暗い灰色の曇り空に包まれた夕方の川近くを、僕は美魚と歩いていた。
 見上げた視界の先には、無数の白い粒。ひとつひとつは大きくないけれど、朝方から降り続けているそれは地面にうっすらと層を作っている。差した傘がぶつからない程度の距離を保ちながら、時折手元の柄を傾けると、ほとんど無音で滑り落ちた雪がぱらぱらと散らばっていく。
 昼を二人食堂で済ませ、その後に「出かけましょう」と言ってきたのは美魚の方だった。珍しいというわけじゃないけど、何となく僕から声を掛けることが多かったから、にやついてしまいそうになって怪しまれた。訝しんだ目をする時の美魚は眼光が鋭くて、ちょっと怖くもある。心を見抜かれてそうで。
 終業式をクリスマスの明日に控え、授業と言えない連絡事項ばかりのホームルームも午前中で終わっている。恭介達は帰省の準備で忙しいみたいだったし、どうも僕に隠れて何かを画策している節があった。まあ、たぶんクリスマスパーティだろう。冬休みの間ここに居続ける僕に対する、言ってしまえば見え見えの気遣いだけど、そういうのはやっぱり、嬉しいものだ。今年も、騙されたふりだけはしていようと思う。例え白々しくても。
 その辺の状況も加味すると、美魚がわざわざ自分から僕を誘ったのも、何らかの意図があってのことかもしれない。だとしたら少し寂しいなあと感じる自分の女々しさに苦笑しつつ、しっかり上着を羽織って首にマフラーを巻き、黒い傘片手に女子寮の玄関まで迎えに行ったのが二時前。それからなるべく外に出ないよう商店街や喫茶店を巡り、ただでさえ薄暗い空がますます闇を深めてきた頃、最後に少し歩きませんか、という美魚のひとことでこうしている。
 細く漏らした息が白くたなびく。真冬の冷気に晒しっぱなしで随分冷えた、傘の柄を持つ右手をポケットに入れていた左手で擦り、軽く俯けた頭を上げて横に視線をやると、安っぽい僕の傘とは明らかに違う、艶やかな木製の柄に両手の指を添えた美魚が、不意にぴたりと足を止めた。
 見れば、近くに住んでる子供が作ったらしい小さな雪だるまを、細身の枝が半ば突き刺さるような形で後ろ倒しにしていた。風で飛ばされてきたんだろうか、貫通こそしていないものの、結構深く入っている。
 振り向いた美魚と目が合う。無言の問いに頷き、僕達は並んでしゃがんだ。雪だるまに手を差し出す彼女の代わりに、美魚の傘をこちらが支える。たおやかな指が枝をそっと引き抜き、まだ踏み荒らされていない周囲の雪で傷口を補強する。
 綺麗になったそれを元の場所に戻し、おもむろに美魚は枝を折った。さらに、分かれたうちの長い方を、ぽき、ぽき、と二度折り曲げ、逆さまの三角形を作る。余った短い方を交差点に当て、幾度か失敗しながらも固定する。そうしてできた歪な標識めいた何かを、美魚は雪だるまの隣に刺した。
 指に付いた雪と土を払い、僕から傘を受け取って立ち上がる。

「何を作ってたの?」
「……直枝さんは、澪標というものを知っていますか?」
「みおつくし?」
「はい」

 どこかで聞いたことがある。
 けれどしばらく悩んでみても思い出せず、ついごめん、と謝ると、呆れたような表情をされた。

「すぐ謝るのは直枝さんの悪い癖です。気を付けてください」
「ああ、ごめ……う、いや、うん。わかった」

 また口にしかけ、慌てて言い直す。
 そんな僕の様子にくすりと微かな笑みを漏らし、煙る吐息と共に美魚は呟く。

「本来澪標は、河口などの浅瀬が多い場所で、舟が通れる区域とそうでない区域を見分けるための標識です。航行可能な道を示す、境界線の役割を果たすものと言ってもいいでしょう。ここまではいいですか?」
「大丈夫……だけど、何か子供扱いされてるような……」
「気のせいです。……では、直枝さん。百人一首にこのような歌があるのは、覚えていますか」

 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思ふ

 前置きからさして間を置かず、僕だけに聞こえる程度の声量で淡々と詠まれる歌。
 音と息を出し終えた美魚は、西の方角、鉄橋とその下を流れる川を見つめ、

「元良親王が詠んだこの歌は、自らの命を顧みないほどの激しい恋心を綴っています。みをつくし……つまり、身を尽くす。先ほど言った澪標の掛詞ですね。川に立つ澪標と炎にも似た恋心の静と動が大変美しいと思うのですが、歌の解釈はひとまず置いておきましょう。ここで重要なのは、澪標がそういう意味を持っている、ということです」
「命が尽きても、ってこと? でも、それに何の関係が……あ」

 その先は追及しなくてもわかった。
 今更だとは言わない。きっと、思い出したことに特別な理由はないんだろう。
 美鳥。
 声にはせず、口の動きだけでその名を呼ぶ。

「直枝さん」
「うん」
「行けない場所があると知るのは、決して悪いことではありません」
「……うん。そう、だよね」

 全部、感傷だ。
 少し沈んだ気持ちは橋を渡る電車の遠く鈍い音に濁され、下から傘を煽る強風に吹き飛ばされた。肌を切る冷たさに身震いすると、隣でくしゅ、と抑えられたくしゃみが響く。すかさず顔を向けたけど、首を捻り終えた時にはもう、いつも通りの澄ました表情になっていた。
 傍ら、さっきの風で傾いた、些か不格好な澪標が、雪だるまに寄り添うようにしてくっついている。

