早朝、まだ誰も登校しないような時間に、私は女子寮を出た。 ルームメイトにはちょっと不審がられたけど、早めに行ってやっておきたいことがあるんだと誤魔化して。 静寂が満ちた廊下は人の姿もほとんどなく、見かけた幾人かも寝間着のままだった。もうしばらくすれば部活の朝練に参加する生徒が慌ただしく動き回るんだろう。校舎の出入りも多くなる。そして、どうしてもその前に着かなきゃいけない理由が私にはあった。 ふと擦れ違った寮長の先輩に奇異の視線を向けられ、曖昧な笑みを浮かべながら挨拶を交わして足早に通り過ぎる。 玄関で靴を履き、外の冷たく清々しい空気を軽く吸い込んで、私達の教室がある南校舎を目指す。夏明けから少しして制服が長袖の物に変わったけれど、袖や襟の僅かな隙間から入ってくる風は肌寒い。すっきり晴れたいい天気とはいえ朝だと尚更で、私はぶるりと小さく身震いした。 寮と校舎を繋ぐ渡り廊下を歩くこと二分ほど、昼時の賑わいが嘘みたいにしんとした建物の中に入る。土足でもいい道を進み玄関に辿り着くと、思惑通り人影は見当たらなかった。 念のため辺りの様子を窺う。……うん、大丈夫。誰にも見られる心配はなさそう。 そう判断し、自分のとは別の箇所をそっと開ける。 間違えようがない。そこが彼の下駄箱だってことは、何度も、何十度も目にして知っている。 微妙に不揃いな並びで突っ込まれた、どこかくたびれた感もある上履きが視界に入った。何となく気になってズレを直し、それから私は懐に仕舞った物を取り出す。指に乾いた紙の手触りを感じるだけで、心臓がどくんと激しく跳ねた。 ――どうする、やっぱりやめる? 内なる自分が唆してきたけれど、首を横に振ることでどうにか振り払う。 緊張のあまり地面に三回も落とし、それでも最後にはちゃんと上履きの上に置いて、下駄箱の扉も閉められた。 途端、膝の力が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。 「あぅ……ん、しょっ、と」 深呼吸をしてから、壁に寄り掛かりつつ立ち上がる。こんな恰好、誰かに見られたら変な人だと思われてしまう。 今更靴を履き替えて、私は逃げるように教室へと向かった。 もう、後には引き下がれない。 必死に手紙の中身を考えたのは、昨日の夜遅くだ。 消灯時間が過ぎ、ルームメイトが寝静まった後、ベッドから抜け出して私は便箋と対峙した。 罫線が引かれた浅葱色の紙を前に、色々な言葉が思い浮かんだけれど、いざ書こうとしてみるとなかなかしっくり来ない。というより、恥ずかしくて全然筆が進まなかった。直接的なのは論外、遠回し過ぎたら伝わらないだろうし、そもそも未だこうしていること自体に迷いがある。 ただ、自身の性格を考えれば、どんなお膳立てをされたところで、当人を前にしたら何も言えなくなるのは火を見るより明らかだった。きっと俯きどもって彼を呆れさせてしまう。それは、絶対に嫌。 散々悩んだ結果、とても無難な内容になった。頭の中で文章を定め、窓から射し込む月明かりを頼りに、私は握ったボールペンを便箋に押し当てる。下書きした方がいいのかな、と悩んで一瞬手が止まり、そのまま僅かに滑った勢いでずるっとペンが黒い線を斜めに描いて、早速一枚無駄にした。ちょっと泣きそうになる。 その後も漢字を間違えたり送り仮名を間違えたり罫線に字が被ったりで、くしゃくしゃに丸めた出来損ないの手紙がゴミ箱をいっぱいにしかけた頃、ようやく納得のいくものが完成。自分で読み直して確認し、溜め息を吐いた。 便箋と一緒に買ってきた、淡い桃色の封筒へと二つ折りにしたそれを仕舞い、素っ気ないデザインの、でも男の子は絶対使わないようなシールで封をする。最後、封筒の表面に彼の名前を書こうとして、便箋を入れる前にしておけばよかったと気付いた。どうやらそんなことも考えつかないくらい、自分は平常じゃないらしい。 「……落ち着こう」 誰に聞かせるでもなく呟き、心持ち弱めの筆圧で五文字を記す。 直枝、理樹様。一瞬脳裏に彼の顔が過って、自然と頬が熱を持った。 鼓動が勝手に早まる。どくん、どくん――静かな夜だから、余計に心臓の音がうるさかった。 「直枝、君……」 人が人を好きになる理由なんてそれこそ恋をする人の数だけあるんだろうけど、私はといえば、いわゆる一目惚れとは正反対だったように思う。二年に進級して同じクラスになり、その前から棗先輩を中心とした、リトルバスターズという集団は校内でも有名になっていた。最初はそんな人達の一人、としか認識していなくて、いつも騒ぎを起こす彼らのことを、正直少し鬱陶しくも感じていた。 