私達は寮住まいなので、よっぽどの遠出をしない限りは、交通の便とかを気にする必要がない。買い物はほとんど商店街の方まで出れば事足りるし、多少距離はあるけれど、家に帰るのも徒歩で充分。そんなんだから、自転車を使う機会がほとんどなかったりする。 勿論この歳で乗れないわけじゃなくて、一応家には二台ママチャリが置いてある。ただ、普段はお母さんがスーパーでいっぱい色々買ってくる時に利用するくらい。もう片方、青いカラーの自転車は雨風に晒され程良く錆び付いちゃってて、ついでにこないだちらっと見たらタイヤの空気も抜けていた。そりゃまあ、ずーっと放置してたらそうなるのも当然だ。でも捨てるのも面倒だし――なんて理由で置きっぱなしだったそいつを私が使ってやろうかと思ったのは、昨日のこと。 冬休みを迎えて家に戻っていた私は、同じく帰省(というとちょっと大雑把かもしれないけど)していた佳奈多に、そういえば、と切り出したのだ。 「お姉ちゃんって、自転車乗れるの?」 「……まさか、私が乗れないって思ってたんじゃないでしょうね」 「やはは、それこそまっさかー、ですヨ」 「目が泳いでるわよ」 「え、いやほら、全然乗ってる姿見たことないしさ。こう、はるちんの中で疑いの心がむくむくと」 「それを言ったらあなたもじゃない。そっちこそどうなの?」 「最近は全然触ってないけど……人並みにはいけるかな」 「なら私も大して変わらないわね。寮に入ってからはほとんど乗ってないもの」 お父さんもお母さんも仕事やら何やらで不在。二人きりでリビングの椅子に座り、佳奈多は珈琲を、私は麦茶を飲みながら、そんな他愛ない話をした。期待が外れて溜め息を吐き、目敏い佳奈多に無言の鋭い視線を向けられる。ぐさぐさ刺さってきそうなプレッシャーを軽い口笛でどうにかやり過ごし、ふとそこでピンと閃いた。 折角の冬休みだ、いつもじゃしないことをしよう、と考えてた。とりあえず宿題とかそういうイヤなことは端っこに置いといて、決して長くはないこの休みを満喫したい。そのためにも、 「どうしたの、いきなり立ち上がって」 「決めた。ねえ、佳奈多は明日予定とかある?」 「特にはないけど」 「じゃあさ、一緒にちょっと遠出しよ。久しぶりに自転車乗って、サイクリング」 「……は?」 「そうだ、お昼のお弁当は朝作ろっか。二人で協力すれば遠足気分でいい感じだし」 「ちょっと葉留佳、まだ私は行くって言ったわけじゃ、」 「どこまで行こっかなあ。冬だけど海とか新鮮で面白いかも。やー、想像するだけでわくわくしてきたー!」 「…………ああもう」 はしゃぐ私に、仕方ないな、って顔で佳奈多は苦笑を浮かべる。 結局最後には許してくれる辺り、本当に丸くなったというか優しくなったというか、うん、正直嬉しい。 こんな関係、昔の私達じゃどうしたって築けなかったものだから。 見切り発車とはいえ、一応それなりの計画はあった。佳奈多はお母さんのママチャリを借りればいいし、私もどうにかあの青い自転車を使えるようにしておく。幸いチェーンに差す油や錆落とし用の真鍮ブラシが玄関の棚の中に仕舞われてたので、それらで状態を良くしてから、空気入れでタイヤの調子も走れるレベルまで持っていった。多少赤茶けた錆は残っちゃってるけど、そこは我慢。だいたい、あんまり人様の自転車をジロジロ見る人はいないだろう。 その日の夜は、何故かなかなか寝付けなかった。遠足前日の小学生か、と自分に自分でツッコミを入れたくなる。おかげで目覚ましをガン無視して佳奈多に文字通り叩き起こされた。こういう時は容赦ない。眠い目と床にぶつけた額を交互に擦りつつ、朝食とお弁当の支度をする。