1.サンタクロースがやってきた


 冬の寒々しい夜、私を乗せたソリは遙か高空を走っていました。
 薄白く広がる雲に紛れるように、牽引するブリッツェンが軌道を調整します。正面から吹きつける冷たい風は、ソリの周囲で淡く煌めく光の膜がある程度防いでくれていました。
 空を飛ぶ時、サンタ服を着ることと、ソリに鈴を括りつけることは、昔からの決まり事だと言います。
 不思議なことにそうしないと、私達サンタは陸を離れられません。ソリと私を外圧から守る光の膜も同じです。これがなければたちまち凍えて、手綱も上手く操れなくなってしまうでしょう。
「もうちょっとだからね〜、ブリッツェン」
 雲の切れ間にちらつく眼下の光景が、目的地までの近さを教えてくれます。私が声を投げかけると、答える代わりに尻尾を揺らし、ほんの少し走る速度を上げました。
 地面を蹴る蹄の音も、固い雪を削るソリの音も、雲の中では聞こえません。代わりに耳へ入ってくるのは、控えめに鳴る鈴と、びゅうびゅう唸る風の音。
 背中の方では、大きな白いプレゼント袋が三つ、ソリの端に押し込まれています。向かうついでに配達をお願いされたものです。
 やがて雲も晴れ、一瞬で視界が拓けました。
 真っ暗な海に囲まれた島国。浮かび上がる点々とした明かりが集まる、いくつかのうちのひとつが私達の目的地です。そろそろ下降しなきゃ、と視線を前に戻し――私は慌てて手綱を左に引きました。
 どうして気づかなかったのか、旅客機らしき巨体が間近に迫っていました。飛ぶ時は注意しなさいと言われていたのに、すっかり油断していたのです。
 ブリッツェンの判断は的確でした。私の指示より早く、左下へ沈み込む動きを取りました。慣性で右に引っ張られつつも、ソリの高度がぐっと落ちていきます。
 急な動きで、身体が左側に傾ぎました。暗闇に浮かぶ旅客機の頭は、相対的に凄まじい勢いで近づいてきたように見えます。間一髪でその軌道から逃れた瞬間、私は僅かに気を抜いてしまいました。
 斜めになったソリの後部で、重力と慣性に負けたプレゼント袋達が、宙に放り出されました。
 ソリを覆う光の膜は、外圧から中を守るのと同時に、内側のものが外へ飛び出さないようにするためのストッパーでもあります。そのコントロールは、ソリを繰るサンタがするものです。
 安心して、制御が疎かになりました。
 あっ、と手を伸ばす間もなく落下していく袋を、私は急いで追いかけました。既に真下は地面のある場所です。万が一にも人がいるところに落としてしまえば、大変なことになってしまいます。
 ほとんど垂直に近い角度で下降し、何とか追いつきます。ひとつ、ふたつ、みっつ――中身を傷つけないよう、手綱から離した左手で袋の口をまとめて掴み、ぎゅっと全力で握ります。
「ブリッツェンっ」
 落下先は水面でした。海ではなく、幅の広い川です。
 最悪の事態は避けられるものの、ここからまた飛び上がるには、あまりにも水面が近過ぎました。
 だから、速度を落とすのが精一杯。
 斜めから水を削るようにして、私とブリッツェンは川に飛び込みました。ソリを守る光が霧散し、すぐに水が全身を濡らしていくのを感じました。
 袋から指を離さず、必死に泳いで川縁に辿り着きました。ブリッツェンもソリを引いたまま、一緒に陸へ上がって、土と草の上に揃って倒れました。
 それからしばらくの記憶は、はっきりしていません。
 たぶん、緊張の糸がぷっつり切れてしまったからです。


 物心ついた時には、もう私はおじいさまとふたりきりでした。
 両親は共に、私を産んですぐ亡くなったと聞いています。本当のところは今でもわかりませんけど、何も言わないのは、おじいさまなりの理由があるんでしょう。だから私が両親からもらったのは、イヴという名前と自分自身だけです。
 孤児院に預けられなかったのは、両親がおじいさまの友人だったからかもしれません。あるいはこの、カラーリットの人達ともデンマークからの移民とも違う、白とも銀ともつかない髪と金色の瞳が、おじいさまそっくりだったからかもしれません。
 ともあれ育ての親である、真っ白で長い髪と、たっぷりたくわえた柔らかいひげを揺らして歩くおじいさまの後を、幼い私は雛鳥みたいにいつもついて回りました。何かと手伝いをしたがる私の頭をくしゃくしゃと撫でて、いろんなことを少しずつ教えてくれました。
 夜になると、寝物語にたくさんのおはなしを聞かせてくれるのが一日の楽しみでした。古い神様のこと、昔の偉い人のこと、私達が食べる動物や植物のこと。その中で最初に渡された絵本が、サンタクロースのおはなしです。
