――懐かしい声で、呼ばれた気がしました。
 重く閉じた瞼をゆっくり開くと、窓から斜めに射し込む光が目に入ります。眩しさに思わず瞳を細め、そのままゆっくりと頭を持ち上げたところで、腕の痺れに気付きました。
 ……そういえば、いつの間に寝てしまってたのでしょう。
 見れば枕代わりにしていた腕を包む袖は少し濡れていて、口端にも湿った感覚が。途端に恥ずかしさが込み上げ、手の甲で慌てて涎を拭ってから、私はテーブルにずっと突っ伏していたせいで強張った背筋を伸ばしました。骨の鳴る乾いた音が響き、何となく、歳を実感します。
「ふぁ……っ」
 遅れて来たあくびを噛み殺しながら、眠る前から点けっぱなしにしていたテレビの音声に意識を向けました。今は二時過ぎ。正午辺りにお昼ご飯を済ませ、食器の片付けをし終えたのが半頃でしたから、寝ていたのは一時間ちょっとくらいでしょうか。傍らでは一緒に作ったうどんを食べた我が家の長女がまだぐっすりお休み中で、あどけない寝顔を眺めていると、それだけで穏やかな気持ちになります。
 遊びたい盛りのこの子が、休日なのに出かけてないのは珍しい、と思いつつ、寝室からタオルケットを取ってきてそっと被せました。微妙な重みを感じてか、むずがるように「ううん」と呻いて、さっきまでの私と同じくテーブルに突っ伏した顔がもぞりと動きます。腕に押し当てられていた頬は赤くなっていて、ついでに袖のボタンの跡が付いていたので、悪いとは知りつつもつい噴き出してしまいました。ただ、そのすぐ後に鏡を見た時、自分も子供のことは言えないと気付いたのですが。
 洗面所で申し訳程度に頬の不細工な跡を誤魔化し、改めて座った瞬間、足先に何かが触れました。覗き込んでみるとそれは今朝の新聞で、手持ち無沙汰になっていた私は娘を起こさないよう静かに回収し、四つ折りにされた一面を開いて、
「あ……」
 クーニャ。
 そう、夢の中で私を呼んだ人が誰だったかを、今更、思い出したのです。










空の向こうに










 大学に入る前、私はリキとふたつの約束をしました。こすもなーふとになりたい、というあの日の言葉を本当にするため、夢を叶えるために、最大限の努力をすること。けれど、もし卒業するまでに――身体の成長が止まってしまったら、どんなにつらくても、悔しくても、きっぱりと諦めること。
 苦手な英語の習得だって、頑張り次第ではどうにでもなります。ただ、頑張るだけではどうにもならない部分に関しては、運を天に任せるしかありません。こんなところだけおかあさん譲りの小柄な背丈は、リキと並んで歩いていると兄妹に間違われるほどで、カレンダーをめくる度、私の中の焦りは大きくなっていきました。
 日本のひとらしくない青い瞳の色も、亜麻色の髪も、英語がほとんど喋れないことも、胸がぺったんこなことだって、リキが認めて、受け入れてくれたから、嫌じゃなかった。だから純粋に、自分の至らなさ以外の原因で諦めざるを得ない状況に追い込まれるのが、怖かったのです。

 今までできなかったたくさんのことが、少しずつできるようになりました。
 ……だけど、一番欲しかったものだけは、手に入りませんでした。

 とてもよく晴れた日だったのを、覚えています。
 リキは、落ち込む私の右手を引いて、近くのビルの屋上まで連れ出しました。もう使われていないのか、寂れてぼろぼろになった階段を駆け上がり、錆び付いた扉を開けた途端、沈みかけの夕陽が目を焼いて、思わず空いた左手で顔を覆いました。やがて、地平線の向こうに飲み込まれていく光。周りを取り囲む建造物の群れを燃やし尽くすような赤色が、すぅっと深い藍色に塗り潰されていくのを、私は茫然と眺めていました。
 右手の熱が離れていきます。代わりに後ろから抱きしめられ、耳元にリキの吐息が触れました。
「そんな簡単に諦めたりなんて、無理だよね」
「はい。でも、私、あきらめなきゃ……いけない、ですよね」
「……ねえ、クド。クドは、何になりたかった?」
 唐突な、リキの問い。
 それに私が返すべき答えは、ひとつしかありません。
「こすも、なーふとです」
「なら、クドは――何のために、なりたかったの?」
「何のために、こすも、なーふとに……」
 おかあさんの、となりに、いきたかった。
 ずっと言えなかった「おかえりなさい」を言いたかった。
 でも、きっとそれだけじゃなくて、私は――
「……ゆめを、かなえたかったです」
 多くのものを犠牲にしてでも、おかあさん達はあの空の向こうを目指そうとしました。
 本当に大事なものが、そこにあったから。
 私と、おなじように。