といっても私が役に立てるようなことはそんなになくて、お姉ちゃんが包丁で野菜なりお肉なりを切ってる横でパンの耳を千切ったり、几帳面にぴっちり幅を合わせてパンに具を挟み込んでるところで横からつまみ食いを試みたり(額をどつかれた)、私でもできるからとフライパンで砂糖をまぶしたパンの耳を軽く揚げてみたり。これまで全く使った覚えがないバスケットに、二人で食べるにはちょっぴり多い量のサンドイッチとおやつの揚げパン耳を詰め、今日もお仕事なお父さんの少し後、お母さんに見送られて私達は家を出た。 ママチャリは見栄えが良くないけど、荷物をカゴに突っ込めるからいい。スタンドを蹴り飛ばすように戻した私は、昨日はくすんで埃がこびりついていたサドルに跨り、タイヤ一回転分前に出て振り返る。案の定と言うべきか、お母さん愛用の赤い自転車に乗った佳奈多の動きにはそつがなかった。出発早々こけたりしてくれれば面白いのに――なんて口にすれば最後、どんな目に遭うかわかったものじゃないので黙っておいた。 ということで、いざスタート。とん、と右足で助走を付け、ペダルをぐっと踏み込んだ瞬間、全身が勢い良く前に進んだ。長らく忘れていた感覚に、一瞬だけ戸惑う。こんな感じだったっけ。ああ、そうだ、うん、こんな感じだ。時折背後の様子を窺い、しっかり佳奈多が付いてきてることを確かめて、微妙に速度を上げてみる。ひゅるひゅると風を切る音が強まった。これが夏なら頬を撫でる程度なんだろうけど、生憎今の時期は寒風が酷く冷たい。もこもこのコートを着込んで手袋着けて、首元にはマフラーも巻いてるものの、隠し切れない顔に当たる空気に関してはどうしようもなかった。 「ひゃー、冷たい! っていうか痛い!」 「サイクリングなんて提案した時点で予想できてたことでしょ」 風と同じく冷たい佳奈多の言葉にぶーぶー文句を返して、車の通りが少ない住宅街を抜ける。次は商店街。冬休みだからかいつもより賑わってる気もする道を、若干スピードを落として走っていく。見慣れた姿があるかとも思ったけど、それらしい人影は結局見つからずじまいだった。 様々な店舗の並びが途切れると、私達が住んでるところとはまた別の住宅街に入る。曲がり角で子犬の散歩をしてた女の子と正面衝突しかけ、そこで一度足を止めた。ごめんね、と謝って許してもらえたのはよかったけど、子犬に唸られてちょっと傷心。佳奈多にはあんなに愛想良く尻尾振ってたのに。そのことを後で愚痴ったら「日頃の行いじゃない?」なんて返されてますますへこんだ。私の姉は素っ気なさ過ぎると思う。 出発から三十分弱、二つ目の住宅街も無事に突破し、川沿いの通りに出る。遠くの大きな橋を丁度電車が渡っていて、ペダルを漕ぎながら私と佳奈多は視界の左側に消えていくそれを眺めた。 左手でブレーキをかける。タイヤが砂を擦り、一瞬甲高い音を上げた。佳奈多も私に倣ってストップする。 「なんか喉乾いたし、すこーしだけ休まない?」 「別にいいけど……自転車は邪魔にならない場所に止めなさい」 「へーい、わかってまーす」 おざなりに返したら睨まれたので、逃げるように車体を道の外れへと運んだ。 スタンドを立て、川べりに続く下り坂の真ん中で腰を下ろす。直接草の上に座ると、かなりひんやりしていた。自転車の前カゴから荷物を持ってきた佳奈多に飲み物の催促をし、水筒の蓋の部分を受け取る。 とぽとぽ。湯気を上らせるその中身は、砂糖をたっぷり溶かした紅茶だ。ちろりと舌を付けたらまだ相当熱く、このまま一気に飲むのは難しそうだった。数回息を吹きかけ、恐る恐る一口。思わず火傷しそうな温度ではあったけど、身体に染みる温かさと甘さがおいしかった。 ゆっくり飲み切り、ほぅ、と白い煙を吐き出して、コップ代わりの蓋を手渡した。