はるちん編
 こまりん編
 みおちん編
 クド編
 姉御編
 鈴編






・直枝×三枝


「やはー、理樹くん。遊びに来たよー」
「いらっしゃい、葉留佳さん」

 僕が寮の自室で宿題をしていると、唐突に葉留佳さんが現れた。
 ペンを一旦置き、快く迎え入れる。

「あれ、真人くんは? てっきり部屋の隅っこで暑苦しそうな筋トレしてると思ってたんだけど」
「謙吾と一緒にグラウンドを走り回ってるよ。さっきまでいたんだけどさ、どっちが長く走れるか勝負するって言って」
「相変わらず頭のネジが外れてますネ。……でも私としてはその方が好都合かなあと」
「え?」
「理樹くん理樹くん、私にもノート写させてー」
「最初っから真面目にやる気はないんだね……」
「だってさっぱりですヨ? 自慢じゃないけど今テスト受けたら白紙で出すこと間違いなし!」
「自信満々に言い張らないでよ! ……もう、教えてあげるから教科書とか持ってきて」
「わーい、だから理樹くん大好きー。んじゃあ取ってくるねー」
「うん」

 ぴゅーっと音がしそうな勢いで飛んでいった。
 それから五分くらいして戻ってきた葉留佳さんの手には……って、あれ?
 気のせいじゃなければ、随分いっぱいあるように見えるんだけど……。

「ねえ、葉留佳さん」
「ん、なに?」
「もしかして、それ、全部わからないの?」
「いやー、実はその通りではるちんまいっちんぐ! ……我ながら古いネタですネ」
「セルフボケツッコミはいいから」
「ということでお願いします理樹先生っ」
「世話の焼ける生徒だね……。でも、勉強教わるなら僕じゃなくたっていいんじゃない? 例えば来ヶ谷さんなら僕より上手く教えられるだろうし」
「むむむ、理樹くんはニブチンだなあ。折角二人っきりの時間なのにそういうこと言う?」
「あ……」

 頬をぷっくり膨らませた葉留佳さんの言葉に、僕は硬直した。
 た、確かに……これって、部屋に二人っきりだよね。
 真人はたぶんしばらく帰ってこないだろうし、つまり誰も見てないってことで……うわあ。

「そ、それじゃ始めよっか」
「んー? 理樹くん声が上擦ってるよ?」
「何でもないからっ。ほら、真面目にやらないと教えないからね」
「はーい、わかりましたー」
「葉留佳さんは特にどの教科が苦手?」
「勉強全般ですかネ」
「……せめて、この教科のここがわからないとか、そういう部分を教えてくれないかな」
「むしろはるちんにわかるところはない! くらいな勢いで……って嘘、嘘だからそんな目で見ないでっ」
「見捨てるよ?」
「うー、わかったよ……あのね、ここと、ここと、それからここと、あっ、あとここも」
「本当にほとんど全部だね……」

 数学だけでもこの調子で、かなり心配になってきた。
 同学年だから宿題の内容は僕と同じだろうけど、今日中に終わるかどうか怪しいかもしれない。

「まずこの問題からね。葉留佳さん、この公式は覚えてる?」
「当然ですヨ。えっと確か、これがこうだからこんな風に入れ替えて……入れ替えて?」
「……覚えてないのはよくわかったよ。いい? こうすれば、ほら、こうなるでしょ? だからさっきの問題はこうして」
「ふむふむ……おおう、解けた! さすが理樹くん!」
「まだ初歩的なとこなんだけどなあ」

 前途多難だと思いつつ、ひとつひとつ問題を解いていく。
 初めは向かい合ってのコーチングが、段々熱が入ってくるにつれて隣に来るようになり。
 気付けば僕と葉留佳さんは肩を寄せ合った状態で座っていた。
 今はどうにか数学を終え(最低限宿題の分は教えた)、英語を始めたところ。
 英文解釈に頭を悩ませる葉留佳さんは、無意識なのかシャープペンの尻で唇をなぞっている。
 その仕草がどこか艶っぽくて、僕は葉留佳さんの口元から目を離せずにいた。

「うーん……」

 ペン尻を甘く挟むようにくわえると、微かに唇が開く。
 キスした時の感触を思い出し、僕は恥ずかしくなった。
 柔らかくて、温かくて……って何考えてるんだよっ。勉強中なのに……。

「……理樹くん」
「な、何? どうしたの?」
「私のくちびる……見てたでしょ」
「え!?」
「図星だー。全くもう、エロいなあ理樹くんは」
「あ、う、その……」
「……別に、言ってくれればいいのに」