 ――ああ。
 そういう、ことなのですね。

 お腹の辺りで組まれたリキの手指を、一本一本丁寧に外していきます。
 ほどけた腕が落ちるのに合わせ、私は振り向きました。
 間近に映る、リキの顔。
 優しくて、だけど決して甘い答えをくれない、私の『本当に大事なもの』。
「私は、こすもなーふとにはなれません」
「うん」
「それでも、私の夢が叶うように、一緒に応援してくれますか?」
「……うん。勿論だよ、クド」
 テヴアでは掴めそうなくらい近くに見えた星も、ここでは屋上まで来てるのにもかかわらず、とても遠く感じます。けれど、少なくとも私にとっては同じ空で、彼方まで広がる薄闇の先に、おかあさんが、私が抱いた夢があるのです。
 私自身が届かなくたっていい。
 おかあさんの描いた未来を実現させようとしたひとがいたように――私には見えないところで、たくさんの『誰か』が頑張っているはずだから。そこに私がいなくても、おかあさんがいなくても、いつかは越えていけるのだと、思えるのです。
「リキ。あたらしい、約束をしましょう」
 掲げた右の手のひらをリキと重ねてから、そっと小指を結びました。
 ことばとわずかな仕草だけで交わす、私達の、壊れやすい誓い。
 ……風が冷たい星空の下、指切りの後にしたキスは、ちょっと、しょっぱかったです。










 リキとふたりで借りたアパートには、私の背丈よりもずっと大きな本棚を買って置いていました。西園さんに薦められた様々なジャンルの小説や、大学の勉強に使った参考書、他にも料理のレシピ本などを雑多に詰め込んでいて、お引越しをした今でもその本棚は現役なのですが、丁度私が一番取りやすい位置の列に、夢の名残が並んでいます。深い闇の、宇宙の色をした表紙。素っ気ない文体で綴られた、物性物理や宇宙工学の学術書。それと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。
 自分で飛ぶことを諦めてからも、うっすらと手垢が付いて擦り切れたページを、何度も開いてめくりました。初めは重く心の中に沈んでいた未練も、時が経つにつれて静かに溶けていき、いつしか、空の向こうに思いを馳せても胸が軋むことはなくなりました。
 それが本当にいいことなのかは、わかりません。やっぱりおかあさんは私にこすもなーふとになってほしかったのかもしれなくて、仮に生きていたならば、事故が起きなかったならば、きっとこんな風に穏やかな日々を送ってはいなかったでしょう。
 今でも後悔する気持ちはたくさんあります。もしもあの時、私の身長がほんのちょっと伸びていたら。あるいはリキと会うよりも前、おかあさんの背中を追い続けていたら。テヴアから逃げず、必死に足掻いて自身の居場所を見つけていたら――。些細な決断が未来を変えて、遠い空の向こうに辿り着くことだってできたのだと思います。