とぽとぽ。私のより僅かに少ない量を注いだ佳奈多は、脇に水筒を置き、両手で蓋を包むようにしてちびちびと飲み始める。何だか可愛い。 水場が近いせいか、時折吹く風は切れ味を増してるような気がした。私は肩を竦め、首元のマフラーに鼻から下を埋める。左隣の佳奈多がまた紅茶に口を付けた。お揃いのふわふわな白い耳当てが頭の動きに合わせて揺れる。 変な感じ。特別会話はないのに、こうやって二人でぼんやり対岸の方を見つめてるだけで、穏やかな気持ちになれる。 昔の私達じゃ、全然考えられなかったこと。 「行くわよ」 「え?」 投げかけられた声に振り向くと、水筒を鞄に仕舞った佳奈多が立ち上がっていた。 何とも素っ気ない。でもまあ、そういうところもお姉ちゃんらしいな、なんて心中で苦笑しながらその背を追った。 目的地には、おやつの時間より早く着きそうだ。 川の流れを辿ればやがて海に辿り着く。いくら勉強が苦手で嫌いな私だってそれくらいはわかるけど、じゃあ延々川べりを走ってられるのかというとそんなことはなくて、線路や自動車専用の道路が途中途中で自転車の行く道を塞いでるものだから、私達は何度か迂回せざるを得なかった。というか一回離れてから再び川を目にすることがなかった。 進んでくとだんだん民家が減ってきて、コンビニとかスーパーとかも見当たらなくなってくる。単調な景色は視界に入っても全然面白くないけど、ほとんど車も人も通らないので、代わりに佳奈多と並列走行できるようになった。ここまでは危ないからって、私が前に行かされてたし。 スピードを緩めて横に付き、思いついたことをちょこちょこ言ってみたり(だいたい嫌そうな顔をされる)。運転をミスらない程度の間隔でしりとりをしてみたり(結局構ってくれるのがおかしいというか嬉しいというか)。誰もいないのをいいことに両手離しでペダルを漕いで、怒られた拍子にバランス崩して危うく顔面からこけそうになったり(乙女のピンチだった)。 一人ではしゃぐ私は傍から見ればやっぱり馬鹿みたいなのかもしれなかったけど、楽しければそれでよかった。何だかんだで佳奈多も心底嫌そうな表情だけは絶対しなくて、お姉ちゃんらしいって言えばらしい、いつもの「仕方ないわね」的な顔で私を見てくれる。目を離さないでいてくれる。 海に近付いてくると、また家やらお店の類やらが増え始める。舗装されたアスファルトだけはずっとおんなじように続いてて、たぶんそれは行き先まで変わらないんだろうと思った。実際、寒々しい防波堤の手前に至る道には、剥き出しの土と砂はほとんどない。 ――佳奈多とは初めて来る、海。 自転車を隅に止め、二人で下りるところを探す。潮風に晒されてちょっぴり擦り切れたような、ざらついたコンクリートの階段から砂浜に出た途端、他に例えるのが難しい、潮の独特な匂いが鼻先を撫でた。透き通った冬の陽を反射して煌めく波が、さあ、と耳に心地良い音を響かせる。 「……寒いわね。葉留佳、あなたは平気?」 「やはは、予想以上の寂れっぷりにはるちんびっくりですヨ」 「こんな時期に来る人間が私達以外にいるのなら、見てみたいわ」 「遠回しに私が変だって言ってるように聞こえるんだけど」 「ならその耳は正常ね」 この皮肉屋めー。 反論代わりにほんのり寒さで赤らんだ佳奈多の頬を、おもむろにつついてみる。 「ぷにぷにー、って痛ー!」 「その手癖の悪さ、どうにかしなさい」 「だからっていきなりつねるなんて……っ! お姉ちゃんってば容赦ない……よよよ」 「泣き真似しても騙されないわよ。全く、小賢しい手ばっかり思いつくんだから」 予想以上に強烈なしっぺ返しをもらい、私は鋭くつねられた手首の辺りを必死に擦って痛みを和らげた。 