 疑問の声は音にできなかった。
 すっとこっちに伸びてきた葉留佳さんが僕の唇を塞ぐ。
 覆い被せられるような姿勢。後ろ手を付いた僕に葉留佳さんは体重を預け、二人で抱き合う形に。
 触れた個所の熱さに、脳がとろけそうだった。
 未だに拭えない気恥ずかしさと、誰かに見られるんじゃないかという微妙な不安が重なって、心臓がばくばく高鳴る。

「ん、っ……ぷはぁ。ふぅ、今日は最長記録に挑戦してみたのでした」
「いきなりはやめようよ……。びっくりするから」
「あれー、その割には理樹くんもノリノリだったみたいだけど?」
「そりゃあ僕だって、葉留佳さんとの……キスは好きだからね」
「あはは、改まって言われると恥ずかしいなー……」

 唇を離した僕達は、鼻先が触れそうなほどの距離で会話する。
 見れば葉留佳さんの頬はほんのり赤くて、たぶん、僕も同じようなものだと思う。

「……もっかいする?」
「勉強そっちのけな気がするんだけど」
「ここでそゆこと持ち出すのは野暮ですヨ。男なら黙って抱きしめるくらいしないと」
「ちょっと僕にそういうのは……」
「似合わないですネ」
「わかってるなら言わないでよ……」
「で、理樹くん。どうする?」
「……もう一回したらちゃんと勉強再開するの?」
「うーん、それはどうかなー」
「じゃあ英語の訳に戻ろっか」
「わー! わかったわかった、ちゃんとするから、だからお願いー」
「……しょうがないなあ」

 ――結局、真人と謙吾が戻ってくるまで、机の上に置かれた教科書やノートには手も付かなかった。










・直枝×神北


 小毬さんが自分で使っただろう椅子を踏み台にして、僕は窓から外に出る。
 転がったドライバーと木ネジを蹴り飛ばさないよう気を付けながら着地した先は、閉じられているはずの屋上だ。
 学校の敷地内で一番空に近い場所。そして一応、僕と小毬さんが知っている秘密の場所でもある。
 ……まあもっとも、最近は鈴もよく小毬さんと来ているらしいから、僕達二人だけ、ってわけじゃないんだけど。
 それでも、ここが僕達にとって大事なところだということには変わりない。

「あ、理樹くーんっ」
「来たよ、小毬さん」

 ぺたんとコンクリートの地面に座り込んで所狭しとお菓子を広げた小毬さんは、いつも通りのほんわかした笑顔で僕を手招いていた。 僕がすぐ隣に腰を下ろすと、お菓子の山の中からひとつが手渡される。

「はい、ホワイトチョコレートだよ〜」
「ありがとう。……うん、おいしい」
「まだまだあるから好きに食べてねー」

 土曜日の午前授業が終わり、珍しく誰も予定が合わなくて野球の練習が中止になったので、放課後どうしようかという話になった。 そこで小毬さんが、じゃあ今日は屋上で、と発案した結果僕達はここにいる。
 普段は昼休みにしか足を運ばない場所だから、何となく景色とかも少し違って見える。
 それはきっと気の持ちようだと思うんだけど、僕の目には色々なものがどこか新鮮に映った。

「いい天気だね〜」
「雨が降らなくてよかったよね」
「だねぇ。そしたら屋上には来れなかったし」
「この空の感じだと、いきなり降るってこともなさそうだ」
「あう……。前に屋上いた時、雨が降ってきたから慌てて校舎の中に戻ったのを思い出しちゃった……」
「何かあったの?」
「うん。お菓子の袋いっぱい開けてたから、急いで抱えてったんだけど、濡れて全滅しちゃったの」

 想像してみた。
 ぽろっと落としそうなくらいの袋を抱えながら退避するも、雨でぐずぐずになったお菓子を見て泣きそうになる小毬さん。
 まあ、らしいというか……食べられないのはわかってても名残惜しくて捨てられない姿とかが、その場にいたかのように目に浮かんで、 僕はついくすりと笑ってしまった。

「理樹君、どうしてそこで笑うかなぁ……」
「いや、ごめん。人の不幸を笑っちゃいけないよね」
「そうだよ〜。どうせ笑うなら、誰かの幸せを祝福した方がお互い素敵な気持ちになれるよ」
「それも幸せスパイラル理論?」
「いえす。相手を褒め合ったりすれば、ほんわか胸があったかくなるの。そのぬくもりはきっと、ぷらいすれす」