 でも、私はここにいる。
 だいすきなひとと共に暮らす日常を選んで、しあわせに、生きています。

 畳んだ新聞をテーブルの上に置き、立ち上がって寝室の押入れに向かいました。
 雑然と仕舞われた荷物を取り除いていくと、そこにはかなりぼろぼろになった段ボール箱があります。しばらく見ない間にまた随分埃が積もっていて、慎重に引っ張り出したにもかかわらず、視認できるほどの量が舞い上がりました。鼻をつくような匂いにあてられ、くしゅん、と抑え切れなかったくしゃみで埃を吹き飛ばしてから、一度洗面所に行って取ってきた雑巾で汚れを落とし、ただでさえ潰れそうな箱をこれ以上壊さないように開きます。
 私は中に入れた両手で掴んだそれを持ち上げ、外から射し込んでくる淡い光に晒しました。鈍く銀色に輝く個人認識票ドッグタグと、高熱で色々な部品が溶け合い混ざった金属片――ロケットの欠片。もうひとつ、そのさらに下に眠っていた、一枚のくすんだ絵葉書。全てを胸元に抱えて居間に戻ってから、再び新聞の一面に目を通します。
 ……前々から、おおまかな話はおじい様に聞いていました。あの事故後、島民の激烈な反対を主な理由として縮小傾向にあった宇宙開発事業は、長い年月を掛け、再びその規模を拡大していったそうです。プロジェクトに携わった職員、研究員の根強い要求と、より強固で安全性が保障された次世代の機体が完成した結果、凍結していた計画は再開し、先日ついに打ち上げの日程が決まった、ということでした。
 新聞一面の記事は、まず小さな島国であるテヴアの簡単な歴史の説明から始まり、当時大々的に報道され、遠く離れた日本のひとでもある程度は覚えているだろう爆発事故とそれに伴う二次災害のあらまし、今も残る傷跡や復興に費やした期間などについても簡単に触れていました。事実のみを淡々と記したテキストの末尾には、具体的な打ち上げ時刻が書かれていて、それが、日本時間で今日の二時四十二分。……あと、三十分もありません。
 腰を浮かせて近くにあったリモコンを取り、テレビ欄を確認して録画の準備をしておきます。残念なことにリキは仕事の関係で出かけていて、夕方までは帰ってこられません。リアルタイムで一緒に見たかったのですが、こればっかりはしょうがないでしょう。だからせめて、後でリキも見られるように。
 少しだけテレビの音量を上げると、娘がぴくりと眉の辺りをしかめました。上半身が微かに揺れ、掛けていた毛布がずり落ちてしまったので、優しく直しておきます。私よりもリキに似た、年相応のあどけない顔。ショートカットのさらさらした髪は黒く、けれど、今は閉じている瞼の奥にある瞳は、私と同じロシア系の青色をしています。
 リキと結ばれた時から、ずっとこどもが欲しいと思っていました。ただ、それは本当に難しいことで、お互い仕事が落ち着くまでは『そういうこと』をしないと決めていましたし、この子が産まれてからも、佳奈多さんを始めとした皆さんに助けられた部分はかなりあります。
 かつての私は、逃げ出して訪れた先にもうまく馴染めない異邦人えとらんじぇでした。
 おかあさんみたいになれれば。そんな思いも、何もかもが足りない自分に対するコンプレックスや、私が望んだ場所に立つひとに向けた憧れだけではなく、どこへ行っても『仲間外れ』なことが辛くて抱いたものでもありました。
 いつだって、ひとは間違い探しをしています。大多数の方から見れば私やこの子はやっぱり異邦人で、だからすぐには溶け込めなくて、コウモリのように、暗い洞窟の中、ひとりでいることを選んでしまう。
 でも私には、リキがいました。皆さんがいました。それがこの子を産もうと思えた理由。そして、今の職業――小学校の先生を目指した理由です。
 こんな小さななりでは大人の威厳も何もありませんし(六年生の中には私より背の高い生徒もいます。複雑な気分です)、やっぱり髪や瞳の色について言われたりもしますが、ひとと「違う」私だからこそ教えられることがあると気付きました。幼い頃にまわった色々な国の話。お母さんが語ってくれた、宇宙とそこに浮かぶ星の知識。仲間のために居場所をなくして、それでもみんなが仲良くいられるのなら構わないと言ったコウモリの物語。
 先生になってから最初の始業式の日、受け持った教え子のひとりが、黒板の前に立つ私の目を見て「きれいだね」と告げました。こどもたちは純粋で、時にそれは残酷でもあるけれど、あの言葉が決して嘘じゃないことを私は知っています。
 足りないものがあったって、周りと違ってたって、絶対に自分を受け入れてくれるひとはいる。
 たぶん、そこにすべての答えが詰まっていると思うのです。

 少しだけ跳ねた娘の髪を撫でて整え、私は小さく俯きました。
 視界に入るのは、テーブルに置いた絵葉書の、胸が震えるほどに深く静かな色。
 私達を包み込んで抱きしめる、ひとつながりのおおきな世界そら

 壁掛け時計の長針が半を指した頃、お昼のニュースで日本の事件を流していた画面の映像がぱっと切り替わり、綺麗に澄んだテヴアの空と、細身の大きなロケット、そしてそれを支える発射台が映りました。緊急事態に備えて待機しているいくつもの車両が画面隅に並んでいて、アナウンサーの声以外はほとんど何も聞こえません。次に映ったのは、遠くでじっと成功を祈る島民の集まり。たくさんのひとが固唾を飲んで見守る中、怖いくらいの静寂で、私も我が事のように緊張して鼓動が速まりました。どくん、どくん、耳の奥深くで響く音がうるさくて、息苦しくて、それでも目は離せなくて。
 おかあさんの欠片をぎゅっと握りしめ、冷たい金属の手触りを感じながら、両手を合わせます。

 二時四十一分。オペレーターが告げる、ノイズ混じりのカウントダウン。
 まぼろしのスプートニク12号。
 おかあさんの夢を継いだ、星の海を目指す旅人。
 どうか、どうか無事に、飛んでください。
 私は祈るから。だからおねがい、