「寒い?」
「はい、と答えたらどうするつもりです?」
「空いてる手でも繋ごうかな、って」
「もしかして、ずっと狙っていましたか」
「ポケットに入れっぱなしよりは、そうした方が、ほら、恋人らしいから」
「……仕方ないですね」

 言葉こそ呆れのものだけど、嫌そうな素振りは見せず、すっと左手が差し出された。
 僕は傘を左に持ち替えて、雪みたいに白い手を取る。触れて絡めた指先や重なった掌から伝わってくる、美魚の柔らかさ。こっちも同じくらい冷えていたから、熱の足りなさを意識することはあまりなかった。繋がった分肩が近くなって、ゆっくり僕は距離を詰める。足裏に踏みしめた雪の微かな抵抗を感じながら、どのくらいまでなら許されるかを確かめていく。
 そのうち傘が邪魔になったので、片手で強引に畳んだ。薄っぺらい大義名分。美魚の傘しかなければ、身体を寄せるのもおかしくはない、なんて誰も騙せそうにない言い訳を脳裏に浮かべ、互いの腕を密着させる。
 冷たさの奥に潜むぬくもりは、僕と美魚が「ここにいる」ことを教えてくれる。
 だから、交わる行為を覚えた後も、こうしているのが僕らの一番自然な姿だった。

「昔、あの子と雪だるまを作ったことがありました」

 鼻先に雪の欠片が当たるのにも構わず、眼下のそれを見つめて、ぽつりと美魚はそう漏らした。
 解けた氷は雫に変わり、滑り降りる。僕の頬にも一粒。熱が吸い取られる。

「実際に雪を集めて形にするのはわたしの役目でしたが、あの子は楽しそうにそれを眺めていて……出来上がるまでは、手の冷たさも、汗で濡れた服の不快さも気になりませんでした」
「………………」
「大きさは全く違いますけど、それで思い出したんです。以前、百人一首を学校で習った時、澪標について話したのを」
「それも、冬の頃だったから?」
「はい。雪遊びをしたのは、随分前のことでしたが」

 風が凪ぎ、しんと静まり返った景色の中。
 僕は息を殺し、一度閉じた美魚の唇が開くのをじっと待っていた。

「……ところで、その雪だるま、直枝さんに似ていると思いませんか」
「って、え、あれ? 澪標の話は?」
「今考えるととても恥ずかしいので、秘密です」
「何というか、いきなり肩透かしを食らった気分……」
「嬉しいですか」
「二重の意味で嬉しくないよ……。そもそも、どこが僕に似てるの?」
「小さくて頼りなさそうな辺りがどことなく直枝さんを彷彿と」
「ごめんわかったからもう言わないで」

 真顔で言われると本当にへこむ。
 せめてもの意趣返しに、握った手を自分の上着のポケットに引き入れる。けれど美魚は表情を崩さず、親指の腹で僕の手の甲を軽く叩き、無言で離してください、という意思を伝えてきた。一瞬子供みたいに拗ねかけて、やめる。強引にやったのは僕の方だし、それで本当に彼女の機嫌を損ねたらどうしようもない。
 遠ざかる手指の仄かな熱と滑らかさを名残惜しく思っていると、突然、耳に乾いた音が届いてきた。視界の隅、さっきまで美魚が持っていた傘が、地面に落ちている。その意味を考えるより早く正面に上着とスカートを翻した細身が立ち、琥珀を湛えた瞳が近付いて、

「ん……っ」

 冬の寒さの只中にあって、触れられた箇所だけが酷く熱かった。
 口紅も何も塗られていない、薄桃色の唇が糸を引く。そして緩やかな動作で傘を拾い上げた美魚は、まだ動けずにいる僕を置き去りにしてすたすたと歩き始めていってしまった。しばし、呆然とする。
 いや――ちょっと、脈絡なさ過ぎるんじゃなかろうか。
 慌てて追いかけ隣に並ぶ。それを見越していたかのように美魚は振り向き、再び左手を差し出してくる。

「直枝さんのせいで、随分冷えてしまいました」
「それ、僕が悪いのかなあ……。というか、あの、美魚、何でいきなり?」
「寒かったので」
「……そっか」
「はい」

 いっそ清々しいほどあからさまな嘘に、僕は苦笑するしかなかった。
 そうして手を取る。風に晒された互いの繋ぎ目は、どれだけ固く握り合っても冷たい冬の大気から逃れられないけど、それでも、一人で遊ばせているよりはずっと温かい。

「……理由を教える気はない?」
「ではひとつだけ。ヒントは、みおつくし、です」
「え?」
「夜が更ける前に戻りましょう。今日は食堂を少し使わせていただけることになっているので、夕食はわたしが作りますよ」

 滅多に見せない、悪戯を仕組んだ子供めいた笑みを浮かべ、美魚は歩く速度を上げた。ただ手だけは離さずに、困惑する僕を引っ張って真っ白な道を進んでいく。彼女に半歩遅れて足を踏み出し、左手に持つ閉じた傘の先端で背後の雪を削りながら、唐突なキスの訳を考えて――ふと、閃いた。
 ……でも、まさか。本当にそんなのでいいんだろうか。
 正解を訊こうか少し迷い、結局口を噤むことにする。間違ってたら恥ずかしいし、それに、何というか。

「頼りなさそう、かぁ……」
「どうしました?」
「ううん、なんでもない」

 言葉にしてしまったら自意識過剰みたいで、すごくいたたまれなくなりそうだから。
 代わりにほんのちょっと体重を預けて、心の委ねを僕の答えにした。

 ――まあ、支える役目は逆だけど。
 そのくらいの違いはいいんじゃないかと、思う。