 おじいさまそっくりな人が表紙に描かれていて、思わず絵本とおじいさまを見比べると、ひげをくぃっと引っ張りにかっと笑って「それがわしだよ」と言うのです。私は「すごぉい!」なんて無邪気に喜んで、おはなしの続きをせがみました。絵本の中のおじいさまは、八匹のトナカイに引かれたソリに乗って、キラキラした光の道を走り、世界中のこどもたちにプレゼントを届けていました。
 ……きっとその日から、おじいさまのようなサンタクロースになることが、私の夢に決まったのです。
 私にしてみれば、普段のおじいさまは温厚でおおらかで、時折一緒に足を運ぶ街でも見かける、どこにでもいるような人でした。ただ、クリスマスが近づくと途端に忙しくなって、家を空けることもしょっちゅうで。それこそ絵本と同じサンタクロースの服を着て、大量のプレゼントが詰まった袋を持って、家で飼ってるトナカイ達と共に、聖夜の空へと消えていくのです。その後ろ姿を、私は毎年見送ってからベッドに戻っていました。そうすると、朝起きた時、枕元の小さな靴下に、必ずサンタクロースからの贈り物が入っているのです。
 包みを開ける瞬間は、いつもドキドキして。
 はしゃぐ私をじっと見つめるおじいさまに「ありがとう」と告げると、ちょっとだけ照れくさそうにするのでした。
 ブリッツェンとの出会いは、私が一人でもソリに乗れるようになった頃です。
 おじいさまが世話をしているトナカイ達のうち、一番気弱な子が産んだ子でした。だからでしょうか、初めは乳を飲むにも苦心してて、本当にちゃんと育つのか心配になったものです。まあ、結局それは余計な心配で、すぐに逞しくなっていったんですけど。
 おじいさまに代わって世話する私の様子を見て、ソリ引き用の子として宛がわれたのがブリッツェンでした。小さい頃から一緒にいたからか、懐くのも早く、すぐに私とブリッツェンは家族として馴染みました。いつからかおじいさまと同じベッドでは寝なくなって、私の隣にはブリッツェンがいるようになりました。
 ご飯を食べる時も。
 外で遊ぶ時も。
 薪を集める時も。
 遠出をする時も。
 ずっと一緒にいて、気づけばブリッツェンは立派な角の大人に成長しました。……ちょっと食いしん坊で、ふっくらし過ぎちゃいましたけど。ソリを引く分には問題ないからと、おじいさまがほいほいおつまみをあげてるのも原因じゃないかと思います。
 私が初めてサンタとしての活動をしたのは、十五歳の冬です。おじいさまの手伝いという名目でしたけど、最初は失敗ばかりでした。
 空を上手く飛べるようになるまで、何ヶ月もかかりましたし。不用意に物音を立てて、こどもを起こしかけたことも一度や二度じゃありませんでした。それでもおじいさまは、根気良く私に教えてくれました。
 一番近い支部にも、顔を出す機会を得ました。
 サンタはおじいさま以外にも、世界中にたくさんいます。昔はおじいさま一人だったそうですけど、一晩で回りきれないからと地域ごとの担当が増え、プレゼントを用意したりこどもがいる家庭を調べるための組織が生まれ――なんて、なかなか世知辛い理由があるみたいです。というか、おじいさまっていったい何歳なんでしょう……。一度訊いてみましたけど、かなり適当に誤魔化された覚えがあります。随分見た目が変わってないから、私が想像してる以上に長生きなのかもしれません。
 きっとこういう時を見越してのことだったんでしょう、家では毎日違う言語で会話をする時期もあって、他の国の人達と話をするのには困りませんでした。
 グリーンランドの住民のように、言葉や外見、考え方も違う人々が、同じ場所で、同じものを見ていました。
 私はどちらかと言えば、サンタの中でも落ちこぼれです。なりたてで日が浅いことを差し置いても、どこか抜けているところがあるのです。たまにどうしようもないミスをしてしまう、そんな自覚を持っています。
 幼い頃に読んだ絵本のサンタクロースみたいには、なれないと思いました。現実はもっと泥臭くて、難しくて、大変なものだと知りました。
 それでもやっぱり、私はサンタになりたかったんです。
 おじいさまとふたりで初めて飛んだ空は、少しだけ怖かったけれど。浮かび上がる街の光や、手が届きそうなほど近い星の綺麗さに、胸がいっぱいになりました。高空なのに不思議と寒くなくて、うわぁって漏れた声がおじいさまに聞かれて、笑われたのがちょっと恥ずかしくて。
 煙突からそっと滑り込んで、眠るこどもの靴下にプレゼントを入れる時は、心臓が破裂しそうなほどドキドキしました。安らかな寝顔が、次の朝笑顔になるのを想像して、込み上げる喜びを抑えきれませんでした。
 それがサンタを、私を突き動かす気持ちです。
