肌寒い男子寮の廊下を歩く細身の人影があった。どこか迷いを含んだ足取りで、周囲の視線を気にしながら進んでいる。 終業式を済ませた冬の学校に通う生徒はいない。寮住まいの人間はその大半が早くに帰省し、冬期休暇に入ってから最初の夜だというのに、普段騒がしく感じる寮内はひっそりと静まり返っていた。この時間帯ならいつもは誰かしらと顔を合わせるものだが、長い廊下には足音の代わりに静寂が満ちている。気のせいでなければ吐く息は薄く濁り、露出した白い肌に触れる大気は鋭い冷たさを伝えてくる。 己の肩を抱き、ぶるりと身を震わせた人影は、目的地であるドアの前で立ち止まった。躊躇いは一瞬、胸の高さに掲げた手で軽くノックをする。部屋の中からちょっと待って、と声が聞こえ、すぐに扉は開かれた。ノブを握り、来訪者の正体を知った部屋の主――理樹が、驚いたように呟く。 「……クド?」 「め、めりーくりすますなのです、リキっ」 一歩分の距離を置いて目前に立つクドは、恥ずかしげに小さく俯きながらもはっきりとした声でそう告げる。 対する理樹は驚きの表情を浮かべ、彼女の足下から頭までをなぞるように見た。 「えっと……その格好、どうしたの?」 「来ヶ谷さんが、これを着ていけばきっとリキは喜ぶ、って言ったので……」 「ああ、来ヶ谷さんか……。何となくそんな気がしてたけど」 有り体に言うならば、クドが身に着けていたのはサンタ服だった。 少々派手なファッションという線も否定はできないが、今がクリスマス当日であることを鑑みればその可能性は限りなく低い。プレゼントを詰めた袋やトナカイが牽くソリは見当たらないものの、袖や裾に白のフリースをあしらった赤基調の衣装は確かにサンタクロースをイメージさせる。 もっとも、この服装自体に意味はないのだろう。いつもの悪戯だと思えば、怒る気持ちも湧かない。 仕方ないなあ、と溜め息を吐き、なるべく驚かせないよう、脅えさせないよう、そっと理樹はクドの両肩に手を置いた。 触れた箇所から微かな身の震えが伝わる。が、嫌がっている様子はない。そのことに安堵し、肩を撫でるようにしてゆっくりと二の腕へ掌を滑らせる。互いの距離を詰めれば抱き合える形。それに気付いたのか、クドの頬は熱を増した。 潤んだ瞳が理樹をじっと見つめる。期待の色が混ざった視線に鼓動が速まり、理樹はごくりと唾を飲む。 「クド。聞いてほしいことがあるんだ」 「……何でしょうか、リキ」 手に力を込め、細く柔らかな身体を引き寄せた。 クドの背後で扉の軋む音が響く。廊下側の明かりが届かなくなるのと同時、僅かな間密着していた肌が半歩分離れる。 言わなきゃ、と理樹は思った。大事なことを。本当に、自分がしてほしいことを。 息を吸う。間近で見上げるクドに向け、唇を開く。 「お願い。今すぐ、そのスカートを脱いで」 聖夜に於けるサンタクロース論、もしくは少年の夢を受け入れる少女の話 至極真面目な表情で放たれた言葉を、しばしクドは信じられなかった。 まず己の耳を疑い、次に理樹の正気を疑い、最後に現実の在り様を疑った。しかし吐息や心臓の音を感じる聴覚は正常で、先の発言を除けば理樹はあまりにも自然でいつも通り、本気で抓った頬はマジ痛かったので夢でもない。 頭を左右に振り、もう一度言ってください、と頼む。 「スカートを脱いでほしい」 「あの……そ、それは誰の、です?」 「勿論クドの。僕はどう見たって穿いてないでしょ?」 「そう、ですけど……でも、ど、どうして?」 「ああ、そっか。ごめん、ちゃんと説明してなかったね」 二の腕を掴んでいる手の力が弱まり、無意識のうちにクドは腰を引いた。地面を擦った踵が、じり、と音を鳴らす。 あからさまに警戒を強くしたクドに、理樹は一旦両手を離し下ろすことで応える。 そうしておもむろにスカートへ視線をやり、反射的にクドがその前面を手で押さえたのを確認して、 「どう考えてもさ、それ、短いよね」 「わふ……っ」 「別にミニスカが嫌いってわけじゃないよ。でも、今クドが着てるのはサンタ服だ」 「は、はい」 「じゃあ、その格好は変だと思わない?」 「……変ですか?」 「うん。