 指を立て、子供に言い聞かせるような口調で語る小毬さんに頷く。

「なら、僕と小毬さんでやってみようか。褒め合いっこ。互いに幸せなことをひとつずつ挙げてみてさ」
「いいよ〜。ようし、じゃあまず私からだねっ」

 我ながら妙な提案だと思ったけど、小毬さんは意外にノリノリだった。
 ……よく考えたら意外じゃないかもしれない。首を傾げて悩む姿を見ていると、そんな風に感じた。

「うーん……」
「………………」
「あー、うー、えっと……むむむ……」
「……小毬さん?」
「ふえぇ、多過ぎて何から言っていいのかわからないー……」

 開始十秒で頓挫する。
 ある意味いつも通りな流れに、僕は苦笑しかできなかった。

「り、りきくん、提案がありますっ」
「なに?」
「ここはふたりで共通する幸せを挙げてみるのはどうかな」
「共通する幸せかあ……。それもいっぱいありそうだよね」
「とりあえず、いっせーのぉせ、で一緒に言ってみよう」
「僕と小毬さんの言ったことが同じだったらどうしよっか」
「その時は……お互いにいっこずつ、ご褒美をあげるの。自分にできる範囲で」
「じゃあ是非とも正解しないとね」

 頭の中で、僕自身の幸せを指折り数えてみる。
 リトルバスターズの仲間達と作った、たくさんの思い出。過去に積み重ねた楽しい時間。
 それらは選べと言われればキリがないほどあるけれど、今、この場で口にすべきことはすぐに決まった。

 小毬さんと一緒ならいいな、と思う。
 静かに息を吸い込み、二人で「いっせーの」とタイミングを合わせ、

「小毬さんに会えたこと」
「理樹君に会えたこと」

 全く同時に聞こえた言葉は、ほんの少しズレてしまっても、僕達の気持ちにズレがなかったことを証明してくれた。
 顔を見合わせる。それから僕達は揃って小さく噴き出し、またも同時に「やったね」と言い合った。

「で、ご褒美、何がいい?」
「わわ、私が先? あ、あのね、その……り、理樹君は?」
「ぼ、僕? うんと……」

 目の前の小毬さんは頬を真っ赤に染めて、上目遣いに僕を見る。
 思わずその唇に視線が行き、図らずもふと脳裏に浮かんだご褒美の内容を悟られてしまう。
 何だか自分が物凄く恥ずかしい想像をしているように思い、ごめん、と謝りかけたところで小毬さんが唐突に目を閉じた。
 ――それがいったい何の意味を持っているのかは、僕にだってわかる。

「ん……ふ、はぁ……」
「えっと……僕は、これでいいかな」
「そ、そっかー……私も、うん、今のでいいよ」
「いいの? 僕だけご褒美もらったみたいなんだけど」
「私が考えてたのもね、理樹君と一緒だったから」
「………………」
「………………」
「も、もう一回、する?」
「……えへへ、そうだね。しよっか」

 午後の緩やかな時間。
 陽が西に沈みそうになるまで、僕達はゆっくり昼寝をして過ごしたのだった。










・直枝×西園


 中庭の隅、一際大きな樹の下で、西園さんはいつものように本を読んでいた。
 うららかな陽気は歩いていても眠気を誘うけれど、読書に集中する西園さんの目は薄く、でもしっかりと見開かれている。
 ほとんど瞬きをせず小さく瞳が動き、僕からすればかなり速いペースでぺらりとページをめくる様子は、深窓の令嬢という表現が一番ぴったりかもしれない。 まあ、そんなこと言ったらきっと静かに否定するだろうけど。
 ただ、まるで世界から切り離されているような静謐さを纏う西園さんの姿を、僕はとても綺麗だと思う。

「……あ」

 こっちの足音に気付いて、集まっていた小鳥達が一斉に飛び去ってしまった。
 驚かせたくないからかなりそっと歩いてたのに、過敏な彼らには僕程度の気配なんてお見通しらしい。
 静寂を破る羽ばたきに、栞を挟んで本を閉じ、西園さんは緩やかな動きで僕の方を向く。

「ごめん。邪魔しちゃったかな」
「はい」
「………………」
「冗談です。……わざわざ探しに来たんですね」
「だって西園さん、いつの間にか教室からいなくなってたし。それにやっぱり、少しでも一緒にいたいから」