 何にも代えられない、尊いものです。
 おじいさまの補佐をするようになってから四年――十九歳の誕生日を控えた、十二月。
 私は独り立ちのための最終試験を言い渡されました。
 遠く離れた異国の地で、サンタとしての活動を成功させること。
 だからブリッツェンと共に、ニッポンへ飛び立って。
 そして――


 意識が浮かび、私はゆっくりと起き上がりました。
 降りてきた時は気づきませんでしたけど、頬に触れた冷たさに、今の天気が雪であることを知ります。
 いったいどれだけここにいたんでしょう。ずぶ濡れのサンタ服は一向に乾く様子がなく、冬の寒風が今も全身から熱を奪っています。地面についた頬や服の感触さえ不確かです。
 ブリッツェンもまた、疲れからか気を失っているようでした。肩の辺りを揺らしながら、今の状況を確認します。
 川の水が汚れていたのか、サンタ服は酷い有り様でした。座っているのが土の上なのも原因でしょう、白い生地は黒ずんで、洗っても簡単には落ちそうにありません。それどころか何かに引っかけたらしく、破けている箇所も見つかりました。
 ソリは綱を解く時間もなかったので、ブリッツェンに繋がったままです。引き上げたはいいものの、傷が少し目立ちます。ブリッツェン自身に怪我がなさそうなのは幸いです。
「……あれ?」
 今になって、気づきました。
 強ばった左手が、何も掴んでいません。
 プレゼント袋の口を、あの時確かに握っていたのに。
 慌てて周囲を見回しました。けれどそれらしき影はなく、ぐしょぐしょに濡れたプレゼント達は、綺麗に私達の前からなくなっていました。
 よくよく確認してみれば、川から上がってきた場所と微妙に景色が違います。派手に着水した所為で人が集まりかねないからと、ブリッツェンがここまで運んでくれたのでしょう。薄暗い地面には微かに積もった雪。その上に線が二本できています。
 寒さに震える身体と萎えかける心を奮い立たせ、私はソリの通った痕跡を辿りました。ぐっしょりしたブーツから水が染み出す感覚はあまりよいものではなかったですけど、裸足で歩くよりか幾分まともです。
 一分か、二分か、着くまでが途方もない時間のように思えました。
 線が途切れた場所に、目当ての袋はありませんでした。辺りも重い足で探してみたものの、どこに消えたのかもわかりません。
「……どうしよう」
 呟いた声は、随分小さく掠れていました。
 袋は外見こそ汚れてしまっていましたけど、口を塞いだ形で私が引き上げましたから、中身は多少なりとも無事なはずです。
 あるいは、だからこそ。
 誰かが持っていったのかも……盗まれたのかもしれません。
 本当のところは不明です。
 おじいさまから聞いた限り、ニッポンは治安の良い国だそうです。けれど、必ず何もかもが安全だなんて、どこに行ったって言えるものではないでしょう。
 このまま崩れ落ちそうな足に力を入れ直し、私はブリッツェンのいる場所に戻りました。今更になって、腰に着けていた私物入れの存在を思い出します。
 仕舞っているのは、ニッポンでお世話になる支部の住所と連絡先を書いた紙、この国で使えるはずのお金がいくらか。身分証明書。それらも全て、泥と水で使い物になりそうもありませんでした。
 滲みかけた涙を、唇を噛んで抑え込みます。
 ……これは、私の不注意が招いたことです。泣くのも、挫けるのも、まだ早いと思いました。
 ブリッツェンをそっと起こし、私達は川から反対の方向に歩き始めました。ずぶ濡れのサンタ服を着た自分と、ニッポンには生息していないというトナカイ。サンタとしては見られなくても、不審者としてなら見られそうです。
 人目を避けながら、細い道へと入っていきました。どうしていいかもわからず、ただ一刻も早く、この肌を切り刻むような寒さから逃れたいと考えていました。
 やがてひっそりとした路地裏で、私は座り込みました。
 ゴミ捨て場に置かれていた、みかんと大きく書かれた段ボールに申し訳程度にくるまって。ぐしょぐしょのサンタ服を脱いで絞って、肌の水分を少しだけ拭って。
 川縁から移動する前に、身を震わせて水気を払ったブリッツェンは、唯一頼れるぬくもりのもとでした。
 あったかいのに、凍えそうで。
 歯の根が合わなくて唇を噛むこともできず、いよいよ堪えていた涙が溢れてきました。
 プレゼントをなくして、服も駄目にしました。
 ほんの数十分前は、希望を胸にやって来たのに……今の自分がとてもみじめで、何とか笑ってみようとしても、前向きになろうとしても、ひきつる頬もこぼれる涙も、もう抑えきれませんでした。