サンタクロースとミニスカの組み合わせを、僕はおかしいと思う」 振り返り部屋の中心へと歩き出す理樹に、一拍遅れてクドも靴を脱ぎ追いかける。 二段ベッドの下、梯子を除けた木製の柵に座った理樹のそばで立ち止まり、躊躇いを一瞬見せつつも隣に付いた。 限界まで引っ張られたミニスカの生地が、ぴっちりと閉じた腿の隙間を覆い隠す。 少し古くなった蛍光灯の光に照らされたクドの剥き出しの肌は、新雪めいた淡い白さを晒している。 炬燵以外の暖房器具がない室内は廊下ほどではないが寒く、暖を取るためにクドはスカートを押さえていない方の掌で、腿の表側を優しく擦った。熱を得て、肌がうっすらと朱に染まる。 そんな一連の仕草を眺めていた理樹は、クドの膝上に片手を伸ばした。最初に中指が、続いて人差し指と薬指が触れる。ぴたりと硬直したクドを安心させるように、決して下腹部には近寄らず、膝の周囲で縦長の円を描く。 愛しさを込めて撫でながら、話を続けた。 「起源とか歴史とかは僕もよく知らないんだけど……サンタっていうのは本来、子供の夢を叶えるものだよね。みんなが寝静まった頃、どこからともなく家の中に入ってプレゼントを置いていく。それはある意味、とても神聖なことなんじゃないかな」 「ん、何となく、わかる気がします」 微妙なくすぐったさに耐え、身の強張りを若干緩めてクドは頷く。 その反応に笑みを返し、理樹は手の動きを控える。 名残惜しそうな色を宿したクドの目が、止まった腕から理樹の顔に向いた。 「だから、夢を配るサンタクロースの格好も、相応しいものでなきゃいけない。そもそもクリスマスがあるのは冬だし、もし女の子のサンタがいるんならズボンかスカートかくらいは選んでもいいだろうけど、いくら何でもミニスカは有り得ないよ」 「でも……私が着るならともかく、例えば小毬さんなんかはすっごく似合うし可愛いと思います」 「クドが着ても可愛いよ。それは僕が保証する」 「え、あ、そんな、リキ……わふー……」 思いの外ストレートな言葉に、クドは二の句が告げず俯いた。 恥ずかしさで顔を上げられずにいると、膝を離れた理樹の手が垂れ下がった後ろ髪を梳き始める。 艶やかな亜麻色の髪は、五指を抵抗なく通した。何とも言えない心地良さに目を細め、しばらくその感覚に浸る。指が抜ける度にはらりとこぼれ、赤い衣装の背に落ちる髪。光の加減で銀にも見えるそれが、小柄な身体に遮られ薄暗くなったベッドの縁で煌めいていた。 「だけど――ただ似合うから、可愛いからと言って安易な選択をするのは駄目だと思うんだ。そんなのは、視聴率が取れないから脱げばいい、なんていうような考えと何ら変わらない。確かにそれで喜ぶ人もいるだろうけど、スカートをギリギリまで短くして、肌の露出を無駄に増やして、そうして得られるのは一時の支持だけだよ。慎みも、美しさもそこにはない。子供の純粋な夢を踏みにじる、大人の発想だ」 「そうなのでしょうか……。こういうサンタさんがいても、私はいいと思いますけど……」 「本当にいるのなら、僕だってこんなことは言わないよ」 一抹の寂しさを声に滲ませ、理樹は表情を陰らせた。 髪から指が引かれる。力なく戻された手は再びクドの肩に触れ、軽く握られた小さな手の甲まで下りた。開かれた手指でそっと包み込む。だいぶ冷えてるね、と耳元で囁く理樹に、クドは僅かばかり体重を委ねることで返事とする。 「サンタクロースと聞いて誰もが思い浮かべるイメージってのがあるよね。紅白の暖かそうな服を着た、真っ白な髭のおじいさん。少なくとも、サンタからミニスカートの可愛い女の子を想像する人はいないはず。クドはどう?」 「わふ……私も、立派なおひげのおじいさんを想像しました」 「うん。それが普通。つまり、僕達が持つイメージとは違う、言わば亜種の存在は、後付けされたものに過ぎないってこと。宣伝になるとか、他より目立てるとか、そういう理由や動機から作られてる。なら、サンタにミニスカなんてのも一緒だよね」 「……みにすかーとの方が、目に付く?」 「その通り。足を晒すっていうのは、女の子のわかりやすい魅力を見せるための手段だから。