 野球の練習がない日の西園さんは、十中八九、必ずと言ってもいいほどここにいる。
 それはきっと僕らが出会う前と変わらなくて、過去との違いと言えば、傍らに日傘がないことくらいだ。
 木陰に身を隠し、喧騒から遠ざかるようにして放課後の時間を過ごす彼女の隣に僕は腰を下ろした。
 もう、座っていいかとは訊かない。嫌がる仕草や表情を見せることなく、西園さんは僕を受け入れてくれる。

「いい天気だよね」
「予報では、一日晴れたままだと言っていました」
「寒くない?」
「いえ。まだ秋口ですし、充分外で過ごせますよ」
「そっか」

 簡単な会話が終わると、西園さんの手は再び本を開く。
 僕も同じように懐から一冊の文庫本を取り出し、栞があるページから読み始めた。
 風で木々の葉が擦れ合う音と、紙のめくれる音だけが聞こえる中、僕達は一緒にいることを望む。
 交わす言葉はなくても、互いを近くに感じられればそれで満足だった。

「……はー」
「読み終わりましたか?」
「うん。すごく面白かった。子供向けだからってちょっと甘く見てたかもしれない」
「推理小説というジャンルにはどうしても小難しい印象がありますが、実は意外と子供にも読まれているんですよ」
「確かに、ストーリーやトリックは複雑なイメージがあるなあ」
「かのシャーロック・ホームズシリーズなども、小学生を対象にした翻訳がありますし、日本の作家も数多く児童ミステリを手掛けています。 直枝さんが読んだその本も、児童ミステリ作家として比較的知られた方のものです」

 西園さんが今回貸してくれたのは、なるほど子供向けなだけあって平仮名が多く、ほとんど全ての漢字に読みが書いてあるものだ。
 似た名前の三姉妹が住む家の隣に越してきた、自ら名探偵と名乗る年齢不詳の男性。 自分の誕生日も覚えてなかったり、人並み以上に食べる癖読書に集中すると日単位で食事を摂ることを忘れるような変人だけど、 遊園地で起きた不可解な誘拐事件を僅かな手掛かりで解決してしまう。けれどそれは善悪のはっきりしたものなんかではなくて、 犯人が語った本当の動機と、事件に協力した被害者自身のことを思い、全ての真実を口にしなかった名探偵の言葉がやけに頭に残った。

「続きがあるんだっけ。今度貸してもらえると嬉しいな」
「わかりました。明日持ってきましょう」
「ありがとう。……集中してて気付かなかったけど、そろそろ陽が暮れそうだね」
「……わたしも今気付きました」
「寮に戻る?」
「そうですね。キリの良いところまで読めましたし、ここまでにしましょう」

 本を閉じる乾いた音が、立ち上がる合図になった。
 僕はスカートを叩いてゆっくり腰を浮かす西園さんに、すっと手を差し出す。
 最初の頃は怪訝そうな目をされたけど、さすがに何度も同じことをすれば慣れるもので、弱めの力が返ってきた。
 誰もいないのを確認しながら、僕達は互いの手を握り合うようにして繋がる。
 じわりと薄く滲んだ汗。どれだけ触れ合っても、こればかりはどうしたって誤魔化せない。
 心臓の高鳴りが、手を伝って聞かれているかもしれないと思うくらい、僕はドキドキしていた。
 初めて、そうした時のように。

「……手のひら、汗ばんでますね」
「西園さんこそ」
「顔、赤くなってます」
「夕焼けのせいだよ、きっと。西園さんも、顔、赤いよ?」
「……直枝さんと一緒です」

 本当にどうだったかは、わからない。
 でも、西園さんは立ち止まって、小さく笑んで、目を閉じて。
 その細い肩に僕はそっと手を置き、一瞬が永遠になるような、長い長い、口付けをした。
 前と違う部分は、たったひとつ。
 ――キスの最中に、息を吸う方法を、覚えたこと。

「えと……じゃあ、今度こそ戻ろっか」
「直枝さん」
「ん?」
「頭に葉が付いてますよ」

 そう言って西園さんが僕の方へと背伸びをして。
 髪に指が触れたかと思うと、ほんの一瞬、頬に柔らかなものが。
 それが何であるかを理解した僕は、あまりの不意打ちにぴしりと硬直する。

「に、西園さん、今……」
「たまには、こういうのもいいですね」

 ……悪戯っぽく微笑むその表情が、少しだけ美鳥と重なって。
 僕達は一人でないことを、実感した。










・直枝×能美


 畳の匂いは気分を落ち着かせてくれるものだと思う。
 独特な、草の香り。それは仄かに部屋中を満たしていて、目を閉じればすぐわかるほどに感じられた。
 僕はすぅっと息を吸い、卓袱台の前で少し足を崩してクドを待つ。
 授業が終わってすぐ、僕を呼び止めたクドは「家庭科部室に行っててくださいっ」と言い残して走り去ってった。
 あの様子だと随分急いでいたというか、何か用事があるみたいだったけど、言われた通りに来た結果が今の状況だ。
 十分くらい座りっぱなしでいても、まだクドが現れる気配はない。