いいじゃんかよー、姉妹の可愛らしいスキンシップじゃんかよー、という抗議の気持ちを乗せてじっと睨むも、物の見事にスルー。酷い姉もいたもんだ。 ……でもまあ、こんなところでいっか。上手い具合に寒さも紛れたし。 今度は何をするでもなく、そっと隣に寄り添う。軽く佳奈多の右肩に頭を預けると、一瞬ぴくりと震えたのがわかった。 長袖に隠れて見えない腕。あるいは背中。そこに残された傷や痣は、お家の問題がどうにかなってからも、決して消えるわけじゃない。ずっと私達を縛ってきたものが薄まって、緩まって、ついにはなくなったとして、これまでに受けた仕打ちとか、嫌な記憶とかも一緒に綺麗さっぱりどっかに行ってくれるわけじゃない。 今でも佳奈多は、私やクド以外の子に裸を見せられない。他人がいっぱい集まる銭湯やプールには来れないし、夏でも短い袖の服を着ない。時折夜に魘されて起きてるのも、知ってる。 だけど、そういうものを抱えてる人がみんな不幸になるのかって言えば、絶対違う。どうしようもなくできないことがそこかしこに転がってたって、他に楽しいことはたくさんある。見つけられる。 「えっと……あのさ、佳奈多」 「……ん、何?」 「ほんとは、どこでもよかったんだ」 あんまり多くは言わないでおく。 ぽつりとこぼした私のことばに、佳奈多はやっぱり素っ気なく「そう」と呟いた。 ただ、きらきらした海を見つめる横顔は、ほんの少しだけ綻んでる。たぶん、それが答え。 今度は、佳奈多の行きたい場所に出かけよう。 そうしてふたりで、楽しい思い出を積み重ねていけばいい。嫌なこと、辛いこと、悲しいことを押し流すくらいの勢いで。 ――だから、明日も晴れますように。 真っ青な冬の空に向けて、私は小さく祈った。 あ、お昼のサンドイッチは あとがき 名無し祭り罰ゲーム、スネークさんリクエストで『二木佳奈多と三枝葉留佳姉妹の、ほのぼのとしたSS』……なんですが、最近ほのぼの系はとんとご無沙汰だったので、上手く書けてるかどうかは正直かなり怪しいところです。 なるべく真面目な要素を排除してみたものの、どうしてもこの姉妹を描くに当たり、くらーい話からは逃れられないわけでして。例え両家のあれこれが上手い具合に片付いたとしても、それで何もかもすっきり! ってことにはなりませんよね。佳奈多さんの『傷』にしても、はるちんのトラウマめいた記憶にしてもそう。二人とも異様な強度の精神の持ち主なので(特にはるちん)、割と楽観的に見られる部分もありますけど、下手すりゃ一生付き合ってかなきゃいけないものだよなー、と。でも、折角自由になったのに、今更そんなつまらない現実に負けたくなんかないじゃないですか。過去の自分と馬鹿やってた大人どもを笑い飛ばすくらい楽しくて幸せでたまらない日々を過ごしてやろう――というのが、このおはなしのはるちんなのでした。ところどころお茶らけてたり自爆に走ったり、地の文からして不安定な感じでしたが、そこは語り手(はるちん)の個性と認めてやっていただければw 佳奈多さんは個人的にこれくらいのツンツンっぷりがいいです。そこまでデレデレはしないけど心は許してるみたいな。決してつっぱねはしない、でも甘やかし過ぎもしない、そういう絶妙な距離感。 うん、ツンデレは言葉より態度で示すべきですよね! 分量的にはかなり少ない(10KB前後)ですけど、こんなんでも楽しんでいただければ幸いです。スネークさん、リクエストありがとうございました。『サイハテ』と対になってるかどうかは微妙ですが、幸せな二人の姿はこれで提示できたんじゃないかな、と思います。 何かあったらどーぞ。 |