胸元を開けたり、ノースリーブにしたりするのも同じ。着る人の恥ずかしさや上品さを引き替えにして、視覚に訴える形を取ってる」 「なるほど、なんとなくわかってきました。リキは、サンタさんがサンタさんらしくない姿でいるのはおかしい、と言いたいのですね」 「要約すればそうかな。本来の目的とは別の主張をした時点で、それはもうサンタクロースじゃないんだと思う」 「……なら、リキ。私はサンタさんに見えますか?」 「正直に言うよ。今のクドには、大事なものが足りてない」 簡単な話だ。 ミニスカでいる限り、サンタクロースからはかけ離れてしまう。 ならばどうすればいいのか、その答えを、今一度理樹は提示した。 「だから僕は、クドがサンタであるためにも、スカートを脱いでほしいんだ」 「…………えっと、あの、リキ、やっぱり話がよく見えないのですが」 「言葉通りだよ」 「それは……ここで脱ぐ、ってこと……ですよね」 「うん」 即答だった。全く迷いのない肯定にクドは腰を浮かせかけたが、どこか悲しそうな理樹の表情を前にして、心が揺れる。 預けた身体の重みを自分に戻し、半身程度の距離を置くことで戸惑いと躊躇いを示した。 「だ、誰かが来たりとかはしないでしょうか」 「ほとんどみんな帰省しちゃったし、よっぽど大きな物音でも立てない限りはたぶん平気」 「でも、もしかしたら、万が一ということも……」 「……だめ、かな」 「あ、う……わ、わかりました」 不安と諦念、そしてほんの僅かな期待を含んだ理樹の声に、クドは折れた。 躊躇いはそのままに、床に足を付けて立ち上がる。一歩を踏み出し反転、理樹を正面に据え、上着の裾を軽くめくって下腹部付近に指を掛ける。そこにある、ウエストを押さえている濃い茶色のベルトをまず抜いた。のたうつ蛇のように落下したそれには構わず、腰横のホックに触れて外そうとする。 「…………っ」 が、極限に達した羞恥が指の動きを止めた。 地面を向き、耳まで赤く火照らせたクドは、スカートを下ろす直前の姿勢で硬直した。小刻みに奏でられる金属音を聞き、理樹は彼女の手が震えていることを知る。知って、見ていられなくなり、彼もまた立ち上がった。すっとクドの背後に回る。両手を広げ、細身を抱き、 「恥ずかしい思いさせちゃって、ごめんね。あとは僕がやるから」 「そ、それはそれで恥ずかしいといいますか……」 「じゃあこう言おっか。僕が脱がしたいんだ」 「……リキ、そういう言い方は、ずるいです」 言葉とは逆に、抱き締めた身体からは強張りが消えていく。背中側にいると表情は窺えないが、嫌がられていないというのはわかった。熱が残ったクドの耳に唇を寄せ、行くよ、とだけ言う。返答は待たない。腰に回した手をホックがある場所まで持っていき、金属の噛み合いを解く。 生地を掴んだ手が開いた瞬間、乾いた音と共にスカートが足下に落ちた。遮るものの一切ない、あまりにも頼りない下半身の感覚に、クドは膝を内に閉じようとする。完全に剥き出しの腿は艶めかしく、下腹部を覆うシンプルな下着は、可愛らしいというよりも扇情的、かつ倒錯的だった。 「次は……どうすれば、いいです……?」 「ちょっと待ってて」 弱々しく問うクドから離れ、身を屈めた理樹はベッドの下に腕を入れた。うっすらと埃が積もった箱を引っ張り出し、開封する。中に仕舞われていたのは、 「……すかーと?」 先ほどクドが脱いだものとほぼ同じ意匠の、ロングスカート。丁寧に畳まれたそれを手に取り、再び彼女の後ろに付く。 理樹の意図を察し、小さな爪先が宙に浮いた。右、左と足指から踵、踝が通って、そこからは理樹が上に運ぶ。膝を過ぎ、腰で止まったスカートはホックで固定された。地面に転がしていたベルトで締め、完成する。 足首までをしっかりと隠す長さにより、格段に露出が減ったサンタクロース姿になった。 「よく似合ってるよ」 スカートの着心地を確かめるように、クドは右足を支点にして軽く身を回した。世界が一周したところで理樹に褒められ、はにかみながらも笑みを見せる。 足下にあるミニスカをとん、とステップで飛び越えて一歩分近付いたクドの手を、理樹が優しく取った。 