。 神様の気まぐれが、ほんのちょっとだけ、世界を変えることを願いながら、私はまた眠りに就く。 そうして迎えたいつも通りの朝に、ぽつり、呪いの言葉を囁いた。 あとがき ひなさんのとこの名無し祭りに投稿したもの。案の定バレバレでしたorz あっちで作者公表する時も言いましたが、元ネタは『ループする初恋』です。詳しくは是非『少女の空想庭園+』を買って原曲を聴いてください……と言いたいところですけど、まあ、ギャルゲで主人公に恋してるんだけど必ず全てのルートで振られる子が自我を持っちゃったら、というような感じの話で、テーマがほとんどリトバスというか虚構世界まんまだったものでして。まあ、杉並さんを佳奈多さんに当てはめて考えてみれば、ある程度はこのSSの構成もわかっていただけるんじゃないかと思います。 ついでに恭介の傲慢さ、ひいては『神の如き創作者に対する抗議』みたいなところもテーマに組み込んではいるんですが、この辺のネタは草SSで通りすがりさんが一通りやっちゃってる感じでもあるので、ちょっと二番煎じだよなあとかそんな。でも程良く読み込んでいただけたみたいでよかったです。罰ゲームは確定したけどね! あ、そうそう。"distorted"には「歪んだ」「歪な」というような意味があります。精一杯の皮肉。 何かあったらどーぞ。 |