でも、井ノ原君や棗さんに振り回されてる直枝君を目で追う度、様々な一面を見つけて……いつの間にか、私は彼のことが気になって仕方なくなった。神北さんや能美さん、来ヶ谷さんに西園さん、別のクラスの三枝さんも加わってさらに賑やかさを増した彼らの輪の外で、私の視線は直枝君ばかりを探していた。 遠くから眺めてるだけでいい。他に望むことなんてない。 それは、確かに本心でもあった。だって私は臆病だ。引っ込み思案で、リーダーシップは取れなくて、口下手でとろくて面白いことなんて何一つ言えなくて、誰かの後ろにひっそり付いて回ることしかできないような、弱い人間だ。 そう思うのが逃げだとわかってはいるけど、そんな簡単に自分を変えられたら苦労しない。もし想いを口にできたとしても、あっさり拒絶されたら? 二度と立ち上がれそうにないくらい傷付くことになったら? 後ろ向きな考えばかりが浮かんできて、結局一歩踏み出す勇気を持てずにいた。 ……今だって、怖い。手紙を出すことを考えると、足が竦みそうになる。だけど、 「頑張らなきゃ」 この気持ちとだけは、きちんと向き合いたいから。 想いの欠片を文字に込めて、私は、決断した。 教室が騒がしくなり始めた頃、ほとんど普段と同じ時間に直枝君達が現れた。 私は物音で振り向いたように見せかけ、ちらりと彼の様子を窺う。 手紙には自分の名前を入れなかったから、差出人が誰かまではわからないはずだ。実際直枝君は周囲を見回すも、私の視線には気付かなかった。困惑混じりの表情で、井ノ原君の言葉に苦笑しながら頷いている。 少女漫画とかだとこういうのは屋上に誘う場合が多いけど、あそこは先生の許可なしには鍵を開けられない。だから、放課後この教室で、誰もいなくなるまで待ってます、と書いておいた。つまり直枝君にとっては、最後までここに残っている人が手紙の主ってことになる。 ……来て、くれるのかな。 そうならいいと思う。ただ、来なくても構わなかった。きっとその方が、綺麗なままで終われるのかもしれないから。 胸の鼓動が治まる間もなく、予鈴と共に担任の先生が来る。 正面に向き直った一瞬、直枝君と目が合った、気がした。 それからの時間は、困ったことに過ぎるのが酷く遅く感じた。 数学では簡単な掛け算を間違えて解が大変なことになり、古文は訳してくださいと言われたところの一行後を答えてしまってすごく恥ずかしい思いをした。他の授業は大きなミスをしなかったけど、後でノートを読み返したら変なところにチェックが入ってたりして、友達に「どうしたの? 熱でもあるの?」とかなり本気で心配される始末。 お昼はお弁当を持って学食に顔を出した。棗先輩達はだいたい決まった席でご飯を食べてるのを知っている。空いたところに座り、相変わらず楽しそうな彼らを遠巻きに見つめながら、自分で作ったおかずを飲み込んだ。そこに直枝君がいないことを改めて確認し、食べ終わったら早々に立ち去った。 午後の授業も何とか乗り切り、放課後。約束の時間が近付いてくると、今度は逆に時の流れがやたら早く感じる。一人一人と教室から出ていくのを見て、私は今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えるのに必死だった。 倒れちゃうんじゃないかってくらい心臓が暴れてる。嫌な汗がじんわり服を湿らせて、不安で私の心を締めつける。 自席から動かずに、それでも私はひたすら待った。 「……君が、手紙をくれた人?」 俯いていた頭を上げ、私は振り返る。 ――聞き間違えようもない、直枝君の声。来て、くれた。 慌てて立ち上がり今の問いに対して頷こうとすると、緊張からか目が眩んだ。 ふらりと身体が傾いだところで、横から伸びてきた手に支えられる。 「だ、大丈夫? えっと……杉並さん」 「あ……はい。ちょっと立ち眩みがしただけですから……っ!」 名前、覚えてくれてる。 そう思いながらぼんやりした頭で馬鹿正直に返し、自分が彼に寄り掛かった姿勢でいることに遅れて気付いて、跳ねるように離れた。 まともに話したことすらないのに、いきなりこんなの、心臓に悪い。張り裂けそう。 突然深呼吸を始めた、どう考えても変な私に直枝君は驚いたような顔をしたけど、こっちが落ち着くまで待ってくれる。 そんなさり気ない優しさも、好きだった。 だけど。だから――。 「あ、あのっ! わ、私、直枝君にどうしても伝えたいことがあって……!」 例えば手紙でなら、恥ずかしい言葉も書けると思う。一度文字にしてしまえば、心はそこに閉じ込められる。こんな思いをしなくったって、伝えるだけなら難しくもないんだろう。 