「何してるのかな……」

 僕を騙したってことはないだろう。どっちかと言えばクドはよく騙される方だし、そもそも普段は滅多に嘘を吐かない。
 以前に、そんないじめっ子のような真似をするとは到底考えられないわけで。
 じゃあいったいどうして僕を家庭科部室に呼んだのかと頭を悩ませているうちに、離れた場所で靴を脱ぐ音が聞こえた。

「リキ、すみません、ちょっと遅れてしまいました」
「あ、ううん。いいよ。気にしてない」

 制服姿のまま座敷に上がったクドは、後ろ手に何かを隠している。
 きっとそれがここに来るのに時間が掛かった原因だと思い、とりあえずは追及しないことにした。
 僕の向かいに正座し、クドの表情が小さく緩む。

「今日は、リキにお願いがあるのです」
「ん、なに? クドが持ってきたものと関係あるのかな」
「あはは、やっぱりバレちゃってましたか。はい、実は、その……」

 そう言って、クドは背中側に回していたものを卓袱台の上に置いた。
 手拭いに包まれた四角い箱だ。結び目を解くと透明な真空パックが出てくる。密封された中には、

「これは……えっと、肉じゃが?」
「正解ですー。家庭科部の活動として、昨日から作ってたですよ。傾けずに持ってくるのが、ちょっと大変でした」

 薄茶色の液体に浸かっているじゃがいもや肉、その他色々。
 箱の下側に触れてみると、作りたてなのかまだ温かかった。
 見た目だけで判断してもいいなら、おいしそうにできてると思う。

「何分初めて作ったので、あんまり自信がなくて……だからリキ、試食を頼めますか?」
「勿論。クドが作ったものなら、多少味が変でも残さず食べるよ」
「ほんとですか? ……ってリキ、それじゃ私の料理は変な味がするみたいな言い方ですっ」
「ごめんごめん。大丈夫、疑ってないから、お箸貸してくれる?」
「あ、はい、わかりました」

 真空パックの蓋を開け、ふわりと漂うおいしそうな匂いに僕の期待が高まる。
 手渡された箸(割り箸じゃなくてもっとしっかりした奴だ)でじゃがいもをふたつに割り、まずは一口。

「……!」
「ど、どうですか?」
「……んぐ、うん、すごくおいしいよ。芯にもよく味が染み込んでるし、ぼろぼろに崩れたりもしない」

 鍋の火を止めパックに詰めてからすぐ持ってきたんだろう。
 危うく舌を火傷しそうになるほど熱いじゃがいもは、程良い塩味と甘味が混じり合って絶妙な風味。
 はふはふと口の中の熱を逃がしながら二口目に食べた肉も柔らかく、後を引くような脂っこさとかはまるで感じない。
 結局十分も経たないうちに、パックの中身は空になってしまった。

「ご馳走様」
「お粗末様です」

 使い終わったパックと箸を洗いに行ったクドは、湯呑みをふたつ持って戻ってきた。
 卓袱台に置いてもう一往復し、さらに紙皿と細長い箱を抱えてくる。

「おじい様が送ってきてくれたんです。羊羹、リキは食べられます?」
「うん。好きだよ」
「よかったですー。ということで、今日は和菓子に合う緑茶を淹れてみました」

 濃い甘さの羊羹と渋い緑茶は丁度良い。
 二人で一切れずつ摘まみながらお茶を啜っていると、自然に身体も温まる。
 紙皿の上から食べる物がなくなった時には、僕達は揃って満足げに息を吐いていた。

「そういえばクド、どうして肉じゃがを作ろうだなんて思ったの?」
「肉じゃがはおふくろの味の代表だって、こないだ読んだ本に書いてありました。だからです」
「え? 上手く繋がらないんだけど……おふくろの味と肉じゃがを作ろうと思った理由に何の関係が?」
「あの……いつか私がおかあさんになった時、子供が大人になっても思い出してくれるような物を作りたくて」
「………………」
「外国っぽくはないですけど……憧れてたりもしますし、その、やっぱり将来、リキとの子供は欲しいです、わふっ」