「飛んで……!」



 ――轟音が、スピーカーを通して耳に届きました。
 赤白い熱と光の奔流がロケットの下部から走り、姿勢制御された機体が浮き上がっていきます。
 ぐんぐんと加速し、やがて現地のカメラも追えなくなるほどの高度に到達して、そのまま真っ直ぐ、白の軌跡を残して消えていく、私達のゆめスプートニク
 ここからはもう、肉眼で機体の状況を確認することはできません。空に伸びていた尾のような白煙は徐々に薄れていき、地上の人々が事後作業のために動き始めました。それに合わせ、ロケットが飛び立つ瞬間の島民の様子をテレビは映し出します。黄色い声を上げて騒ぎ、嬉しそうに跳ねたりするひとが大半で、けれどその中に僅かながら、憮然とした表情を浮かべる方がいました。喜びとも、悲しみとも違う、ひとことでは表せない複雑な感情の色。
 ……それを見て私は、おかあさんが言っていたことを思い出しました。
 誰にだって、譲れないものがある。でも、自分を押し通せば、自分以外の誰かをどこかで押し退けてしまう。
 この光景を目にするために、たくさんのものが犠牲になったはずです。島が沈み、住む場所を追われたひとがいたように、計画のせいで苦しい思いをしたひとも、私が想像するより遙かに多くいるのでしょう。
 だけど、そういう『重さ』を背負っておかあさんたちが頑張ってきたのだと、私は知っています。何かを犠牲にして、時には罵倒されて、それでも選んだ答えに胸を張っていたのだと――他でもない、おかあさん自身に教わったのです。

 リモコンを手元に引き寄せ、テレビの電源を落として。
 歓声の余韻を引きずりながら、立ち上がって窓のそばに近付きます。
 ……目の前に広がる、きれいな空。
 そのずっと向こう、50ノーティカルマイルの先に辿り着いた旅人の姿を、私はそこに見ました。



――ちゃんと、届きましたよね。





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 蛇足なので下に置いといたあとがき

 原案の時点で、この話のタイトルは『50ノーティカルマイルの空の下』でした。
 以前、日向の虎さんが開催したリトバスSS祭り(私が知っている限りでは最も古いふぇすた)に投稿したクドシナリオ補完SS『50ノーティカルマイルの空』と、ある意味では対になるものとして構想したのがきっかけです。本編順守の考え方だと、彼女はこすもなーふとになることを目指しますよね。それは無印でもEXでも変わりなく、優秀な母親にコンプレックスを抱きながらも、クドはずっと憧れていたのだと思います。できればそこに行きたいと、絵葉書の裏に書かれた、DVDで言っていた「いつか、いっしょに、みにいこうね」という、約束とも言えない約束を果たしたかったのでしょう。
 ……では、仮にこすもなーふとになれなかったら、クドは幸せになれないのか。
 私はその問いに対し、違うと答えたいです。彼女にとって、決してその夢は全てじゃない。幸せの形がひとつではないように、こすもなーふとになれなくても、幼い頃から抱いていた夢が叶わなくても、別の道を歩むことで幸せは得られるはず。そんな思いから『届かなかった未来』が私の中に生まれました。
 今回、劇中でクドの過去語りは最低限に抑えています。本当はもっとたくさんのことを経験し、乗り越えてきているわけですが、何もかもを書くのは野暮だろうと判断したからです。テヴアへの旅行。おとうさんとの再会。ストレルカ、ヴェルカとの別れ。ひとが生きていればそこには様々な出来事があるけれど、饒舌なのもよくないよなあ、と。そんな感じ。
 資料的な部分では、例えば小学校の先生。通常教員資格を得るためには、大学の教育学部などを出る必要があるんですが、それ以外にも教員資格認定試験というものを受けて合格することで、中高以外の教員免許を取得できます。具体的には幼稚園と小学校、あとは特別支援学校(いわゆる身体面で不自由な人のための学校)のですね。今回の話ではこの試験で資格取ったわけです。こすもなーふとになるための条件については、拙作『50ノーティカルマイルの空』かWikipedia等の情報参照。宣伝乙。
 タイトルは、岡崎律子さんのアルバム『for RITZ』より。正直、ずるい曲ばっかりです。色々な意味で。
 以下、歌詞からSSのテーマ部分の引用。

 それぞれに幸せがあるの
 ココロはそこへ向かう
 きっと この胸に降りそそぐ
 光はあると思う


 他にも『I'm always close to you』や『メロディー』、『リセエンヌ』の歌詞にも近い内容として書いているので、もしよろしければ原曲の方を聴いていただけると嬉しいです。
 ではでは、余分な補足説明はこのくらいでおしまい。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。