「う、うぇ〜ん!! も、もうすぐ、クリスマスなのに……プレゼント、全部なくしちゃったぁ……ぐすっ、うぅ、どうして、こんなことに……」
 泣いたって、どうにもならないのはわかってます。
 それでも止まらなくて、心も冷たくする厳しい寒さから逃れたくて、さらに強くブリッツェンを抱きしめました。少しだけ苦しそうに一鳴きして、されるがままでいてくれることに、ほんの少し安心しました。
 通りから吹き込む風と、降り積もる雪が体温を奪っていきます。どろどろのぼろきれみたいなサンタ服の帽子、ぐしょぐしょのブーツ、ブリッツェンに括りつけられた傷だらけのソリだけが、私に残った全てでした。
 ぐしぐしと、冷えきった手の甲で目元を拭って、空を見上げました。はらはら落ちてくる雪は、一向に止む気配を見せません。せめて凍えて倒れてしまう前に、ここから動かないと――そう思った私の頭上が、すっと暗くなりました。
 明かりの弱いこの場所では、はっきりとはわかりませんけど……深い青色の、傘。鉛の空を遮ったそれは、通り側から差し出されていました。
 泣いて少し腫れぼったい目で、私はゆっくりと顔を上げます。
 驚いたような、困ったような顔をした男の人が、私とブリッツェンから微妙に目を逸らして立っていました。
「……あの〜、あなた様は、どちら様でしょう?」
「あ、日本語喋れるんだ……。えっと、むしろこっちが訊きたいくらいなんだけど、いったいどうしてそんなことに……いや、言ってる場合じゃないか。ごめん、ちょっとだけ待っててくれる? すぐ戻るから」
 返事をするより早く、男の人は傘を置いて、ダッシュで行ってしまいました。なんだか勝手に一人で完結しちゃってましたけど、他に縋れるものもありません。いつでも逃げられるよう、少しだけ腰を浮かせて待っていること十分ほど、さっきの男の人が割と大きな紙袋を持ってきました。
「はい、着替え入ってるから、とりあえず着てくること。靴だけはサイズがわからなかったから、適当なサイズで買ってきた。合わなかったら靴紐で調整してくれ」
「え、えっと……ありがとうございます……?」
 言われるままに受け取り、ちらっと中身を確認すると、タグが付いたままの服がごちゃっと突っ込まれています。別の小さな袋には箱から出した靴、さらに別の袋にはタオルと下着も入っていて、どうやら彼の頬が赤いのはそれが原因のようでした。
 ちょっぴりおかしくて、気持ちが楽になりました。初めて会った人ですけど、信じていいかもしれない、そう思いました。
 ブリッツェンを抱いた姿勢でそっと立ち上がり、寒さで固まった足を何とか動かして、一つ奥の道に隠れます。タオルで全身を拭いて、袋から必要な順に取り出し、かじかんだ手で時間をかけながら、ブリッツェンを支えに一枚ずつ身に着けました。
 下着はともかく、上着は男の人でも着られそうなデザインです。シャツにセーター、カーキ色のズボン。履いてるブーツとはミスマッチですけど、それを言ったらサンタ帽とはだいたい何を着ても合わないので今更です。
 そぉっと角から覗いてみると、彼は私を律儀に待っていました。着替え終わった私を見て、ほっとしたように息を吐くと、落ちていた傘を拾い上げ、肩に薄く積もった雪をぱっぱと払いました。
「それで、改めて訊くけど。どうして……その、あんな格好でこんなところに?」
 とても説明しづらい質問でしたけど、私のために着替えを持ってきてくれた厚意に応えたくて、なるべく正直に話しました。
 ブリッツェンと一緒に川へ落ちたこと。
 運んでいたプレゼント……荷物を盗まれたこと。
 行き先が書かれた紙を駄目にしたこと。
 途方に暮れてここにいたこと。
 サンタのあれこれについては、一応伏せておきました。特に大人には、信じてもらえる方が珍しいからです。
 だいたいの話を聞いて、彼はなるほど、と腕を組んで、急に懐から何かを取り出しました。指をすいすいと動かした後、それを耳に当てます。馴染みのない形なのでちょっとわかりませんでしたけど、携帯電話だと気づきました。
 しばらく相手の人と話してから、携帯を仕舞った彼は私に向かって、こう言いました。
「とりあえず、ずっとここにいるのも辛いだろうし……もし俺を信用してもいいって思ってくれるなら、屋根のあるところまで案内するよ。ええと、君と……その、トナカイ? も一緒に」
 私はイヴで、この子はブリッツェンです、と。
 伝え忘れていた名前を口にして、涙混じりの笑顔でその申し出を受け入れました。



 続きは新刊をよろしくお願いしますー。



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