 俯きがちにそんな可愛らしいことを呟くクドを、僕は堪らず抱きしめる。
 背中に手を回すと、全てを預けるように力を抜いてくれた。
 女の子の柔らかさと温かさに、否応なく心臓が高鳴る。小さくても、いや、小さいからこそ、クドは本当に抱き心地が良い。
 優しく身体を離して、それが当然と言うような流れでキスをする。
 最初は触れるだけ。しばらく唇の感触を味わってから、そっと舌で突っつく。

「ん、ふっ……ちゅ、ちゅ……ふぅ、ちゅく、んむ、ふ……」

 お互いに求め合い、深く繋がる口付け。
 未だに長くはできなくて、終わった後は息を荒げてしまうけれど、脳が蕩けそうになるほどのこの行為に僕は惹かれる。
 きっとそれは、クドも同じだ。もっと、もっとこうしていたい。

「くちゅ……はふ、はぁ……リキ」
「……クド」
「キスがこんなに気持ちいいのは、相手がリキだからですね」
「僕も、クドとしてるから気持ちいいんだと思うよ」
「わふー……お揃いです」
「だね」

 くすくすと笑い、僕らは飽きるまで抱き合ってから、勉強に時間を費やした。










・来ヶ谷×直枝


「……あれ?」

 まったりしようとおもむろに言われたのは覚えている。
 放課後、面白いくらいみんなに予定があって野球の練習は中止になり、久しぶりに僕らは二人きりの時間を得られた。
 段々と人が少なくなっていく教室で、何をしようかなんて話していたはずなんだけど……。
 手を引かれ、並んで教室を出ていってからの記憶がいまいちはっきりしない。というかはっきりさせたくない。
 どうして僕はいきなり耳栓と目隠しを付けられて抱きかかえられたまま来ヶ谷さんに運ばれてたんだろう。

「気にしたら負けだよ理樹君」
「いや、気にするなって言う方がおかしいと思うんだけど……」

 丁寧に降ろされ耳栓目隠しを外してもらうと、視界に入ったのは殺風景な空間。
 じろじろ見なくてもわかる。何度か来たこともある、旧館一階、来ヶ谷さんの部屋だ。
 外は晴れているにもかかわらず、カーテンが何故かぴっちり閉められている。

「えっと……どうして僕はここに?」
「二人っきりでゆっくりするには一番かと思ってね」
「確かに誰も来ないだろうけどさ……。でも、一応僕、男だよ? 女子寮って男子禁制だよね?」
「何を今更。以前私と一緒に何食わぬ顔で玄関から入ったりしただろう。それに理樹君なら、一人で訪れても追い払われないさ」
「そうかなあ。たまに女子寮の近くを通ったりすると、妙な目で見られることがあるんだけど」
「む、まさか熱い視線を感じるのか? キミを草葉の陰から見つめてハァハァしてる者がいるのか?」
「それは絶対にないと思う」
「まあ、今のは冗談だとして、最早クラス内では公認とされている私の恋人が物珍しい、といったところか」

 あっけらかんと言う来ヶ谷さん。
 こないだまで恋人とか彼女とかそういう言葉を自分で口にする度恥ずかしがってたのに、最近耐性が付いたらしかった。
 不意打ちに弱いのは変わりないけど、この人はさらに無敵っぽくなってきてる気もする。

「来ヶ谷さん、この頃は人前でも抱きついてきたりするしね……。楽しそうに」
「見せつけているのだよ。フフフ、着実にバカップルへの道をひた走っているぞ、私達は」

 茶化すように耳元で囁き、来ヶ谷さんは後ろからベッドに座る僕の首に手を回した。
 胸の前辺りで腕を交差させ、軽く覆い被さる形で体重を預けてくる。背中にふにょんと伝わる柔らかい感触。
 僕はお腹の上にある来ヶ谷さんの手をそっと掴み、包み込んで大人しくする。
 動かず、何もせずにただこうしているのが、僕達は好きだった。
 互いに聞き取れる心臓の音が、恥ずかしさと嬉しさの入り混じった緊張感を溶かしていく。
 人前でするからかい半分のスキンシップとはまた違う、それこそ見つかったらバカップルと言われてしまいそうな行為。

「こんな天気のいい日は外に出るのもいいかと思ったが、陽が暮れるまでこうやって過ごすのも悪くない」
「そうだね。いつもみんなと走り回ってばっかりだし、たまにはいいんじゃないかな」
「叶うなら毎日でも私は構わんよ」
「うん、僕も。本当は四六時中一緒にいたいくらい」
「………………」