そのまま慣性に逆らわず、引き寄せる。 「わふっ」 「どうかな。これでクドも立派なサンタになったと思うけど」 「本当に、そう思いますか?」 「勿論。さっきよりもずっと可愛いし、ちゃんとしてる」 「リキ……」 勢いで理樹の胸に埋めていた顔を上げ、クドは小さく背伸びをした。 鼻先が触れる距離まで迫る。甘く穏やかな雰囲気に全てを委ねそうになり、 「わふーっ! あ、危うく流されるところでしたっ!」 目を閉じかけた直前、勢い良く突き飛ばされた理樹が頭からベッドに突っ込んだ。 木枠に後頭部をぶつける鈍い音が響き、不自然な静寂が余韻を残す。 両の腕を突っ張った姿勢で固まったクドは、ゆっくりと力を抜いて一息。 あまりにも飾らないというか素の態度だったので騙されかけたが、よく考えなくてもこの流れはおかしい。そもそも発端が「スカートを脱いでほしい」である以上、どう転んでもまともになるはずはないのだが、大変残念なことに、多少変態でも理樹を好きな気持ちに変わりはなかった。 いったいどこで間違ったんだろうか。最初からか。惚れた時点で手遅れだったのか。一人自問し始めたクドの正面、うう、と呻いてどうにか起き上がった理樹が、悲しげに俯くサンタ姿の彼女を視界に捉える。 改めて見ても可愛かったのでとりあえずベッドから出て抱き締めた。一片の躊躇いもないその行為に、ワンテンポ遅れて気付いたクドが今度は割と本気で抵抗する。しかし、耳に細く息を吹きかけられ、あやすように背中を撫でられて、あっという間にふにゃりと脱力した。 即セクハラと行かない辺りが微妙に良心的だが、どこがまだまともだとか、そういう段階はとっくに通り過ぎている。 「――ねえ、クド。どうしてそんな恰好で、この部屋に来たの?」 「それは、来ヶ谷さんが」 「僕が聞きたいのは、クドの理由だよ」 白い首筋に顔を寄せると、腕の中でクドがぴく、と震えた。敢えて無視し、うなじに鼻を擦り付ける。 汗と、髪に染みたシャンプーの仄かな匂い。吐息で僅かに湿った肌を、唇が軽く吸う。跡にはならない程度に。 「来ヶ谷さんに言われたから……じゃ、ないよね?」 「ひぁ、ぅ……んっ、リキ、やめて、くださいっ」 「クドが本当に嫌だっていうならそうする」 もどかしさに身を捩るクドを押さえ、弱い口付けを繰り返す。 頬だけでなく、抱いた全身が火照りを持ち始めるのを服越しに確かめて、彼女ごと後ろに倒れ込んだ。 重力に従う背を、ベッドが受け止めた。軽く跳ね上がった勢いで浮いた足を絡め、理樹は小さな身体を組み伏せる。 影に覆われたクドの瞳は、不安と、微量の期待に揺れていた。華奢な肩に置かれた手を振り払うこともせず、ただ、彼の言葉を待っている。所在なさげに投げ出された指が、くしゃくしゃのシーツに爪を立てた。 じり、と布を擦る音がする。 「サンタクロースは、プレゼントを届けに来るものだよね」 「……は、い」 「何が欲しいかを教えたら、クドはそれを叶えてくれる?」 「その……私に、叶えられそうなら、ですけど」 「大丈夫」 最早どこが大丈夫なのかと疑問を向ける気にもなれない。 どうしてこんな展開になったのか、結局着替えさせられた意図は何なのか、ベッドの下から出てきたスカートは今の状況を見越して用意されたものだったのか、あるいは普段人目を憚りつつ女装して悦入ってるのか、全ては不明のまま、どうでもよくなってきている。完璧に流されていて、しかもそれでいいやと思っている自分にクドは危うさを覚えたが、過程とここまでに得た諸々の感情を忘れれば雰囲気だけは理想的なので、もう現実を全部放り投げて理樹に委ねることにした。 眼前、好きなひとの微笑がある。だからクドも緊張を笑みにして溶かし、 「――教えてください。リキが欲しがってる、何もかもを」 求めの声から少し遅れて、二つの影が、控えめに重なった。 斯くて、神の子が生まれ落ちた日の夜は静かに更ける。 カーテンに遮られた窓の外、藍色の闇に浮かぶ月を見て、寒空の下で眺めていた猫達が、一斉ににゃあ、と鳴いた。 遙か彼方、欠けた月を横切ったものに、彼らだけが気付いた……のかも、しれない。 |