でもそれじゃ、本当に伝えたいものはきっと届いてくれない。私のこの気持ちは、行き場を失ってしまう。 自分の言葉で。自分の口で。自分の声で。自分の全てで――ありのままを、出し切りたかった。 「ずっと、ずっと直枝君のことが、好きでした!」 呆気ないほど簡単にしか言えなかったけど、確かに伝えた。 叫ぶように想いを吐き出した私は、勢いで閉じた目をゆっくりと開く。 二歩半の距離で、黙って聞いてくれていた直枝君の顔に浮かんでいたのは、 ……ああ、私、すごく自分勝手だ。 「ありがとう。だけど、ごめん」 「う、ううん。私こそごめんなさい。直枝君にはもう、付き合ってる人、いるんだもんね」 「……うん」 「知ってたから。だから、直枝君の返事が聞けて、よかった」 上手く、笑えてるだろうか。 ありがとうございました、と殊更明るくお辞儀し、直枝君にさよならを告げる。 引き戸が静かに閉まり、そして教室には私一人が残された。 彼が来る前と同じように、自分の席に腰を下ろす。 「……わかってた、ことなんだよね」 直枝君と、同じクラスの来ヶ谷さんが付き合い始めたのを知ったのは、少しだけ前のこと。 微妙に変化した二人の雰囲気を、私はすぐに見抜けた。だって、いつも目で追っていたから。 そのうち周囲に露呈したけれど、直枝君を好きな気持ちは決して消えてくれなかった。 ほんの僅か、期待がなかったと言えば嘘になる。もしかしたらいずれ別れるかもしれない。私にも、チャンスは訪れるかもしれない。でも勿論そんなことはなくて、二人がどんどん親密になっていくのが手に取るようにわかった。超然としていてどこか怖くもあった来ヶ谷さんが、直枝君の前では急に焦ったり恥ずかしそうに頬を染めたりしてるのを見て、私が入る隙はどこにもないと理解してしまった。 最初から、結末の決まっていた告白だったのだ。 未練がましい恋心を断ち切るための、独りよがりな儀式。 「う……」 いつもこの場所から、直枝君を見てた。授業中眠そうに目を擦る姿、井ノ原君に話しかけられて苦笑する姿、黒板の字を真剣に写す姿……たくさんの表情や仕草を、今でも鮮やかな色で思い返せるくらい、ずっと瞳に焼きつけてた。 だけどそれも、今日でおしまい。忘れなきゃ。全部忘れて、明日からはまた自然な顔で会えるようにならなきゃ。 「ふ、うぇ……っ、ひく、うっ」 ぼろぼろぼろぼろ、どうしようもなく視界を滲ませては溢れてくる涙を何度も制服の袖で拭き取り、私は教室を後にする。 酷い泣き顔を見られたくないからと人目を避けるように寮を目指す自分は、本当に惨めだったけど――それでもやっぱり、好きになったことだけは後悔したくないと思う。 ……さよなら、私の初恋。 辛くて、苦しくて、だけどとても幸せな日々を、ありがとう。 あとがき 毎度のことながら第9回草SSに投稿したもの。テーマは『文字』。 何気に初の杉並さんです。お風呂の中で悩んでいたら、文字→みおちん→いやいや姉御→ラブレター→失恋→杉並さん、みたいな流れに。よくよく考えてみれば、彼女をメインにしたシリアス物もないわけではないんですが(marlholloさんとmさんがそれぞれ書いてらっしゃいますよね)、ガチにこういう話はなかったな、と思いまして。 極力行動描写と心情描写のみに文章を割き、作者の好みとかは一切排除して出力したところ、どうにも中途半端な出来になっちゃったみたいです。色がないからありがちな話を抜け出せてないって、その通り過ぎて反省。 別に理樹君のお相手は鈴でもこまりんでもはるちんでもみおちんでもクドでも佳奈多さんでもいいんじゃないかって感じですが、敢えて来ヶ谷さんにしたのは、シナリオで杉並さんが来ヶ谷さんに言われたこととの対比を見せたかったからでもあります。勇気を出せるようになる頃には既に時遅し、そういう一種の皮肉でも。 以前一次長編(『こころ、ここに』第三章)で同じような失恋話を取り扱ったことがあって、あっちにも似せつつ一日でがーっと書き上げたはいいんですけど、分量の少なさも考えると色々薄いですよね。草SSの人達と、ヒナさんのとこのチャットでよく会う皆さんとでまた受け取り方が全然違ってたりするので、一概にどちらの評価が正しいってわけでもないのが何とも。 あ、一応言っておきますと、マーさんの『遠くから見た人』を少し参考に。 もうひとつ、偶然ながらあんぱんさんのところにあるBJさんの『Epilogue for Exception』とちょっと対になってるかも。 そんな感じで今回もおしまいー。次回は筋肉、節目なので何とか頑張ってネタを捻り出してみます。 |