 僕の言葉に顔を赤くする来ヶ谷さん。

「……可愛いなあ」
「くっ……理樹君は意外と性根が悪いな。虫も殺さないような顔をして、私を手玉に取ろうとばかりする」
「だから、別にそんなつもりはないんだけど……。僕は正直に言っただけだよ」
「……理樹君、顔がにやついているぞ」
「え、本当?」
「鏡で見てみるといい。実にいじわるな表情をしている」

 ぐりっと鏡台の方へと向かされる。
 そこに映る僕は、多少頬が緩んでいる自覚こそあるけどいつも通りで、特に変な部分もない。
 嘘だ、と気付いて振り返り――至近距離にあった来ヶ谷さんの唇がすっと僕に触れた。
 唐突過ぎる状況に、反応できない。条件反射で思わず硬直し、その隙に後頭部へと回された腕が首から上を固定した。
 軽く押し付けられる。情熱的というには弱く、けれど穏やかなものとは違う、優しくも熱いキス。

「ん……っ」
「あ、んむ……」

 来ヶ谷さんが僕の下唇を、唇で挟むように甘噛みし、舌で舐めてくる。
 満足するまでこっちを弄り回してから口内に割り入ってきたそれが、丸まった僕の舌をちょんと軽くつっついてきた。
 絡み合う。そうすることを、僕は汚いと思わない。来ヶ谷さんだから、喜びを以って受け入れられる。

「ぴちゅ、くちゅ……んん、ふぅ、あむ……じゅるっ、んんっ、ちゅ……はぁ。やはりキミを手玉に取る方が性に合っているな」
「まあ……来ヶ谷さんはそういう時が一番輝いてるよね」
「さて、では続きと行こうか」
「続き?」
「今ので理樹君は治まりがつかなくなっているだろうと思ってな。隣接した部屋の人払いは既に済ませてある。 例えキミがベッドをギシギシ言わせようと、隣の女生徒が部屋の隅で耳を塞いだりあまつさえ混ざりに来るようなことはないぞ」
「………………」
「大丈夫だ、初めは皆痛いというが、私は優しくするつもりだからな」
「僕に何をするつもりなのさ!?」
「む、やっちゃわないのか?」
「しないよっ!」

 ……と言いながら、ちょっと色々想像してしまった。
 そんな僕の様子をすぐに察し、来ヶ谷さんはにやりと笑みを浮かべる。

「冗談だよ。理樹君にはまだちょっと早い。卒業するまではお預けだ」
「もう、来ヶ谷さん……」

 意地の悪い恋人に一矢報いたくなって、僕はささやかな反撃をすることにした。

「……ゆいこさん、口の端から涎が垂れてる」
「なっ……、っ!」

 名前を呼ぶのと同時、ぺろりと唾液の残った場所を舐め取る。
 案の定、不意打ちの苦手な来ヶ谷さんはぼっと火が灯ったように顔を真っ赤にし、言葉を失った。

「あ、う、む……」
「……本当に可愛いなあ、来ヶ谷さんは」
「このっ……いい度胸だな理樹君。悪戯っ子にはお仕置きが必要と見た」
「わっ、いたっ、ちょ、痛い痛いっ」

 ヘッドロックを掛けられながら、来ヶ谷さんがこういうのに慣れるにはまだまだ時間が掛かるなぁ、と思った。










・直枝×鈴


 授業の合間の短い休み、あるいはお昼時、放課後。
 自由になる時間があると、鈴はほとんど決まって中庭の渡り廊下付近に出向く。
 彼女が姿を現わせば、それを察知したかのようにわらわらと、世話をしている猫が集まってきて取り囲む。
 小さな学校の住人達とすることはいつも違うけれど、どうやら今日はグルーミングのようだった。
 地面に座る鈴の正面には、灰色の毛並みをした気の強そうな猫(確かヒョードルだ)がごろりと仰向けに転がっている。
 無防備なお腹にブラシを通し、丁寧に梳く鈴の目付きはとても優しい。
 大人しく為すがままにされるヒョードルが羨ましいのか、他の猫達は構ってほしいというように鈴にじゃれつく。
 投げ出された足先をてしてしと前足で叩いたり、背中から頭を目指して登ったり。
 我関せずといった仕草で丸まるのもいて、気まぐれな彼らを見ていると僕は思わず噴き出しそうになってしまう。
 けれど笑うのも悪いから、猫を驚かさないくらい離れた場所で、静かに鈴の横顔を眺めるのだった。

「ぐるーみーぐるーみー……おまえだいぶ汚れてるな。こんど洗ってやろう」
「にゃー」
「こらこら、順番だぞ順番。もうすこし待ってろ、っておい、背中から服の中に入ろうとするなっ」
「にゃうっ」
「あっ、ヒョードル逃げるな、まだ終わってないっ!」

 ごろごろと転がって鈴から遠ざかるヒョードル。追いかけようと動きかけ、後ろで制服の裏に滑り込もうとしていた一匹がその拍子に落ちて中で引っ掛かる。 さらに別の二匹が揃って鈴の頭に乗ろうとして、

「おまえら重いんじゃぼけーっ!」

 我慢できなくなった鈴が立ち上がり、纏わり付く猫達を振り払って一喝。
 身体のそこかしこにへばりついていた猫は、残らずぼろぼろと落下した。
 それでも服の中で引っ掛かったままの一匹だけは落ちてこない。狭苦しさに暴れ始め、鈴の背中が変な感じに膨れる。

「ちょっと、おとなしくしろ……っ、ひゃっ! おまえどこさわって、く、くすぐった……!」
「………………」
「理樹、見てないでたすけろー!」
「はいはい」

 必死に手を回すけど上手く届かずに苦戦する鈴の叱責を受け、僕は苦笑して近寄る。

「動かないで」
「……ん」
「手、入れるよ。……よいしょっ、わ、っと」

 下から探るように腕を突っ込み、痛くしないようなるべく優しく猫を引っ張り出した。
 考えてたよりも重く、危うく手を滑らせかけたけれど、何とか救助して地面に下ろす。
 出てきた猫は「うにゃ」と一鳴きして、さっきのことなんて端からなかったみたいな平然さで歩き去っていった。
 見送ってから横に視線を移すと、鈴が少し頬を赤くして俯いている。

「どうしたの?」
「理樹の手が、ちょっといやらしかった」
「ええっ!? そんなことないと思うんだけど……」

 いや、でも僅かに触れた鈴の肌はすべすべしてて気持ち良かったかもなあ……。
 そんなことを考えてるのがバレたのか、鈴はじとーっと僕の目を見つめてくる。

「……本当か?」
「う、うん」
「ならいい。理樹がえろすぎるのは、なんか嫌だ」
「………………ごめん」
「ん? どうして謝るんだ?」
「何でもないよ。ただ、自分が情けなくなって……」
「よくわからんが、わかった」

 罪悪感を覚えた僕に、首を傾げながらも鈴は頷く。
 賑やかな猫達が姿を消してからは、中庭も静かなものだ。
 立ちっぱなしも何なので、適当なところに腰を下ろし落ち着く。
 二人、肩が触れ合うくらいの距離。遠く、グラウンドの喧騒が聞こえる。
 幼馴染だった僕らは、時を経て恋人同士になった。
 けれども、昔と比べて変わったことはほとんどない。きっとそれは、僕と鈴がとても近しい存在だったという証拠だろう。
 少しだけお互いが積極的になって、遠慮や隠し事が減って、一緒にいる時間がより増えただけ。
 その中で僕は鈴に『女の子』を感じ、たぶん鈴も僕に『男』を感じて、今までしなかった、できなかったことをする。 例えば手を繋ぐとか、抱きしめるとか、キスするとか――鈴だからこそ、そういうことがしたくなるんだ。
 鈴だから。

「……今、いいかな」

 唐突な僕の言葉への返事は、目を閉じる仕草だった。
 座ったまま、そっと口付ける。微かに震える睫毛と、鈴の綺麗な長い髪が視界に入った。
 頭の後ろに手を回すと、指に鈴が触れる。ちりん、と音を立てて、どちらからともなく唇を押し付ける。
 強引ではなく、でも決して穏やかでもない、いつもよりほんのちょっと長くて熱いキス。

「んんっ……ちゅ、ふぅぅ……。理樹、もっと」
「うん」
「ちゅっ、ん……はふ、んん、んー……ぷはっ、む、ちゅ……はぁ、んっ、くちゅ……」

 互いの舌の先端がちょこんと当たって、そこから唾液が伝っていく。
 前に鈴が言っていたことを思い出した。頭が真っ白になって、空を飛んでいるような感覚。
 愛しい、と思う。鈴。僕の、大事なひと。

「はっ、ふー……なんだか、前したときと違う」
「どんな風に?」
「音がたつのは恥ずかしいけど、うん、ずっとしていたくなるかんじだ」
「そっか。奇遇だね」
「なにがだ?」
「僕もおんなじ気持ちだったから」
「じゃあ、一緒だな」

 誰もいない中庭のはしっこで、僕達の小さな笑い声が響き渡った。



index



何かあったらどーぞ。